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厄介者  作者: 滝沢和也
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生きていく価値

 夢をみていた。

 初めて見る夢だったのに、とても懐かしく感じた。それは、ありふれた日常の風景で、どこかふわふわしていて、くすぐったいほど心地いい。ずいぶんと昔の場面で、葵とふたりきりだった。

 穏やかで、なんの変哲もない、退屈な日々を切り取った場面だった。

『もう。トイレは座ってしてよ、汚れるじゃない』

 葵は、少しだけ憤っていた。

『小便は立ってしないと、男の尊厳が損なわれちまうんだよ。しゃがんでしてたら、クソしてるのかと思われるだろ』

『誰も見てないでしょ。そういう問題じゃないの、ふふふ』

 いつものように、ころころと葵は笑っていた。葵の甘い香りがする。どこからか、甘く切ない別れの唄が流れて聴こえた。

『葵、俺の命は、なんの為にあると思う?』

『わたしを、ぎゅって抱きしめるため、でしょ?』

『そういうことだ! 背骨が折れる覚悟しろよ』

 じゃれ合い、抱きしめようと追いかけても、するりと潜り抜けていき、捕まえることができなかった。

 これは、夢だ。甘く淡い夢だからこそ、このまま醒めないでほしい。

 叶えることもできないのなら、抱きしめることもできないのなら、ずっと夢の中にいたほうがいい。いつまでも、ずうっと。もう取り返すことも、巻き戻すこともできないのだ。

 眠っている時にだけ、寝ている時間にだけ、瞼の裏にこびりついているお前に逢える。

 平凡で平坦な、ささやかで平穏かもしれないが愛と平和に包まれていた、どうってことない、何気ない、その瞬間を思い出せる夢をずうっとみていたい。

 目覚めてしまえば、現実の世界に否応なく引き戻されてしまう。そこに、お前はいないのだから。そばで、お前は笑ってくれないのだから。

 幸せなど、その都度感じるものではない。その時には何とも思わなかったこと、奪いとるものでも与えるものでもなく、欲しがりすぎれば遠のき、望まなければ当然手に入らない、無意識な何てことない日々に降り注いでいる。

 振り返ってみた、自分の歩んできた足跡が、その人生がどうだったかだ。本当に大切なものなんて、気付かない程ちっぽけで、いつも無償でそばにあったものだろう。

 悪くない人生だった、いいや、夢の中だから言える。お前と出会えて良かった、お前は俺の全てだった。いつも明るく天真爛漫で、眩しいほどキラキラと輝く、俺にとってかけがえのない温かな太陽のような存在だった。

 俺は幸せだったよ、葵。今も変わらず。

 なァ、葵。お前は幸せだったか? こんな俺と一緒にいて笑えていたか?

『なんか言った?』

『……いいや、なにも』

 振り返ったのは葵ではなく、顔のないレイコだった。

 それもお前だ、それでもいい。夢の中と書いて「夢中」というじゃないか。あの頃からずっと夢中だったお前と、また逢えたならいい。それだけでいいんだ。

 たとえ逢える場所が、夢の中だとしても。

 もう二度と、お前を抱きしめることができないとしても。もう声や手も届かない、とてつもなく遠くへ離れてしまったと分かってはいても。たとえ、もう昇ることのない太陽が、俺の全てを熱く焦がすことすらできなくなったとしても。

 これが、永遠に続く終わりの始まりだとしても、な。


 千葉ちゃんは、よっぽどトイレにでも行きたい夢でも見ているのか、北海病院のベッドで小便だのクソだの寝言で言い、時おりニヤつき、よだれを垂らしながら、ぐっすり眠っていた。プライドが高い千葉ちゃんのことだ、漏らしてしまう屈辱的な恥辱に耐えられる訳なく、「こんなことなら死んだほうがマシだ」と暴れてしまうに違いない。

 僕はナースコールを押して、看護師に任せることにし、病室を後にした。

 千葉ちゃんの着替えも頼まれ、コンビニで必要なものを揃えてあげようと思っていた。


 千葉ちゃんの怪我は、全治六週間という重症だった。

左手の小指第一関節と左足小指の断裂に重度の火傷、背中の皮膚縫合は、刺青の絵柄も元通りにはならず、打撲や裂傷は身体の至る部分にみられ、鼻の骨折と肋骨は六本折れていた。

 そんな大怪我をしているにも関わらず、繋がった点滴を勝手に外して、敷地内全面禁煙をものともせず、あちこちで煙草を吸って、一時間おきに若い見習い看護師から怒られていた。ならばと、就寝時間の深夜ならどうかと真夜中にうろつき、不審者と間違われ、警察沙汰になったのは、つい最近だ。

 脳の検査が必要かもしれない、という医師の診断は、寝たふりをして完全に無視した。

 それでも、年配の看護師長さんを捕まえて、勝ったら外で 煙草を吸わせろというジャンケン勝負を挑むものの、どんなにやっても、なぜかパーしか出さない千葉ちゃんは、自棄になって勝手に不貞腐れていた。

「この際だ、禁煙治療でもしたら?」

「冗談じゃねえ。煙草が吸えないんだったら、死んだほうがマシだ」

 本末転倒な言い訳と頑固で意地っ張りな強がりは、昔からちっとも変わっていない。もっとも、ポリシーなのか分からないけれど、院内の自分履きスリッパも便所サンダルにする徹底ぶりだった。

 ともあれ、千葉ちゃんは元気だ。

 その後の北導會は、完全に追い込まれた形になった。

 警察の権力行使による暴力団対策法の効力は、北導會のみならず、ピラミッド頂点である総本山の本家山菱組にも影響を及ぼした。芋づる式の使用者責任を問われる現法を恐れ、本家は北導會組長をその日に破門処分し、無関係を主張した。

 組員ほとんどが逮捕された状況では、親分である北導會組長は裸の王様状態、後ろ盾も自分を支える土台もなくなった。

 逢坂以下の組員を、各種様々な現行犯で逮捕した北海道警察は、ここぞとばかりに本家が即座に無関係を主張し恐れた暴対法を最大限活用し、現北導會組員の使用者責任の容疑で、帰郷した北導會組長を女満別空港で逮捕した。更には道暴排条例も活用し、拘留した数日後に、組の解散届けを提出させた。

 北導會組長は、およそ三十七年ほど前に一般人だった千葉ちゃんの父親を刺殺し、服役していた人物だったということも明らかになる。

 これにより、北導會は壊滅、形では北見から暴力団が実質なくなった。

 大々的に全国のテレビや新聞で報道され、北見市民含め、日本国中の知るところとなった。それでも、いくら『北導會、暴力団辞めるってよ』とはいっても、結局は臭い物に蓋をしただけで、世の中が丸くなったりはせず、各々個人の本性や狂暴な性格は、きっと変えられない。

 そんな輩たちは、さらに深い闇に潜りこみ、身を隠すだけだから。

 殺人未遂、及び逮捕監禁致傷の疑いで逮捕された逢坂は、警察の聴取を黙秘で拒否し、徹底的に争う姿勢でいる。

「鴇尾の野郎はどうなったんだ」

「もう二度と顔も見ることはないよ」

「ふーん」

 僕は、ずうっと葵ちゃんを捜していた。千葉ちゃんには、大きな借りと恩があったから。

 北導會先代組長襲撃の件では、僕の身代わりになって、僕を庇って懲役に行ったのだ。誰も殺してはいないのだし、冤罪なのだ。本当に申し訳ないと、今でも思っている。

 その間に、せめて葵ちゃんだけは守ってあげたいと思っていた。 クリスマス本祭当日、急いでふたりが住む部屋へ行ったけれど、その日には、もう葵ちゃんはいなかった。

 そのまま行方知れずになってしまい、千葉ちゃんの言葉さえも伝えることができず、結果的に、僕はどうすることもできなかった。

 千葉ちゃんの大切にしていたものを守ってあげられなかったという、どうしようもない虚しさと罪悪感があった。自分の無力さに失望してしまっていた。

 戸籍を辿れば、なぜか鴇尾と婚姻関係にあり、死亡届けまで出されていた。

 愕然として、頭が真っ白になった。あの葵ちゃんが、亡くなっただなんて。考えれば、考えるほど、後悔や理不尽さに、自分を責めることしかできなかった。

 こんなこと、務めに出ている千葉ちゃんに話すことはできない。十年ほど前に遡れば、葵ちゃんにかけていただろう多額の死亡保険金を受け取っていたことが分かった。

 僕には、鴇尾が殺したとしか思えなかった。

 偽装結婚を強引にした上、死亡保険金を略取したのだと。 だからこそ、鴇尾のことは許せなかった。

 僕ができることはなんだ? 違う。僕がやらなきゃ、誰がやるんだ。

 自分に出来ることしかやらない、ちっぽけな男にはなりたくない。やりもしないで、出来ないと勝手に決めつけ、自分で限界の線を低い所に引いて逃げてばかりいる、くだらない人間にはなりたくなかった。

 無慈悲に亡くなった葵ちゃんがあまりに可哀そうすぎる、報われないじゃないか。

 殺人を立証してやる、葵ちゃんを必ず捜し出してやる、それには、あまりに月日がかかった。

 警察でも探偵でもない僕が、暴力団相手に、途方もないことだった。ただ、千葉ちゃんのため、葵ちゃんのためと思い、身の危険も顧みず、難解なパズルに挑もうと思った。

 鴇尾の何を探っても、頭の先っぽや尻尾すら出てこなかった。それは当然だ、僕のような人間に見破られるようじゃ、プロの審査を欺いて保険金など受け取れない。

 僕は、千葉ちゃんに親身になっている道警の福岡さんに相談した。もうすぐ退職する福岡さんは、情の深い、話の分かる人だった。

「どうにもね。あの千葉という男は危なっかしくてね、ほっとけないんだよ」

 福岡さんは、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「とは言っても、やっぱり元ヤクザじゃないですか。福岡さんにとったら、憎むべき相手であって、敵みたいなものじゃないですか」

「決して上品でもない、むしろ、下品で言葉遣いはヒドいものだ。礼儀もたいした、粗暴で人格もどうかと思うがな」ハハハ、と笑って返してくる。「けどね、廣嶋くん。私はね、ヤクザという生き方は嫌いじゃないんだよ。もっとも暴力団なんて言われてる、無秩序にカネ儲けして、暴力をはき違え非力な弱者に振るう、昨今の連中は許せんがな。用心棒(もり)代や風俗など、ある意味では、必要悪と思っててな」

「必要悪、ですか……」

「ああ」

 福岡さんは、とても優しい目で僕を見据えた。「程度や加減はあれ、そういうものがなければってことだ。飲食店での、みかじめ料がなくなってみろ。酔っ払いや厄介な輩とのトラブルで、女性しかいない店側も困ることが起こる。風俗などの売買春がなくなってみろ。そこら中で本能のままやりまくって、性病は蔓延する、やれ援助交際だ、不倫だの浮気は増え離婚率は高まり、強姦やレイプは当たり前に横行し、混沌とした社会になる。現に、半グレなど組織が表面化しない連中がうごめき好き勝手やりだす」

「光の裏側には、必ず影ができる」

「そういうことだ」福岡さんは、天井を見上げた。「全ての闇を消し去れば、明るい世の中になるなんて、机上の空論だよ。ただ、その暗闇の中で生きている人たちの事情や理由もある、頑なな信念や全うな気概、強い想いはどうか、それが大事なんだよ。そういう生き方が任侠であったり、昔気質の極道の世界というなら、私は警察という職で正義を重んじるが、否定することはできない」

「人間の業であったり、欲であったり、か」

「けれども、昨今の暴力団は、昔から言われとるヤクザとは違う気がしてね。シノギじゃ食えなくなってきたから、犯罪に手を染めだした。薬物をバラ撒いたり、詐欺や強盗でカネを奪う。任侠からはかけ離れ、理性の欠けた犯罪組織みたいに落ちぶれてしまったよ」

「……そうかもしれないですね」

「堅気になったからといって、男を辞める訳じゃないだろ。仕事や職業に生きるな。そいつはただの、手段だ。生きるために仕事しろ。ヤクザっちゅう生き方は、不器用な男たちの生きざまじゃないかな。特に、千葉は。私はそう思っとる。あいつは、ヤクザだの男だのって吠えとるが、人間味があって心意気がいい。口は悪いが、私は憎めないんだよ」

 僕も同感だった。

「人にとって大事なことは、そんなにいくつもないよ。何かひとつでも突き詰めて、肝心なものを大切に生きる。それが難しいのかもしらんがな。そう思わんか、廣嶋くん」

 千葉ちゃんを理解している人に出会えたことが嬉しかった。

「あの千葉に、廣嶋くんという親友がいて救われたよ。絆や友情、愛情のような目に見えないものを信じきるのは大変なことだからね。けれど、そういう見えないものにこそ価値があって、大切なものだろうがな」

 僕は、これからも千葉ちゃんをよろしくお願いします、と頭を下げた。鴇尾の話をすると、福岡さんは真剣になってくれた。

 謎解きは十年以上経過してしまったが、、雲が晴れるような具合に突然やってきた。それは今からちょうど、半年前だった。

 警察を退職して保護司になった福岡さんは、鴇尾が不動産業を営んでいるところに着目した。不動産という利点を活かした行動、鴇尾が個人で所有している土地で怪しい場所はないか、と。

 沢山のビルやマンション、売地などの保有地の中、ドンピシャの所有地があった。

 十年ほど前に、西のバイパス幹線道路開発のための宅地買取にも応じず、道路自体が歪なカーブを描いている場所があった。そこは鴇尾の所有地であり、何も建っていない更地になっているのだが、国の買い取り額は広さからいって、億は遥かに超えるはずだ。

 カネに貪欲な鴇尾が、なぜ、そこを売らなかったのか。答えは簡単だ、そこに葵ちゃんがいるからだ。そこに埋めているからに違いない。

 だが、そこは個人の所有地のため、勝手に掘り返す訳にもいかない。

 土木業者の石川興業社長は、千葉ちゃんを快く雇ってくれた理解者のひとりで、この話をしてみると、「私有地は難しいな。許可を得るか、もしくは、そいつがいない時を狙うか。なんにせよ、確証がなければこっちが訴えられる。警察を動かすにしても、その場所を何故、という話になってしまうしな」

 鴇尾自身も、千葉ちゃんが出所後には賃貸住居を斡旋したりと近づいてきた。

 一番知られたくないのは、交際していた千葉ちゃんにだろうから。自分勝手な悪さをしでかしておいて、傍でこっそり監視しながら隠そうと必死になっているのだ。千葉ちゃんも、元奈良組の下っ端という昔の立場を信じてなのか、何気に付き合いをしていた様子だった。

 もどかしく気をもみ、確証も根拠もなく、時間だけが過ぎていったが、僕にはそこに葵ちゃんがいることを、ひょんなことから知ることができた。

 それはごく最近で、千葉ちゃんの部屋で呑んだ時だった。

 相当疲れたのか、口を開けたまま、気絶するように寝てしまった千葉ちゃんに、風邪をひかないよう毛布をかけた時、

『……廣嶋くん』

 透明で甘ったるい女性の声がした。

 えッ、と辺りをきょろきょろ見渡しても、誰もいなかった。僕の前にあったのは、「桃花ちゃん?」発泡スチロールに入れられた岡山翠の腐乱した首だけだったから。千葉ちゃんの寝言でないのは、ハッキリしている。

「う、嘘だろ? もしかして、葵ちゃんなの?」

 懐かしい声は、千葉ちゃんの彼女、葵ちゃんそのものだった。

『うん』

「……ど、どこにいるの?」

 僕は思わず、立ち上がって首を振った。

『ここにいるよ。けど、廣嶋くんには見えないみたいね』

「……そうか、そうなんだ」

 驚いたけれど、僕には、やはりかというショックのほうが大きかった。

 けれど、気持ちを切り替えた。「べ、別にいいよ、それでも。葵ちゃんの声に逢えたんだから。久しぶりだね、元気だったかい? あァ、なんだか、元気っておかしいかな」

 落ち着かない気持ちもあったけれど、そうも言ってられない、これはとても重要で大切な時間だ。

「千葉ちゃんは知ってるのかい?」

『……いつも、ここに居るの』

「そうか、そうだったんだ」

 どこかホッとした気がした。「じゃあ、千葉ちゃんには?」

『見えるみたいだけど……、声は聞こえないみたいだし、顔も分からないようなの。わたしだって、気づいてないみたい』

「え?」

 どこか落胆の滲んだ、それでいて悲しい声に思えた。

『いいの。それでも、一緒にいられるから』

「……でも」

『いいのよ、廣嶋くん』

 千葉ちゃんから、そんな話は聞いたことがなかった。言わなかっただけなのか、色々と思うところがあったからなのか、定かではないけれど。

「それじゃあ、なんて呼ばれてるの? 千葉ちゃんのことだから、お化けちゃんとか、幽霊ちゃんとか?」

『レイコ、だって』

「ん? どうして、そんな名前つけられたの」

『わかんない。うふふ、けど、いいの』

 霊に子をつけたからか、はたまた、霊魂からきているのか分からないけど、どうにも千葉ちゃんらしくて、「ひどいな、まったく」

 当の本人は、呼吸する度にガーガーと怪獣のようなイビキをかき始めた。

 それから僕は、しばらくの間、葵ちゃんの声と静かに会話をした。

 昔、三人でよく遊んだこと。三人で呑み潰れたこと。三人で未来のことを語ったこと。千葉ちゃんとふたりでのこと。よくふたりでケンカしたこと。千葉ちゃんが朱音ちゃんという少女を救ってあげたこと。僕らふたりで、桃花ちゃんを成仏させてあげたこと。

 千葉ちゃんを愛していたこと。千葉ちゃんも愛してくれていたこと。葵ちゃん自身に降りかかってきたこと。

『クリスマスにね、部屋でずうっと待っていたの。いつまでも帰ってこなかったけど、特別な日だから、わたし、寝ないで待ってた。そうしたら突然、鴇尾が、』

「それはいい、話さなくていいよ、葵ちゃん」

『……うん』

 そして、もう、この世にはいないこと。

 僕はなんだか、酒が喉を通らなくなった。喉や胸の奥が詰まって、涙があふれてきた。苦しくって、切なくって、辛くなった。煙草の吸殻が、みるみるうちに溜まっていった。

 今、どこに埋められているの、なんて軽々しく訊けやしなかった。けれども、

『わたし、廣嶋くんが思ってるところに……』葵ちゃんは僕の思っていること、考えていることなど、見透かしたようお見通しだった。

「……そっか」

 やはり、鴇尾の所有地に埋められている。そんな場所なら、誰にも掘削されない。

 そこにずっと人知れず、放置され埋められていたのだ。冬には雪が積もり、冷たい土の中で、ずうっと、ひとりぼっちで。

『けどね、廣嶋くん』葵ちゃんの声は、とても寂しく思えた。『もしも、見つけてもらったら、きっとわたしは、ううん。ごめんね、仕方ないよね……』

「……なるほど、そうか」

 きっと成仏して、この世から消えてしまう。天国にでも逝ってしまい、ふたりは二度と逢えない、もう逢えなくなる。そう思った。

 それは葵ちゃんも望んでいない、千葉ちゃんさえ望むものではない気がした。互いに意志疎通できなくとも、傍に居ることができていたんだ。

 だから、きっと千葉ちゃんは出所してからも、葵ちゃんを捜そうとしなかったのだ。

 僕がやろうとしていたことは、丸っきり反対の事で、そんなふたりを引き剥がすことだった。「……僕は、どうしたらいいかな?」

 しばらく葵ちゃんは答えなかった。僕も黙っていた。

『……見つけて』

 か細く、とても寂し気な声だった。

「いいのかい」

『……いいの』

 どうにも複雑な気持ちになり、心の整理も整頓もできなかった。

「岡山翠ちゃんの件で、いいや、そろそろ北導會は千葉ちゃんを狙ってくる、報復しにくるはずだ。今までは機会を伺っていただけで、今回が導火線になるような気がする」

 僕は、スマホの受信アプリを起動させた。「どう転がるかは、分からない。葵ちゃん、移動はできるのかい?」

『うん』

「僕には、これ」

 千葉ちゃんの財布を取り、僕が手渡していた御守りを出した。「これには、GPSの発信機を仕込んでトラッキングできるんだ。これで千葉ちゃんがどこにいるのか、僕にはスマホのアプリで手にとるよう把握できる。ただ、場所が分かっても、千葉ちゃんのことは見えない、なにをされるか分からない」

『……はい』

「葵ちゃん、僕たちも覚悟を決めよう。もし千葉ちゃんが危険な目に遭い、僕が電話したら、その時の状況を教えてくれないか」

『はい』

「僕はある程度の段階で、警察に通報する。少しばかり千葉ちゃんは痛めつけられるだろうけど、なんらかの形で警察に踏み込ませる。うまくいくかどうかは分からないし、その前に、千葉ちゃんが殺られる可能性だってある。僕もいる、千葉ちゃんを守ってあげてほしい」

『……でも、物理的なことは、何もできないの。物を動かすとか』

「違うよ、そんなことは何もしなくていいんだ。葵ちゃんは、傍にいるだけでいい。だって、千葉ちゃんに葵ちゃんは見えるんだろ?」

 僕は、霜が髪の毛にこびりついた桃花ちゃんが入った発砲スチロールを抱え上げ、部屋を出ることにした。「だから、傍にいてあげるだけでいいんだ、千葉ちゃんにとっては、それだけでいいんだよ」

 葵ちゃんは、震えた涙声で『うん』とだけ告げ、声を詰まらせた。僕の言ってることと、やろうとしていることは、あまりに矛盾していたけれど。

 外に出ると、空が蒼く白みがかってきていた。僕はもう、寝ることを辞めた。

 桃花ちゃんの頭部を自宅の換気扇の下で焼き、午前九時には市役所に電話を入れ、岡山家の墓を探し当てた。遺灰を落とし入れ、手を合わせてお参りしてから、福岡さんのところへ出向いた。千葉ちゃんにGPSの発信機を取り付けた旨を話し、警察への協力を要請と相談をしに出向いた。

 ところが、肝心の警察が中々渋かった。

 二課のマル暴では、「なにフザけたことぬかしてんだ、バカヤロウ」と、いきなり恫喝される始末だった。坊主頭で、腹の出た刑事が窓口で担当した。

「大体が、そのお友達だかの千葉なんて、前科(まえ)のある犯罪者だろが。しかも、十七年ほど前の抗争で奈良組のヒットマンだった、めんこくねえ元ヤクザだ。そいつが何? 北導會に狙われてるから? 因果応報の自業自得や、くたばったら動いてやるわ」

 僕は思わず、刑事の胸倉を掴んだ。「あんた、それでも警察かよ」

「おい、調子に乗るなよ、小僧。署内で公務執行妨害とは恐れ入るぜ、お前から先にブチ込んでも構わないんだぞ?」

「千葉ちゃんは罪も償い、罰も受けたじゃないか。組だってもうない、再犯だってしていない、その辺の一般市民と変わらないだろ!」

 周りの刑事は、ただニヤついて成り行きを見ていた。

「元ヤクザっつうのと人殺しってのは変えられねえだろ。大体が、いつになんのか分からねえもん待ってるほど、警察は暇じゃねえんだよ。もっとも北見署二課は、他の仕事も兼務してるもんでな」

「どう見ても暇じゃないか! デスクに座ってりゃ、犯罪者がノコノコ自首してくるとでも思ってんのかよ!」胸倉を掴んだ拳に力を入れる。

「おい、コラ。人のこと言ってんのか、口のきき方から教えてやるか?」

 奥に座っていたトカゲのような顔つきの男が、立ち上がった。

「ああ、いい、いい」と、その男をたしなめ、「熱くなってんじゃねえよ、バカヤロウ」僕の握った手を軽く捻り上げ、あっさり解く。「実のところな、ここだけの話だ」指先をくいくいっと動かし、耳を貸せという。「ぐうの音も出せねえようにしなきゃ意味ねえんだよ、こういうことは。しかも、こいつは一回こっきりの危ねえ賭けだ、でかい博打になる。実はな、もう令状は請求してんだ、北導會の」

「え?」

 刑事は、人差し指を口にあて睨みつけてくる。「声がでけえんだ、小僧」

「……ひょっとすると、暴対法、とかいう?」

「ほう、よく知ってるじゃねえか」マル暴の刑事は、にたりと笑う。「ただ、こいつは勧告程度のションベン刑ってなもんでな。お(かみ)が考えた法令じゃ、あまりに生ぬるくってよ。もっと強烈で重い、罪を上乗せさせるんだ、そうだな、現行犯でとっ捕まえるのがいいな。傷害なんぞ見方によっちゃ殺人未遂になるし、事務所に拉致されてりゃ逮捕監禁致傷なんてものにできる」

 僕には、すぐに理解できなかった。

「いいか、こっからは、俺の独り言だ。福岡さんからの情報じゃあ、どっかの小僧が千葉に探偵よろしく、発信機を取り付けたと聞いた。本来なら、そいつは違法なんだがな。なぜか、俺の携帯にその小僧から通報が入る、俺たちはその時、たまたま(・・・・)家宅()捜索()の予定だった、そこでたまたま(・・・・)やられてる奴がいた。不思議なことにな」

 回りくどい言い草だったが、やっと分かった。

「それは、僕が、その時に、」

「一週間は待たねえぞ。俺らも、せっかちなもんでな。俺たちは、俺たちで秘密兵器を投入してあるからよ」

「秘密兵器? 一体それは?」

「悪党退治だ、悪いが他言無用でな。一番いいのは、千葉も無事で、一般市民が安心で安全な暮らしができることだろ?」

『そうね』

 と、空耳のような女性の声が腹の出た刑事の後方から聴こえた気がした。覗き込んでも、婦人警官のような人はいない。

「……そうですか、分かりました。では、もし、そんな事態の時はお願いします」

 マル暴刑事の名刺には、携帯電話の番号がボールペンで書かれていた。

「おう、千葉に伝えといてくれ」

 刑事は、煙草に火をつけ椅子にふんぞり返った。「簡単にくたばんじゃねえぞってな。遺体(ホトケ)の扱いのほうが面倒なもんでな、おい!」と、後ろの刑事に声をかける。「こんな時は、格好よく何て言うんだった?」

 さっきのトカゲのような顔つきの男が、「グッナイ!」と親指を突きだした。

「バカヤロウ! 寝かしつけてどうすんだ」腹の出た刑事は、肩を揺らして、かかかと大声で笑った。「Good Luck、幸運を祈ってるぜ、小僧」

 二課の連中は、軽く広げた手をおでこに当て敬礼をした後、腕を伸ばして笑い返してきた。

 本来なら、千葉ちゃんの身に何も起きないに限る。暴力団云々など、警察に全て任せればいいのだから。

 けれども、僕には嫌な予感がしていた。何かが起きてからでは遅いのだ。

 必ず北導會は報復を考えているはず、高知の件も訝しみ怪しんでいるはずだ。この二年もの間に、よだれを垂らしながら獲物がひょっこりと顔を出すのを狙っているに違いない。

 警察だって、北導會組員全てを追い込むまではできないはずだ。なぜなら、そんなことが出来るなら、すでにやっているはずだから。警察と暴力団の癒着や利益供与は、見えない裏の袖の下であるものだから。

 僕の予感は当たる。

 その次の日に、事態は急激に動いた。予兆もない、火山の噴火や大地震のように。

 石川興業の社長に、掘削のための重機をお願いしに行っていたところ、現場主任から電話が入った。

「……なんやて、千葉が?」

 なぜか関西弁が飛び出るほど、社長も驚愕し動揺していた。

 鼓動が跳ねた、血が熱くなる、嫌な匂いさえした。

「社長。千葉ちゃんに電話をして下さい」

 僕はその場で、スマホの追跡アプリを起動させた。すでに登録している場所で点滅している、そこは北導會の事務所だった。千葉ちゃんが拉致されたのだ。

 慌てて、福岡さんに連絡する。指が少しだけ震えていた。

『……なんやて、千葉が?』

「な、なるべく時間を引き延ばしてください」

 昨日の刑事に連絡をする。

『千葉が拉致されたらしいな』

「な、なぜそれを?」

『秘密兵器があるっつったろ? こっちも、ほかほかの令状が届いたところだ。俺の肩も温まってる、俺の剛速球でも、』

「早く、お願いします!」

『実はな、あいつにもフダが出ててな』

「……な、なんやて!」

 それどころではない、千葉ちゃんの命がかかっているのだ。「だとしたら、千葉ちゃんの、その逮捕状で突っ込んでください、急いで、早く!」

『もうすぐ現着だ。分かってるよ、お前に言われなくてもな。バカヤロウ』

 千葉ちゃんに電話をいれる。

 すぐさま、葵ちゃんの声が飛んできた。『廣嶋くん、指を!』想像がついた。ヤクザの落とし前、指を落とされたのだろう。もう僕は許せなかった。けれど、どうすることもできなかった。

「……ひ、廣嶋くん。千葉は?」

 石川社長は、顔面蒼白だった。

 何度も電話を入れるが、もう通じなかった。

 何もできない、何もできない自分がもどかしく許せなかった。僕にはもう、祈ることしかできなかった。頼む、千葉ちゃん、葵ちゃん。

 スマホを握りしめ、祈るしかなかった。

 神様なんて信じないけれど、もしいるのなら、この状況を何とかして、本当に『居る』ということを僕に信じさせてくれ、お願いだ。

 長く感じる、重い沈黙の時間を引き裂くような着信があった。マル暴の刑事だった。

『おう、小僧か。まさか、昨日の今日とはな』

「……ち、千葉ちゃんは?」

『安心しな、ホトケにはなってねえよ、けど、こいつは長くなるぞ』

 さっきの刑事の言葉を思い出した。

「逮捕状……。い、一体、なんの容疑なんですか?」

『誰も逮捕状なんて言ってねえだろ、バカヤロウ。入院だよ、ひでえ有様だ、こいつは長くなるな』

「けど、さっき、フダって……」

 かかか、と刑事は笑った。『なんでも以前に、悪名高いクレーマー退治して、暴走族のガキ共懲らしめて、盗撮犯(のぞき)見っけた挙句、振り込め詐欺の逮捕にこぎつけたらしいじゃねえか。街の治安維持貢献の合わせ技で、元ヤクザに感謝状なんぞ出るとはな。かっかっか』

「か、感謝状?」

『残念ながら、金一封は出ねえぞ? めんこくもねえ野郎に国民の税金渡す訳にはいかねえしな。もっとも、うちの署長はケチで有名でな。かかか』

 胸を撫で下ろした瞬間は、へなへなとソファにへたり込んでしまった。

 脱力どころか、変なドッキリに遭ったよう気が抜ける思いだった。眠気が、どっと肩にでも覆いかぶさってきたかのようだった。

 とりあえず、千葉ちゃんの安否と無事は確認できた。

 石川社長は、「よかった、本当によかった」と目に涙をため、天を仰いだ。福岡さんは、入院することになった千葉ちゃんを看てくれるとのことで、僕は今度、睡魔とも戦いながら、葵ちゃんの遺体を捜索することに専念した。

 マル暴の刑事は、葵ちゃんの件に関しては難しい、と話してくれた。

 自身の遺体が出てくるか、鴇尾自身の自白に伴う供述でもなければ、十五年前の出来事でもあり、立証し立件までこじつけるのは困難ではないかということだった。

「チンピラの元嫁だろ? あいつがボンクラのおかげで、こっちも随分と楽に進めたがな。無関係のお前がずいぶんと必死じゃねえか」

 まさか、本来は千葉ちゃんの彼女とも言えず、話がややこしくなるのも面倒だったから、「鴇尾が許せないんですよ」

それも、本音だったが。

 聞くと、逮捕から最大で四十八時間は警察が拘留できるとの話から、その間が葵ちゃんの遺体を見つけ出すチャンスと思い、石川社長にお願いして、道路開発の際に売却しなかった更地を徹夜作業で掘り返すことにした。石川興業の現場主任という千葉ちゃんの上司も積極的で、会社総出のような状態で手伝ってくれた。

 広大な敷地は、2000平米は超えていて、2メートルは掘り起こさなければならず、夜通しの掘削作業でも、当てずっぽうではあまりに時間が足りなかった。

 やみくもに掘り起こしても仕方ない、僕は残り十二時間を切ったところで悩んだ挙句、千葉ちゃんの部屋へ出向き、玄関のドア越しから葵ちゃん本人に訊くことにした。

 あまりに眠っていなかったからか、思考能力が低下していたのかもしれない。焦燥も僕の背中を押していた。

「……葵ちゃん、どの辺か教えてくれないかな?」

 葵ちゃんにも思うところがあったのか、しばらく返事はなかった。

 僕は正直、ものすごく悩み、迷った。

 葵ちゃんの遺体が出てきてしまえば、ふたりはもう今までのように会えない。葵ちゃんはきっと成仏してしまい、千葉ちゃんにとっては認識していないにしても会えなくなるのではないか。互いに寂しすぎやしないか、いいや、葵ちゃんがキチンと天国へ召されるか浄土へ行くことこそが良いことじゃないか、待て、それは誰かが創り出した俗な概念かもしれないじゃないか、いいことって何だ? ふたりにとって最善であって、最高の形とは?

 形なんて無くたっていい、形にとらわれることこそ勝手な先入観で思い込みだ。ふたりの幸せの形は、僕にさえ分からないものじゃないか。別れる理由も、離れる必要も、ない。

 ありきたりな答えなんか、ふたりにとってはいらない。

 じりじりとした太陽の光が、ウザかった。

 僕は思い直し、玄関から離れて、ダットサントラックに乗り込んだ。後部座席から、小さな声がした。

『いい天気だね』

「葵ちゃん……」

『……わたしも、行くね』

「けど、」

『いいの』

 葵ちゃんは、胸に詰まっていたものが張り裂けたように泣きだした。しゃくりあげ、子供のように泣いていた。

『廣嶋くん。千葉に、伝えて』

「う、うん……」

『……わたしのこと、忘れないでねって』

 小爆発するような想いが、その透明な泣き声が、鼓膜にこびりついて辛かった。

 痛すぎて、僕の胸は音を立てて張り裂けそうだった。ぐちゃぐちゃの感情な僕には、かける言葉すら見つからず、そのまま車を発進させた。


「……葵が、遺体が出てきたのか」

「うん……」

 千葉ちゃんには、あまりにも残酷で無念な知らせだったかもしれない。

 十七年もの間、冷たい土の中に埋められていた葵ちゃんは、ほぼ白骨化した状態で見つかった。警察に通報し、後は任せる旨を伝えた。

 鴇尾は、葵ちゃんの殺人及び死体遺棄の疑いで、先日再逮捕された。今回の件も含めれば、長期刑になることは必至だろう。偽装結婚による保険金略取や不動産詐欺も明らかになったということだ。

 これで何かが報われたとは思っていない。何かが解決した訳でも、誰かが幸せになった訳でもない。悲しみの終焉でありながらも、新たなる哀しみの始まりでもある気がした。

現実や真実を知ることが、全てではない。

 それによって苦しまざるえないことや、辛さを抱えて生きなければならないのは、真っ暗な絶望の海を、ただひたすらもがきながら泳ぎ続けるのと一緒で、希望という未来も、ぼんやりとした光さえもないのだ。

 僕は、そんなに強くない。こんなことには、きっと耐えられない。

 千葉ちゃんだって、きっと同じはずだ。ただ虚勢を張り、男はこうであるといった見栄や意地を張っているだけ、面子を重んじ根性だの気合だの喚いている、強がりばかり言ってる、ただの男なのだから。けれど、それを乗り越えるのも、きっと漢だ。壁ドンだかができるのが男じゃない、その壁すらぶち壊すのが、真の漢だ。

 それができるのは、千葉ちゃんくらいだということは、僕が一番知っているから。愛した人を忘れる薄情な人間じゃないと、僕は分かっている。だから、葵ちゃんの言葉は伝えない。

「鑑識で本人と分かった後、骨はどうなる?」

「葵ちゃんの両親も他界していて、警察の話では、親族などに受取人がいなければ、無縁仏になってしまうらしい」

「……俺が引き取る訳にもいかねえしな」

「戸籍上は、鴇尾の野郎が、」そこまで言って、その事実を認めるのに腹が立った。「そうだ。遺灰はなくとも、どこかにお墓を建ててあげるってのはどうかな」

「いや、いい」

 千葉ちゃんは、ぼんやりと天井を眺めながら、「岡山翠とは違って、子孫や血縁が、その墓を継いでみてあげることが大事じゃねえか。俺も、廣嶋も、みんな死んでしまったら、誰がみてやるんだ? ただの石になるじゃねえか、そのほうが、よっぽど可哀そうだろ」

「……そっか」

「ふん」

 千葉ちゃんは、どこか寂しげに窓の外をずうっと眺めていた。


 山下通りの『セヴンマート』にきていた。

ここで着替え以外の日用品でも、と思ったが、千葉ちゃんに今一番必要なのものは、紙巻き煙草の代用品だろうと考えた。ニコチンを含んだ医療用のガムも考えたが、「ガム噛んでる奴は、くちゃくちゃ調子に乗って、生意気に見えて仕方ねえ。あんなもの、ずっと口の中にあった日にゃ死んだほうがマシだ」と聞いたことがあった。中々難しい性格の千葉ちゃんだが、僕には分かり易くて、その気持ちはわからないでもない。

 客はまばらで、店員は品出しをしながら、雑談に勤しんでいた。

 僕は、千葉ちゃんの下着を選んでいた。ボクサーパンツを手にすると、レジカウンターに突っ立ったフルフェイスのヘルメットをかぶった人が、目の脇に入った。陽射しに鈍く反射する出刃包丁を握っていた。

 対応しようとカウンターの中に入った店員に向け、「カネを出せ」と叫ぶ。

 若い女性店員は、「きゃあああ」と悲鳴をあげ腰を抜かした。身を乗り出し、レジスターをやみくもに叩く。

白昼堂々のコンビニ強盗だった。

 僕は、そいつの背後にゆっくりと忍び寄り、スウェットパーカーのフードを左手で引っ張りながら、右手で犯人の包丁を握っている手首を抑え、足で膝の裏側を蹴り飛ばした。そのまま、ひっくり返す形で後ろに倒す。

 思いもよらなかったのか、スコンとあっけなく倒れた犯人から出刃包丁を奪い取り、すぐさま、馬乗りの形で両腕を膝で押さえつける。

「なにダサいことしてんだよ」

 右手で包丁を見せつけながら、ヘルメットのスモークシールドを開ける。目元は幼さの残る少年のような男だった。

「……な、なんだ。離せ、離せ!」

「嫌だね」

 僕は首を振り、目の合った店員にジェスチャーで電話をかける素振りをしてみせた。「離せなんて言って、ああ、そうですか、なんて離す人がいると思うかい。自分で何をやってるのか分かっているのかい」

「うるせえ! 俺のことなんて、何にも分からないくせに!」

「ああ、知らないよ」

 足をばたつかせ、もがきだす。けれど、ビクともしなかった。「どけろ! カネが、カネが必要なんだよ! このままだったら死んじまう!」

 へえ、とおどけてみせた。「それじゃあ、死ぬ覚悟くらいできてるんだね。こんなバカげたことができるんだから」

「もう、生きていけない! こんな社会に誰がしたんだ!」

「なら、ここで殺してやるよ」

 僕は、奪い取った出刃包丁を思い切り振り上げた。「僕がひと思いにやってあげるから」左手で喉元を抑え、目元を狙う、素早く腕を振り下ろす。

 強盗は、ひッと身を固くし、目をつぶった。

「なんだよ、覚悟が足りないじゃないか」

 出刃包丁の刃先を、寸前で止めてやった。「良いとか悪い事とかは別にして、ダサいことするなよ。人のせいにしても仕方ないし、嫌なことから逃げてばかりじゃダメだろ。自分のことを間違っているかもしれないと、少しは疑いな。正当化して出来ることばっかやって言い訳なんかしないで、死ぬ覚悟があるなら、死ぬ気になって働きな、死なないからさ」

 カラン、と包丁を遠くに捨てた。

「強盗でカネを奪うとか、簡単に死ぬとか、安易に物事考えんなよ。残された家族や周りの人のことを考えてみな。君が犯罪を冒せば、加害者家族として虐げられ、君が被害者でも被害者家族として悲しみ、君がひとりで死んだって遺族になって辛い想いをするんだよ。君の勝手な生き方に巻き込まれたら、誰も幸せにならない」

 僕から目を逸らした。こんな奴でも家族はいるはずだ。「頭を冷やして、前向きにやり直せばいい。もう少しだけでいいよ、きっとできるはずさ。生きる意味なんてないかもしれないけど、生きていく価値は必ずあるよ」

 店員数名が駆け寄ってきて、僕に代わって強盗犯を取り押さえた。

 僕は何事もなかったかのよう、転がってしまった買い物をする商品を拾い上げ、レジカウンター上に置いた。腰を抜かしていた若い女性店員が、ガクガクしながらも清算してくれる。混乱しているのか、「ありがとうございました」というところを、「温めますか?」と訳の分からない返答をよこすものだから、「いいや、そのままで構わないよ。それと、電子タバコを」と、レジ袋を受け取った。

 遠くからサイレンの音が近づいてくる。

 用は済んだ、こいつも何とかなるだろう、面倒なことはしばらくいいや。僕は、出入り口のドアへ向かった。

「……あ、あのう、お名前だけでも」

 振り返ると、眼鏡が曇り、汗だくになった店員が、媚びるように両手をすり合わせていた。名札には、『カガワ』とカタカナで書いてあり、オーナーとその上にあった。

「僕の、名前か……」

 妙案が閃き、思わず吹き出しそうになった。「そうだな、『千葉』ということにしてくれないかな」

「ち、ちばさん、ですね。かしこまりました」

 鼻歌を口ずさみながら、コンビニのドアを開けて、外に出た。

 赤いトンボが一匹、僕の目の前を飛んで行った。もうすぐ、全てを焦がし尽くし灰にして、眠ることもできなかった、とても熱かった夏が終わる。


 病室に戻ると、千葉ちゃんは眉をしかめながらベッドの上で起きていて、ぎこちない指を硬直させ、新しくしたスマートフォンと格闘していた。

 僕は、買ってきた電子タバコを手渡し、頼まれ部屋から持ってきた着替えの入った紙袋を床に置いて、パイプ椅子に座った。

「おい、ビールは?」

「なに言ってるんだよ、千葉ちゃん。そもそも、僕がなんで千葉ちゃんの着替えを持ってこなけりゃならないのさ。さすがに、パンツは新品買ってきたからね」

「誰もいねえんだから、仕方ねえだろ。おい、柿の種チョコは買ってきただろうな?」

 僕は、目の合った看護師さんに笑顔で答え、枕元に北見銘菓のチーズケーキ『真っ赤なサイロ』を置いた。

「大丈夫かい? こんなのばっかり食べて」

「注文と違うじゃねえか、バカヤロウ! 誰がお土産用のチーズケーキなんか買ってこいって言ったんだよ。甘いものならなんでもいいって訳じゃねえだろ、なんでお前は当たり前のことが分かんねえんだよ」

「なに言ってるんだよ、まったく。これはこれで、美味しいんだから食べてよ」

 千葉ちゃんは眉をしかめながらも、冬季オリンピックの女子カーリングで、北見出身のチームが休憩中に食べて一躍有名になった『真っ赤なサイロ』の小さな箱を開けた。

「ねえ、それより、感謝状の受け取り拒否したんだって? 福岡さんが嘆いてたよ」

 千葉ちゃんは、北見警察署からの感謝状を入院を理由に辞退したそうだ。

 どこ吹く風と云わんばかりに、千葉ちゃんはむしゃむしゃとチーズケーキを食べだした。

「冗談じゃねえ。そんなもの貰うためにやった訳でもないし、警察の世話になるくらいなら死んだほうがマシだ」

「今回は、その警察のおかげで助かったじゃないか」

ふん、と鼻を鳴らした。「おう、そうだ、廣嶋。なんか知らねえか? ずいぶんなタイミングでガサだったもんだなと思ってな」

「きっと、千葉ちゃんの運がいいんだよ。それと、」

 小さなテレビ台の上に置かれていた財布から、僕があげた御守りを見せた。「これのおかげだろ」

 どれもがプラスに働いたおかげ。警察の突入も、GPSでのトラッキングも、千葉ちゃんの悪運も。福岡さんだって、石川社長だって、千葉ちゃんの上司だって。

 みんなのおかげだよ。

 けれど、もしかすると神さまは本当にいて、願いが通じ助けてくれたのかもしれない。

 だって、葵ちゃんでさえいたんだからね。

「寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。俺の運が良かったら、こんな大怪我もしてねえし、神頼みが通じるなら、世の中の人間、誰も死んでねえよ」

 千葉ちゃんは、少しだけ笑みをこぼした。

「もう、千葉ちゃんの禊ぎは終わったよ」

「何言ってんだ。まだ、なにも始まってねえじゃねえか」

「走りっぱなしは疲れちゃうし、生き急がなくてもいいんだよ。ぼちぼちで、さ」

 ふん、「お前も、な」

「……きっと、葵ちゃんだって喜んでるはずさ」

「それは、どうだかな」

 千葉ちゃんの部屋へ着替えを取りにいった時、葵ちゃんに声をかけてみたけれど、返事はなかった。

 きっと、もういない。もう旅立ってしまった。それは分かっていたことだ、それでいいんだ。どこかで、必ず別れはあるものだけど、もう心配いらないさ。

 ゆっくり眠っていいよ、おやすみ、葵ちゃん。

 最後になってしまった葵ちゃんの言葉も伝えないよ。だって千葉ちゃんは、きみのことを忘れる訳がないんだから。当たり前のことさ。きっと、どこかでまた逢えるから。

 だから、君にさよならは言わない。

「千葉ちゃん。こんな時くらいは、泣いたっていいんだよ」

「バカヤロウ、男が人前で泣きっ面なんか晒すくらいなら、死んだほうがマシだよ。男だって笑ってるほうがいいに決まってんだろ」

 千葉ちゃんは、いつものように強がって笑ってみせた。

「素直になるのは、ダサいことなんかじゃないさ」

「知ってるよ、そんなことくらい、な」

 僕は顔を背け、ぼやけ霞んだ窓の外を眺め、澄んでいるはずの空を見上げた。そうでもしなかったら、涙が零れ落ちそうになったから。

「……葵ちゃん、今頃どこにいるのかな」

 千葉ちゃんは、おもむろに財布に手を伸ばし、色あせた写真を取り出した。その中には、寄り添うよう仲睦まじく笑っている、若かりし頃のふたりが写っていた。

「ここにいるじゃねえか」

 ふと、空気が揺れた。くすくすと柔らかく、そして優しく笑う葵ちゃんの声が、すぐそばで聞こえた気がした。


  ※


「千葉さーん、一服休憩入って下さい」

「……ん? あァ」

「相変わらず、素晴らしい返事ですね! なんだったら、しばらくサボってても構わないですから。おい、お前らも、千葉さんを少しは見習えよ!」

「はい、はい」

 俺が仕事に復帰して以降、何を知ってからなのか、どういう心変わりなのかは知らないし興味もないが、現場主任の待遇が180度変わりやがった。

 あまりに浅はかであざとく、全くもってアホらしい。

 今日の仕事も、舗装工事の交通誘導手前で『徐行』の旗を広げる、看板係だ。

 そんな俺を、遠くから眺め「いつも頑張ってるよね、お疲れさま」と励ましてくれるゆるふわの癒し系や、「そだねー」なんてイチゴでもくわえながら笑顔で答えてくれるめんこい娘でもいれば、やる気は出るものの、上司の急な媚びへつらう態度と愛想笑いを浮かべるニヤケ顔には、ほとほと呆れる。

 あまりにへりくだった態度が続くようだったら、そのうち、ぶん殴って根性を叩き直してやろうかとも思っている。

 交代要員に道具を手渡し、休憩に入る。その前に、尿意をもよおした。

 ここの現場は、市街地からほど遠い石北峠の麓、簡易トイレは遥か彼方。道沿いの路肩脇の土手を降りれば、膝丈ほどの雑草が生い茂っている。作業員ほとんどが立ち小便をしているのだ、俺だけ例外になる訳でもない。

 果てしない大空と広い大地の、その中で、流れる真っ白で大きな雲、大自然の山々に、すっかり色めいた紅葉の木々、澄みわたる乾いた空気、それを運ぶ冷たくなってきた風、近くを流れる川のせせらぎ、じょぼじょぼと身体から出ていく黄色い雫たち、水蒸気だが喉を愛撫してくれる電子タバコ。

 どれも気持ちいい。早く帰って、キンキンに冷えた悪魔的に旨い黒ビールでも呑みたい気分だ。が、

 突如、空気を切り裂くようなパトランプの音が響き渡った。小便はまだ出ていたが、振り返る。

「おい、そこの元ヤクザ! 現行犯だ、確保する」

 拡声器をつかって、怒鳴り声が聞こえた。

「は?」

 そこには、黒塗りの覆面パトカーと憶えのある男が二人いた。

 確か、北導會組事務所に踏み込んできた北見署二課、マル暴のでっぷりと肥えた刑事。福岡のジジイとは、すこぶる仲が良いのは知っている。運転席には、トカゲ面した野郎がニタニタと笑みを浮かべていた。

 電子タバコを咥えたまま、思わず、舌打ちした。

「お前、その煙草。俺の目の前でポイ捨てしやがったら、ただじゃすまねえぞ」

「おいおい、知らねえのか? こいつは電子タバコつって、火は使ってねえんだよ。んで、なんの現行だって?」

 それでも、小便はしたままだった。

「軽犯罪法一条二六号違反だ。パトカーに乗れ」

「ちょっと待て。そいつは知ってるぞ、市街地や公園でしか適用されねえはずだ、立ち小便のこと言ってんだろ」

「堂々と俺の前でやりやがって、めんこくねえ。座ってしろ、バカヤロウ」

「クソしてるのと間違われたら、たまったもんじゃねえだろ」

 男なら、立って小便をすると疑わない。それが真の男、男の中の漢である。

「なんやて? ならば、刑法一七四条。公然わいせつ罪やで」

「なんで関西弁なんだよ、まったく。そいつだって、不特定多数の目に触れた場合じゃねえか。誰もいねえだろ」

「俺が見せられた」

「……コノヤロウ、フザけんな。黙って聞いてりゃ、そういうの職権乱用っていうんじゃねえのかよ、寝言なら寝てから言えや」

「フザけてんのは、お前だ」

 マル暴の刑事は、含みのある笑みを見せた。「凝りもせずまたしても、山下町のコンビニで強盗を取り押さえたらしいな、千葉。お前にまたフダが出てるぞ。市民栄誉賞でも獲るつもりでいんのか? 今度は逃がさねえ」

「はァ?」

 全く身に憶えもない。

 もっとも、コンビニ店長の香川なんて俺の名前は知らないはずだがな。舌打ちをして、刑事のほうを見る。少しだけ驚いた。

「……人違いだろ」

「おいおい、千葉。自分でやったこと忘れた訳じゃねえだろうな? だが今日はな、別件で引っ張る為に来たんだ。そのコンビニでおにぎり万引きしやがったろ。うちの者が」と、親指で運転席に乗ったままのトカゲ野郎を差した。「全部見てんだよ。お前が入院する相当前だがな、脇が甘えんだ、元ヤクザ」

 あのトカゲ野郎!

 香川の野郎も被害届けまで出しやがったってのか。そもそも俺の名前も知らないだろが!

「おいおい、そんなダセえことする訳ねえだろ。それなら三倍のカネ払って示談は済んでる、文句はねえはずだぜ。そこまでして、パクりてえのかよ。随分と俺のことが好きなようだな。いい趣味してるが、あいにくデブとトカゲは嫌いでな」

 かっかっか、とマル暴の刑事は、「こいつは生まれつきだ、バカヤロウ」

「だとしたら、あんたの母親は産む時大変だったろうな。で、そんな濡れ衣で引っ張るつもりか?」

「ドアホ、現行犯だ! そのぶら下がってる、汚ねえ()を俺に向けやがった、銃刀法違反だよ! それにしちゃ、お粗末すぎるし、骨とう品みてえだな。錆ついてるみてえだし、水鉄砲だけどよ」

 刑事は思わず吹き出して、でっぷりとした腹を抱え大声で笑いだした。

「くだらねえ、眠てえことばっか言ってんじゃねえぞ」

 俺も、笑いが込み上げた。

 意外と、公然わいせつってのは当てはまってる気がしてな。「つか、刑事さん。お互い、こんなんじゃァ、浮気や悪いことひとつもできねえな」

「……なんだと?」

「あんたと一緒になって隣でげらげら笑ってる婦人警官がいるけどよ、そいつは誰なんだ? ガサの時も来てたぜ」

「……ほう」デブの刑事は、にんまりと笑みを浮かべた。「お前が、まさか見えるとはな。こいつは、今でも俺が愛してやまない死んだ女房でな」

 なるほど。

 警官同士で結婚して死に別れたってとこか。それでガサの時も一緒だったのか。どうやら、まだ愛おしいのか。それとも、呪いたいほど執着しているのか。

 どっちだろうが、俺の知ったことじゃない。

 ぬけぬけと愛してやまないなんておのろけるデブ刑事のほうが、今でも惚れてやがんのかもな。

「憑りつかれるほど愛されてるなんて、幸せじゃねえかよ」

「おいおい、人のこと言えんのか? お前の後ろにも首のねえ女がいるじゃねえか、バカヤロウ」

 この世に生まれた意味なんて考えちゃいねえけど、これからも生きていく理由や価値はあるかもしれない。

 死んだほうがマシだなんて、バカげてるよな。

「……なんやて?」

 なんて、俺にとってはごく当たり前のことを言われたが、驚くふりをして振り返ると、やけに太陽が眩しく感じた。

                  (了)

完読ありがとうございました!

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