過去
本当は、前々から気付いていた。
レイコが、葵なのではないかと。薄々というよりは、そう思わないように過ごしてきたというのが、本音で本当のところだった。
顔がなくとも仕草は葵そのものだったし、色はなくとも若い頃、葵の好んだ服装だったし、何より、葵の香りそのものが漂えば、疑う余地はどこにもない。
少女の朱音、上の部屋にいた岡山翠同様、俺に助けを求めてあの世から出てきているような気がしていた。死んでいながらも、魂だけは形になって、傍にいてくれるんだと。
だからこそ俺は、見てみぬフリをして、レイコと一緒に過ごしてきた。
何かを解決して、もしくは、遺体か骨を見つけ成仏させてしまえば、こんな姿形であっても、二度と逢えなくなるのではないか。もう逢えないならば、もう話もできないならば、もう死んでしまっているならば、このままでいいのではないか。
レイコがきっと葵なら、それでいい。それだけでいい。
レイコという葵を失うのは、俺にとって怖かった。葵が化けて出てきた、レイコという形でも良かった。二度も葵を失うのは、なにより怖かったから。愛したものを、二度も失うのは辛すぎる。
独りは寂しかった。これ以上、寂しくなりたくなかった。寂しさに傷つけられるのは、もう懲りごりだ。葵の終わりを認めてしまうのは、どうしても出来なかった。
記憶の中の葵に埋もれ、目の前のレイコと暮らしている自分で良かった。
ヤクザ風情の俺が情けないのは承知だ、みっともなく、しみったれて惨めったらしい、俺が作り出した妄想かもしれないが、それは本心だった。自分に嘘はつけない。
お化けだろうが、嘘だろうがいい。幽霊だって、幻覚だって構わない。たとえ俺を恨めしいと、憎らしいと、嫌われようと、化けて出てきた霊魂だろうとも、それでも良かった。
俺の禊ぎや贖罪、罪滅ぼしの念や戒めの想いが形になったとしたなら、それだけで俺は救われる。誰だって苦しい想い、辛い思いはこりごりだろ。離ればなれになってしまうなら、どんな形でも、一緒に居られるほうがいいに決まっている。愛したものを簡単に忘れるほど薄情ではなかったし、忘れてしまうことなんか、俺には出来なかった。
だから、レイコは一体誰なのか、そんな詮索や干渉はしないことにしていた。
実際のところ、朱音や岡山翠のように遺体が出てきてしまえば、極楽浄土なのか、あの世へ逝ってしまうのか、成仏して消えてしまうことが分かった。
それは正直、前々から想定していたことだ、からこそ、尚の事、だから、レイコが葵であってしまってはという葛藤と逡巡があった。
本来なら、出所してすぐにでも、葵の消息を辿り探すのが筋だろうが、それはしなかった。レイコは、出所後すぐに現れたからだ。 そこで葵はもう、この世にはいないと確信した。
従来の俺なら、犯人を捜し出して殺しに行ってることだろう。だが、それもしなかった。
葵は、もういないのだ、犯人を殺したところで戻ってはこないのだ。
俺の復讐心と失望や虚無感を鎮めてくれたのは、葵自身が出てきてくれたおかげ、俺の傍に、顔は無くとも、また来てくれたこと。そこでもう、俺は充分だった。
これでいい、決して満足いくものではないが、少しばかりは心の隙間が埋まるじゃないか、互いの幸せからはかけ離れているけれど、俺を憎んで恨んでいるかもしれないけれど、声も聴こえない、顔さえ分からないけれど、そう思い込んで日々をやり過ごしていた。そんな日常に埋もれているほうが、良いとさえ思っていた。
そのレイコが、葵の姿そのままに戻って、目の前に立っていた。
いよいよ俺を迎えにきたものか、そうは思ったが、様子が違う。今まで見たこともない表情だった。
瞬きもせず、ぴくりとも動かず、ただ一点を睨みつけるよう見つめていた。その先は、鴇尾だった。よほどの怨み辛みがあるのか、俺には、この世に相当な未練を残した怨霊のよう映った。
音もなく、鴇尾へ近づいていく。
真ん前に立ちふさがり、顔はあと数センチというところで睨みつけると、葵がニターッとおぞましく笑った。胸元までの長いストレートな髪は、若い頃の昔のままで金髪のメッシュが入る明るい茶色だったが、大きな瞳は余計おどろおどろしく、可愛らしかった八重歯が、吸血鬼の牙かのよう不気味に映って見えた。
俺の背筋に寒気が走った。
「……あ、葵じゃねえか」
「ひゃははは、なに言ってんっすか、この人」
鴇尾は見えていないのか、ヘラヘラといつまでも笑っていた。
向かい合って並んでいるふたりの笑みの質が違いすぎて束の間、痛みや熱さなど忘れ、生唾を呑みこむのがやっとだった。
「いよいよ狂ったか、ふん」
逢坂の冷たい声が、首筋をなぞった。「そういや手前ェ、たいした生意気な刺青背負ってんだろ。そいつ一枚皮で全部剥いでやるわ、おい、道具持ってこい」
葵のことは、誰にも見えないのだろう。
やはりこれは、俺が作り出した幻覚なのかもしれない。もう、それでいい。最後に逢えたんだ、それだけでいい。
逢坂は、俺が入れた刺青の背中から腕、胸の皮膚を裂き、皮ごと削ぎ、生きたまま剥ぎ取るつもりだ。肌を破く、そんなものに意地や根性で耐えられる訳がない。
「……こ、殺してからやれ」
「誰が手前ェの言う通りにすんだ、ボケ。それじゃ、つまんねえんだろ」逢坂は、切り裂かれた耳を引っ張り上げた。「本当はよ、手前ェが先代のクソみてえな爺獲った時みてえに、車で撥ね飛ばして、トドメに頭弾いてやろうと思ったんだがな。真夏じゃあ、雰囲気でねえだろ?」
ふん、なにも知らねえくせしやがって。
俺は束の間だが、心の奥底で笑ってやった。
鴇尾は大げさに、「なまら、いいっすね! それじゃあ、冬まで死なねえようにいたぶって待ちますか? ひゃはは」と笑いやがった。
それを葵は、鴇尾がケラケラと動くのに合わせ顔を近づけたまま、私を見ろ、とでも言っているかのよう、無表情に未だ睨み続けている。
若衆が銀色のトレーをカチャカチャといわせながら、運び込んでくる。逢坂の屈んだ足元、俺の顔の前に置く。トレーには、手術で使用するような大小のメスや、綺麗に研がれている柳葉包丁、糸ノコギリまでが乗っていた。と、
またしても、俺の携帯電話が鳴り響く。
逢坂は舌打ちし、「うるせえな、電源切っとけ!」明らかに苛立っていた。
「はい」と、傍にいた若衆が携帯を握ると、「こいつの周りに気付かれたら、面倒になりますよ」鴇尾が指摘した。ふん、鼻を鳴らした逢坂は、掌を広げて「よこせ」と命令する。
「こいつは誰だ」
液晶画面に表示されていたのは、廣嶋だった。
どろりとした粘っこい汗が流れた。「……知らねえな」
「知らねえ訳ねえだろ、なんだ、この廣嶋っつう奴はよ」
鴇尾が口を挟む。「あァ、そいつなら街でバーやってる、こいつの連れですね。大したもんじゃないっすよ、無害でしょう」
葵がゆらりと動き、今度は逢坂の顔を覗き込むようにして、俺の視界を遮った。
実際には俺からは透けて見え、逢坂には、まるで見えていない。「出ろ」と逢坂は睨みつけながら、俺の耳に携帯をあてがう。その隙間で、葵の口元がなにやら動いて見えた。
「……どうした」
『千葉ちゃん。指落とされたのかい?』
いつもの明朗で、ほころびもない廣嶋の声ではなかった。この事態に憤怒しているかのようだった。
「い、いや」
なぜ知ってる?
お前に分かるはずもないだろ。まさか、さっきの葵の仕草? そんなバカな――。
『そこにいる奴と代わってくれ』
「……ダメだ。お前は、関係――」
廣嶋は、電話口で大声をあげた。『お前、逢坂だろ! 代われ!』
「なに?」逢坂の頬が歪んだ。
「やめろ、廣嶋!」俺も叫んでいた。「逢坂! もういい、早く切れ」
すでに、逢坂は携帯の通話を切っていた。ガラケーを叩きつけると、バッテリーが外れ、液晶画面も割れ、バラバラに砕け壊れた。
「手前ェ、なに気安く人の名前言ってんだ、コラ」逢坂は立ち上がり、俺の鼻を蹴った。鈍痛で鼻が潰れたことが分かった。「こいつ、勘ぐってやがるのか。なぜ、俺がいることを知ってるんだ、オ?」
「知らねえ」
本当に分からなかった。葵が何かを言ったような素振りだったが、声も聴こえず分からないし、そんなはずはあり得ない。
ただ、逢坂たちに知られてはいけないことがあった。
だからこそ遮りたかった、あの廣嶋の勢いなら暴露しかねないと思ったのだ。そうすれば全てが水の泡、俺の今までの人生の価値や意味すらなくなる。
俺と廣嶋には、ふたりで固く約束した墓場まで持って行かなければならない隠し事があった。
※
俺は、結局のところ、一家である奈良組の忠義と命令には逆らえず、鉄砲玉に任命された。血を流すことでしか決着、終結はしない、ヤクザの鉄則がある。
北海道の十二月は真冬の雪に埋もれてしまう、寒さが厳しい季節。道東にあたる北見市は、盆地特有の冷気と、オホーツク海からの流氷の影響を受ける、息も凍るほどの地域だ。
事前に相手の親分のことは、調べ尽くされていた。
ボディガードを従えていない、ひとりになる時、それは愛人のマンションへ逢瀬を楽しむため、深夜に出向く時だった。そこが格好の場所であり、そこしかないピンポイントの隙だ、と。それ以上に、俺にとっては驚愕の事実を知ることになった。
あの粋で気さくな気前のいいおっさんが、北導會の親分だったなんて。いいや、あのおっさんならうちの親父に言いかねない、間違ったことしてんじゃねえよと。
俺は、ヒットマンを命ぜられ、拳銃を手渡されてからというもの、毎日というほど愛人のマンションが見える近くで、寒さに耐えながらも外で張り込んでいた。
全てを終わらせるためには、俺がこの指を絞らなければならないのは、承知だ。
たとえ、俺の全てを失うとしても。それが組に対しての仁義であり、親に対しての忠誠心なのだから。
ただ、その前に親分であるおっさんと話がしたかった。
こんな無意味で不毛なことをなんとかできないものか、俺だって、こんな真似したくねえんだ、あんたなら分かってくれるだろ、皮肉なことに俺が鉄砲玉になっちまったんだ、いいや、俺がなったから伝えることができるんだよ、あの身辺書に書かれていたことは本当なのか。
二週間が過ぎても、互いの小競り合いは頻繁に起きていた。
組からは、いつやるんだ、シャブでも食って早くやれ、逃がしたんじゃねえだろうな、根性なし、と急かされた。
北導會の親分、白髪のおっさんも警戒しているのか、現れない日ばかりだった。
深夜に人や車が通る日もあった。本音を吐露すれば、俺の前に現れるな、いいや、話がしたい、と祈るよう願う日々だった。
あの寿司屋には、出向かなかった。そこにおっさんが居たとして、どんな顔をして話をしたらいいのか分からなかったし、抗争中の親分と鉄砲玉が一緒のところを目撃でもされたらたまらないからだ。
葵には、なにも言えなかった。俺が鉄砲玉になったということさえも。
何も知らない葵は、部屋で俺をいつも待ってくれていた。
俺でさえ、今日も実行できなかったという口が裂けても言えない安堵を抱えながら、葵が待つ部屋へ帰り、毎日抱いた。
その温かい肌と匂い、葵の声、互いの鼓動だけが生きる喜びを、ひとつになれることで、まだ生きているということを実感できた。 それだけが、生きているという証であって、それを目に、耳に、鼻に、唇に、舌に、肌に、手に、指に、全身に、脳に、心に、記憶に刻み付けること、焼き付けることが生きていることと感じた。
「ねえ、わたしのこと好き?」
「当たり前のこと訊いてくんじゃねえよ。そうじゃなかったら、こうしてないだろ」
「女の子は、いつだって聞きたいものなの」
「男は軽々しく言うもんじゃねえんだよ」
「それじゃ、クリスマスくらいは一緒に居てよね」
「……うん? あァ」
「よかった」
「なァ、葵。実はよ、」
「なあに?」
「……いや、なんでもねえ」
葵は、満面の笑みで頬にキスをしてきた。
いつまでも葵と、こうしていたい気持ち。好きだという感情だから、惹かれたから、惚れたから、愛してしまったからこそ、俺なんかと一緒にいてはいけないんだ。俺みたいな奴と関わると、お前が不幸になっちまう。それは、俺が本当に求めていることでは、ない。
失うことが怖かった、人を殺さなければならないことが、怖かったのかもしれない。
正直、こんなことなら死のうと、命を断とうとも思った。 俺が死んでしまえばいい、そんな風にも思った。鉄砲玉なんて、片道切符だ。殺す覚悟も必要だが、後々殺される覚悟もいる。だとしたら、相手を弾くこともしないで、全てを捨て、どこか遠くへ逃げてしまえばいい、もうこの世から消えてしまったほうがいいのではないか、そうも考えた。
だが、できなかった。何もかもが嫌になっていた。
俺はなにがしたいのか、どうすりゃいいのか、これが一体何になると考えては、殺らなければならないと開き直り、その先はどうなるものかと未来を見据えては、所詮、ヤクザだと悩み、おっさんが現れなくて良かったと葛藤する、そんな矛盾する堂々巡りな想いを抱えた日々だった。
三週間が経った、クリスマス・イヴ。
時刻は深夜二時を過ぎ、しんしんと雪が降り続くホワイトクリスマスだった。音もなく、視界は真っ白な中、いつものように見張りをしているとタクシーが到着した。
降りてきたのは、北導會の親分、組長のおっさん、ただひとりだった。俺の心臓は、ズキンッと一気に跳ね上がった。
タクシーはドアを閉め去っていき、親分は天を見上げ、雪の降る夜空をしばらくの間、眺めていた。手には、クリスマスケーキのような箱を持っていた。
新雪を踏みしめ、近づいて声をかける。
「おっさん」が、次の瞬間、
ヘッドライトが眩しく光り、雪道にも関わらず、猛スピードの車が突っ込んできた。
北導會組長が顔を振ると同時に、身体を宙へ撥ね飛ばした。人形のような親分は、回転しながら地べたに、ぐにゃりと落ちた。
フロントがべっこりとヘコんだダットサントラックから降りてきたのは、赤いダウンジャケットを着た、当時は真っ金髪にしていた廣嶋だった。
ヘッドライトはひしゃげて、天を向いていた。
「千葉ちゃん、どこだ!」
俺は、滑る雪の上を駆け寄り、「……お、お前、なにやってんだ」
「行こう」
「フザけんなッ!」俺は、声を荒げた。「なにやってんだって訊いてんだ!」
「違うんだよ、千葉ちゃん」廣嶋は落ち着き払っていて、辺りを気にしながら、声を押し殺した。「嵌められてんだ、組同士で、もう話は済んでるんだよ」
廣嶋の胸倉を掴んだ。「でたらめ言ってんじゃねえぞ」
「信じられないのも分かる。けど、それどころじゃない」
「だからって何だこりゃ、ア?」
「千葉ちゃんが殺される」
俺が? なぜだ。
「……なんだと?」
「僕の店に、北導會の若頭がひとりで呑みに来たんだ。そこに奈良組の若頭が合流して、コソコソ話をしていたんだよ。耳をすませば、『条件は、そのヒットマンの命でいい』『それで、本家に話通してくれるんだろな』『元々は親戚じゃねえか。抗争の手打ちにしちゃ、安いもんだろ』『そっちは、どうなんだ?』『だから、早く片付けろよ。ボケた老いぼれは、うちもいらねえんだよ』『痛み分けってやつだな』『痒くもねえけどな』とね。私利私欲にまみれた陰謀だ、上同士で共謀している汚れた談合なんだよ」
「……う、嘘だろ?」
耳を疑った。信じられるはずもない。
組が、俺を鉄砲玉の捨て駒にしたうえで見放し、裏切るだと? 一家のために尽力しようとしている俺を見殺しにしたうえで、本家山菱組への土産にするだと? 子分を見捨て、餌か出汁にして、旨い話に乗るってのか?
「逃げよう! その親分だって、これくらいじゃ死なない」
俺は、動けずにいた。なにも考えられなかった。
「救急車を呼ぶ、逃げるんだ。早く、千葉ちゃん!」
「……い、痛ええな、おい」
矢先、後ろからの声に振り向いた。
手足があべこべになって瀕死状態になっている、雪まみれの北導會組長だった。
廣嶋の胸をどんと押し、ゆっくりと近づく。
「お、おっさん」
「……あァ、千葉じゃねえか、ハァハァ、お前が、奈良組の、ヒットマンにされちまうとはな……」親分は、ふっと笑った。「嵌められちまったな、お前も……」
「本当、なのか?」
「……う、うちの、ろくでもねえ若頭が、わしを出し抜こうと、絵描いたんだろ。みっともねえ、身内によ。お前ぇんとことは、袂を分かちあったとはいえ、同じ地元で、兄弟盃は交わしてねえが、親戚だったってのによ」
親分は、降り積もってくる雪を味わうかのよう、仰向けのままで天を仰いでいる。「その兄ちゃんの言う、通りだ。ハァ、妙な動きに気付いた時には、わしァ、蚊帳の外でよ。この場所も、うちの者がリークしたんだろ、ハァハァ。しばらく、身ィ隠してたんだがな、今日は、クリスマスじゃねえか、女が待ってて、なァ」
呼吸が荒くなってきたようだった。ヘッドライトが親分を照らす。
俺はいつのまにか、敵対する組長を抱きかかえていた。細く軽い老体は、魂の抜ける寸前だったのかもしれない。廣嶋も駆け寄ってくる。
「……おっさん」
俺は、親分本人からどうしても訊かなければならない質問をぶつけた。組が調べ上げた身辺書に記載されていたことだ。「今から、二十年も前の話だ。あんた、俺のおやじを知っていたのか」
おっさんは、柔らかな笑みを浮かべた。「……すまねえな、黙っててよ」
訊きたかったことは、それじゃなかった。
「……それで、本当に、そうだったのか?」
「あァ……。申し訳ねえ」
俺は産みの父親とは、面識がない。
なぜなら、俺がおふくろの腹の中から生まれ、つかまり立ちができるかという幼少の頃、堅気ではあったが荒くれ者だったらしい父親は、北導會によって刺殺されていたというのだ。
父親のことなど知る由もなかった。理由や死因も別に、知ろうとも思っていなかった。
おふくろに至っては、父親と何があったのかは分からないけれど毛嫌いしていて、話してくれた憶えもなかった。物心がついた頃には、家に出入りする男がころころ変わっているような、どうしようもない母親だったから、教えてもくれなかったのだろう。もっとも、小学低学年だった俺を残し、たった三日分のカレーを作ってどこかへ蒸発する身勝手な女だ。その時の俺は、鍋ごと床にぶちまけ、そのまま家を出た。駅にいれば、寝泊まりができると考えたが、すぐ警察に保護された。施設に預けられ、周りに身よりのないまま育ち、中学を出てすぐ、どこへ行く当てもなく奈良組に就職していた。
別に、そんな生い立ちだからと両親を恨んだりはしていない。ある意味では、俺にとっての反面教師で、手前ェのことしか考えない悪い見本になってくれたこと、俺をこの世に産んでくれた感謝はしている。そんな俺が、家族の温かみや両親からの愛情など知るはずもない。思い出もなく、顔さえ忘れたのだから。
「些細な喧嘩でな。飲み屋でうるせえだなんだと言ってきたのが、千葉、お前の父親でよ。こっちは、五人ばかり居たってのにも関わらず、ビール瓶振り回して、な」
「そ、それで?」
「ふん、ヤクザ者が情けねえ。そん時に居た若え衆が、カッときて、持ってたドス抜きやがってな、ハァ」
「お、おっさんは、その場に居ただけじゃねえか。何もしてねえんだろ」
ふっと薄く笑った。粉雪のような細かい結晶が舞っている。
「だからだ、何もしてねえからだよ。そん時のわしは、若頭になったばかりでよ、ハァ、保身や先を考えちまって、そんなくだらねえ喧嘩を、止めることもできなかった。そいつを、今でも悔やんでる。殺しちまうまで、やる事ァねえだろ、てな」
俺は、なにも言えやしなかった。
「堅気に、ましてや、わしらは、たったひとりの男に。そんなバカげた話があるかってんだ。どっちが吹っかけたとか、筋がどうとか、そんな事ァ、ヤクザ者だったら余計考えなきゃいけねえだろ。やり過ぎて、取り返しのつかねえことしちゃ、いけねえよ」
奈良組の連中にしてみれば、ちっぽけな命のことなど屁とも思っていなく、誰も教えてはくれなかった。ひょっとすると、敵対する北導會へ格好の大義と戦争をする理由が奈良組に入ってきたとでも思っていたのか。
結局のところ、世の中からみたら俺なんて腫れ物のような厄介者で、実の両親からも見捨てられる煩わしい存在でいて、組からすりゃせいぜい、鉄砲玉に担ぎ上げて粉々に砕け散る絶好の爆弾でしかなかったというのか。
「……だから、俺のことを?」
「辛え想いさせちまっただろ。あんな飯くれえ、罪滅ぼしにしちゃ些細だし、償いにもならねえけどな。すまなかった、ハァ」
「俺になんか、謝らなくたっていい。極道相手に無謀だった俺のおやじが悪いじゃないか。こうして俺は生まれてこれたんだし、父親が存命していたところで、俺はどのみちヤクザになってた」
「顔なんか、い、生き写しみてえで、そっくりだよ、千葉。お前の父さんも、無鉄砲でやんちゃでな、ハァ、ガキがいたのか気になって、後々探ってみたら、奈良組に入ったなんて、な。それ思い出しちまってよ、お前ェんとこの組長が調子に乗ってたもんでな」
「……そうか。そうだったんだな」
疑問がひとつ浮かんだ。
「待ってくれ。ひょっとすると、俺の実の父親を刺した、その若衆ってのは?」
あァ、と苦虫を噛むような表情になった。「……わしを嵌めやがった、今の若頭だ。わしは元から反対したんだ、けどよ、そいつが出所後に、本家古参からのご達しで面倒見るのが、親の役目だろってな。ハァ、それが、このざまだよ、みっともねえな」
廣嶋は、凍り付いたかのように呆然と立ち尽くしていた。
「どうして、こうなる前に……。俺は、おっさんと話がしたかった」
「バカ言うな、ははは、敵対してる、ハァ、ヤクザ者同士が、」
「だからだ!」俺は、思わず叫んだ。「話さえ、話さえできれば、」
「おいおい、千葉。ずいぶんと、ヒヨっちまったじゃねえか。お前んとこの奈良組とは、兵庫とは戦争中なんだぞ。やられることばっかり、考えてるヤクザが、ハァ、いるのか? 仕方ねえだろ、わしァ、なんとも思っちゃ、ハァ、いねえよ。ましてや、お前の、父親殺っちまってるんだし、な」
「あんたは何もしてねえだろ! もっとも、昔の話じゃねえか。今の親父は、」
そこまで言って、俺を嵌めようとしている組に憎悪のこもった嫌悪が起きた。
人の人生を面白おかしく傍観し、後ろ指をさして笑われている気がした。父親の復讐を息子が果たすはいいが、その俺の命すら組のため、勝ち負けのために消すというのだ。
奈良組にも、親父にも、若頭にも、親分の頭を踏んづける北導會にも、その腐った図柄にも、全てに対して反吐が出そうだった。やり場のない怒りに満ちた。
俺は、ただの駒みてえな存在でしかないのか。
「お前ェは、たいしたもんじゃねえか。親の命令とはいえ、今ァ、鉄砲玉になる若衆もいねえ、どこぞの組長自らやりに行くなんて時代によ。お前ェはこれからの人間なんだ、生きろよ、なァ。こっから先、色々とキツいけどな、ハァハァ、負けんじゃねえ、ぞ……」
「あなたを、こんな目に遭わせたのは、僕だ」
廣嶋がそんな事をいうものだから、「……ちょっと待っててくれ、おっさん」俺は、親分をゆっくりと堆積している雪山に上半身をもたれかけるようさせ、廣嶋を思い切りぶん殴ってやった。
「フザけるな! お前には何も、大義名分も理由も動機も、筋すらねえじゃねえか。これは俺たちの世界の話だ、一切関係ねえ」
ぶっ飛ばされた廣嶋は、雪の上で大の字になったまま倒れていた。雪と色が同化するほどの長い金髪に、鼻からの血しぶきがかかって赤くなった。
「……よう、金髪の兄ちゃん。あんたは、間違っちゃいねえんだよ」
親分は、ひだまりのよう穏やかに微笑んだ。「あんた、堅気の素人だろ? 組ィ構えてる親分が、車に轢かれましたとあっちゃ、格好も示しもつかねえじゃねえか。ハァ、まったく、今のヤクザ者はどうかしちまった、時代か、な」
俺はもう一度、北導會組長のそばに寄った。
親分はしわがれた顔を、くしゃくしゃにして笑みを浮かべた。「そうだ、ついでだ、兄ちゃん、頼めるかい?」
「……な、なんですか」
廣嶋は、ゆっくりと起き上がる。目には、なぜか涙を浮かべていた。
「その、ケーキを……」ひっくり返っていたケーキの箱を指し、「女んとこの、そこのエントランスでいいや、置いといてくんねえか。たぶん、わしのこと、いいや、サンタだかを待ってるはずなんだよ」
「……分かりました」
「すまねえな。少しだけ、千葉とふたりで、話させてくれや」
凍りそうな鼻血を手袋で拭った廣嶋が、ケーキの箱を抱えながらとぼとぼ歩いていく。
「いい兄ちゃんじゃ、ねえか。お前の為に、やったんだ、見逃してやれよ」
「……あ、あァ」
俺は、ふと思い出した。いいや、もっとおっさんと話していたかった。「……そうだ、おっさん。男の拳の意味は、何だったんだ」
「おう、よく、ハァ、憶えてたな。大事な、ことだ、肝に銘じておけ、よ」
おっさんは束の間、肩を揺らした。「握り拳にして、人様を殴ったり、ハァ、相手を、握り潰して傷つけるもんじゃねえ。殴ったこっちだって、ハァ、痛えじゃねえか。だから、お、おっぱい、だよ」
「……はァ?」
「手を、こうやって、開いてな」おっさんは、俺の頬をやさしく撫でた。それはまるで、自分の父親にされているかのような温かな錯覚がした。別れを惜しむような仕草にも思えた。「おっぱいを、ありがたいと拝みながら、揉んでやるために決まってるじゃねえか。愛した人、愛してくれた女を喜ばせて、ハァ、初めて、一人前の男だ。ハァ、女は、愛嬌が大事だ、それは男が、いつも笑顔にさせてやらなきゃいけねえんだよ、分かるか?」
「そ、それじゃァ、ジャンケンってのは……」
にこり、と痛みの中でも屈託のない笑みを浮かべた。「グーに勝てるのは、パーだけじゃねえかよ、ハァハァ、はははは」
「フザけたこと言ってんじゃねえ!」
「……いいか、千葉」
親分は、目に力を込め俺を見据えた。それは男の真っ直ぐな眼だった。「女、泣かすんじゃねえ、ぞ。お前が懲役、行ってもだ、きっちり守ってやれ」
「…………」
「い、命はな、熱く燃やすためにあるんだ。焼きついて動かなくなっても、ハァ、焦げついてしまっても、どんなに傷だらけになっても、真っ白な灰になるまで、な。それが男の、生き方、ハァ、わしらの生き様、だからな。必ず、生き抜け。男同士の、約束だぞ」
俺にはヤクザとして、いいや、人として男として生きる大事で大切なことを、産みの親でもなく、育ての親でもない、仇の親から教わった。実の父を見殺しにした、本来ならば敵である親分から教えてもらった。
おっさんは、俺を支えに、雪で踏み固められた地べたに自力で膝をついた。
「……あァ、分かった」
「なんでだろうな……。元々は同じ代紋の家族、同じヤクザ同士、人間同士なのによ。あァ、そいつがヤクザって世界なのかも、しれねえな。人間だから、てやつか」
苦笑の中に苦悶している表情が痛々しかった。
「いい顔になったじゃねえ、か、え? お前ェと、初めて会った日に、ピンときたんだよ。こいつは、いい極道に、ハァ、なるぜ、てな。わしが、保証する」
「お、おっさん……」
ゆっくりと身体を起こした親分は、震える手をコートの懐にいれた。
「さァて、いくとするか」
「……だ、大丈夫か? 今、救急車を、」
「寿司屋の、ハァ、大将に、よろしく伝えといて、くれや」
懐から取り出したのは、死を待ちわびゲラゲラと笑っている黒光りした拳銃だった。自分の額の中心に銃口を当てがい、親指をトリガーにかけ、俺を見据えた。
「……な、なんだ、おい」
ガリッと撃鉄を起こす。
「ありがと、な。わしは、ハァ、お前の父さんに、伝えておく。詫びも含めて、息子が、立派に仇とってくれたぜ、てよ」
「や、やめろ!」
「じゃあな」
おっさんは、静かに目を閉じ、やさしく微笑む。
深夜に銃声が轟いた瞬間、北導會組長の頭が吹き飛んだ。乾いた空気に、硝煙が鼻についた。バタン、と親分が真後ろに倒れた場所、雪で敷きつめられたシーツかのような白い地べたが、みるみると赤く染まっていった。
目の前の景色が、ホワイトアウトのようになって何も見えなくなった。
「う、うそだろ? おい!」
慌てて抱きかかえたおっさんは、おでこの真ん中に穴は開いているものの目は瞑ったままで、ただ、すやすやと眠っているかのようだった。呼吸が弱くなるにつれ、白い息が細くなって、ふうっと消えた。
「……バカヤロウ」
俺は、これ以上ないほど奥歯を噛みしめ、きつく拳を握りしめた。寒さなんか感じず、胸の芯が焦がされるような想いだった。
おっさんは本物の侍のよう潔い死を択び、武士のような切腹で自分の人生に幕を閉じた。自分の現状と行く末を考慮し、自ら永遠に続く終わりを迎え入れ、冷静に決着をつけたのだ。昔気質のヤクザとして腹の座った、男らしい決断だった、壮絶でカッコいい死に様だった。その義侠心と男気に、俺の内は震えるほど、熱く燃えたぎるほど、感動のようなものがこみ上げていた。
俺も、おっさんに答えなければならない。覚悟を決めた。
この人に怨みや憎しみなど、ない。おっさんには、ある意味で感謝すらしている。俺を、男にしてくれようというのだから。こんな俺を認め、ヤクザとして箔をつけさせてくれるというのだから。
革手袋をはめていてもかじかみ冷たくなった手で、おっさんの手から零れ落ちた拳銃を拾う。
「おっさんと出会えたこと、誇りにさせてもらうよ。絶対、忘れない」俺は立ち上がり、その拳銃から銃弾を抜き、腰に挿した。「元気でな、ゆっくり眠ってくれ」
横目に廣嶋が、驚嘆の表情を浮かべ駆け寄ってくるのが見える。
俺は、アイドリングのままだったダットサントラックの助手席に乗り込み、そのまま警察へ向かわせた。
道中、廣嶋は無言だった。俺は、しばらく吸えなくなるセブンスターを吹かしながら、物思いにふけった。
北見署に到着し、廣嶋より先にドアを開け降り立ち、中を覗いた。
「廣嶋。お前は歩いて帰れ。この車は、俺が盗んだことにする」
「な、なに言ってるんだよ! 千葉ちゃん、」
「いいか? このことは、俺とお前の秘密だ。一生、誰にも口外するな」
「バカ言うなよ! だいたいが、これは、これは、僕が早まってやったことだ。何より最期、組長は自分で、」
鼻を鳴らしてやる。「当たり前のこと言うな。お前には動機も理由もない。それ以上にな、こいつは、あのおっさんとの約束なんだよ。男同士の、な」
そう言い、腰に挿した親分の拳銃を見せた。
「……そんな」
「気にすることじゃない」
廣嶋には、大きな義理と恩義ができた。これが最善の方法だ、これでいいんだ。
「……あ、葵ちゃんは、どうするつもりなんだよ」
「あァ、ちょうど、今日だ。クリスマスの話をしていたんだ。あいつもバカじゃない、分かってくれるさ。けどよ、もし、葵と会えたなら伝えてくれや」
これも、きっと。
「ち、千葉ちゃん……」
「きっと、他にいい奴が見つかる。俺みてえなろくでなしのことなんかサッサと忘れて、幸せになれよってな」
廣嶋は、ハンドルにもたれかかり、肩を揺らして泣き出した。
「しみったれてんじゃねえよ。戻ってきたら、また呑もうぜ」
夜空をみれば、雪はいつのまにか止んでいた。
廣嶋が車で弾き飛ばしたこと、北導會の親分が拳銃自殺したこと、全て包み隠し庇い、俺は誰も殺さずして罪に問われ、懲役に行った。そのことを警察の聴取や裁判で口を割ることはなかった。汚名を浴び、罪を被り、泥水は飲まされ、ヘドロまみれの沼に頭まで突っ込まれたが、今でも後悔はない。
顔も知らない父親の仇を討っただなどとは、未だに思ったこともなかった。
ただ、北導會先代親分との約束を守れなかった、悔いは残る。葵を笑わせることもできず、泣くことすらできないところへ逝かせてしまったのだ。無駄死にさせ、守ってあげられなかったのだから。先代の命さえも奪ったのは、この俺かもしれないのだから。犠牲にしたもの、失って気付くことが多すぎた。
ただ惰性で、漠然と生きているだけだった。
奈良組と北導會の抗争は、警察の介入により本家山菱組と兵庫山菱組が一時休戦、実質の手打ちとなった。
本家同士の手打ちは形ばかりに過ぎず、実際のところは、組の解散を警察に提出し、組長の引退にまで追い込まれた、奈良組の完敗だった。縄張り(しま)は全て北導會が総取りし、うちの若頭は行方不明になった。下手を打ち、海にでも沈められたのだろう。これがきっかけとなり、母体となった兵庫山菱組も次第に弱体化していき、日本統一を掲げている巨大な組織になった本家山菱組が勢力を拡大する。
北導會の跡目には、まんまと絵を描いた若頭が新組長として就き、しばらくの間空席だったその若頭のポストには、逢坂のような外道が大出世して昇りつめ、現在に至る。皮肉にも先代親分の思惑とは、裏腹な結果になった。
『主文、被告人を懲役十五年に処する』
あの時の判決を言い渡す裁判長の声が、今でも鼓膜の奥にこびりついている。それはまるで、おっさんに言われてるようにも、葵に言われてるようにも感じたから。いっそのこと、死刑にでもしてもらったほうがよっぽどマシだと思った。
俺が仕向けられたこと、しでかした事は、決して思い通りの結果ではなく、不幸が連鎖した悪夢のようになった。気まぐれな神様のイタズラにしちゃ、あまりに酷だった。
ハッピーなんて言葉からは、とてつもなく縁遠い。
天井に吐いた唾のようなもの。俺に降りかかった今の現実は、どうもがきあがこうとも、きっと変えられない運命か宿命のようなものだったのだから。
「せーの……、オラあああああッ!」
上着を剥がされ、腰のあたりから脇腹にかけ肌に切れ目を入れられる、その真皮に指を突っ込み、思い切り力づくに引っ張られた。ズルッと音をたて、背中の観音菩薩が全面剥がされたような感覚だ。まるで火傷した肌に塩を塗られながら、熱した剣山で削がれるような感じだった。
「ぐあああああああああああ」
痛みどころではない、熱波のようなものが脊髄を伝って、ビリビリと脳みそを揺るがした。尋常ではない激痛に、意識を保つのがやっとだった。
俺の気持ちばかりを、北導會先代親分の遺族へ刑務所からでも誠意として、謝意として伝えようと、福岡の爺さんに頼んだこともあった。「家族は、どこにいったかも分からないよ」気持ちすら届けることなどできず、どうすることもできなかった。
ならばと、出所後に、あの愛人はどうなったかと探れば、別な人物と幸せな家庭を築いていた。今さら、この俺がなにかをする必要もなかった。あの寿司屋に至っては、跡形もなく潰れていた。なにも伝えることなど、出来なかった。
誰にも、世の中にも、懺悔すら認められず、もう許してもらえない気がした。
「おい、ゴム手袋貸せ。こいつの脂で滑る」
もう一度、俺の背中に足をかけ、裂けた皮を持たれ、「オラあああああああ」と、皮膚を剥く。熱さを越えた、凍える冷気のようなものが背中を走る。もう声も出せなかった。喉の奥から、出した事もない呻きだけだった。
「……う、ぐう、うう」
これが、その天罰だ。惨めな顛末であり、その人々の痛みそのものなのだ。
あまりに勝手だが、俺にはもう、自分の犯した罪による罰と制裁に耐えうることはできない。
葵、すまねえ。
謝っても取り返しつかねえよな、すまない。こんなことしか言えねえ、すまねえ。許してもらえないと、それが届かないとは分かっているけれど、助けても救ってもやれなかった、本当にすまなかった。
おっさん、あんたは凄かったよ。
自分の死に際を、自分で潔く決められるなんて。俺には、この現状を介錯だなんて思えねえ。こんな奴に殺されるなんて、自死しようにも出来ない、満足できる納得した生き方なんてできなかったのに。後悔しかない人生でしかなかったのに。
「ぎゃあぎゃあ、クソうるせえなァ、手前ェは」
「……ちょ、ちょっと、やりすぎじゃないですか」
口を挟んだのは、ずうっとドアのところに突っ立っていたトカゲ野郎だった。
「あァ? なんだ、手前ェは」
「死んでしまいますよ!」トカゲ野郎は、唾を飛ばして前に出てきた。「殺してしまったら、し、死体を消すのにも大変じゃないですか」
「うるせえ」
逢坂は、喜々とした恍惚な表情で笑っていた。まるで、脳みそが涎でも垂らしているかのようだった。「なんか面倒になってきたわ。おい、チェンソー持ってこいや」
「な……」
下っ端の言葉が導火線になったか分からないが、これで終わりだろう。きっと、生きたまま首を落とすつもりだ。悪党の考えそうなことは大抵分かる。
もういい、これ以上、なんの意味があるというのだ。これでいい。
どんな奴でも最後は死だ、どう死ぬかは望んだところで思うようにはいかない。ヤクザは『生き様ではなく、死に様だ』とは誰かが言ったが、この俺はどうだったのだろう。どう死んだかは、ただの結果でしかないのに。
人生を問い、思い返せば、どうしようもなく無駄のようでくだらないものだった。
葵も守れず、両親や組には捨てられ、獄中では辛い想いをし、人殺しのレッテルを貼られた結末は拷問に遭い、遺族に対しては何もできず、ヤクザとしても人としても中途半端だった。俺の存在価値など、空から見た砂粒ほどのちっぽけなものだったのだ。
得たものを数えることすらできない、失ったもののほうが多すぎるから。あァ、そいつは違うな。全て、得たものだから失うんだよな、だったら、もうこれ以上何もいらない、なにも失いたくない。
俺だけが生き残った、この世界はつまらねえ。世界平和を願うジョンが、凶弾によって葬られる皮肉と矛盾。優しく、できた人間や善人のような人格者が短命なように、憎まれっ子や厄介者、悪党ばかりが生き延び世にはばかる。被害者は死に、とんでもない加害者は牢屋でぬくぬくと生き永らえる、そんな腐った世界だ。だから、この命を罪滅ぼしのために使う。自分がやったことには、俺自身がケリをつけなきゃな。
あァ、そうか、今分かった。
俺は、もう終わりにしたかった、もう死にたかったんだ。なにも守れず、なにも出来ない無力な自分を許せなかった、全てに絶望していたんだ。どこか心の奥底では、永遠に続く終わりに向け走っていた、死に場所をただ探していたのかもしれない。
もう、うんざりだ、もう疲れた。
なんの希望もなく、なにを得ることもない、ただ生きているだけの人生にうんざりしていたのかもしれない。これまでの絶望や失望、虚無感や喪失感など、もう味わいたくない。
こんな俺が、生きている価値も資格もないじゃないか。たいした生に執着することもなくなった、世の中からは、たいした必要ともされない元ヤクザなんて、つまはじき者じゃねえか。そんな俺に生きている意味も理由も未練も、ない。
思わず、鼻を鳴らして笑っていた。
「手前ェの生首でサッカーして、汚水槽にシュートしてやるからよ。きちんと目ェ見開いて、手前ェが汚物まみれで流れていくのを、よーく見てろよ」
逢坂の残虐な狂気は、真冬の爆弾低気圧のよう荒れ狂い、吹雪のように呑みこまれてしまいそうだった。冷淡に生を弄び、死すら冒涜しようとする様は、もはや常人の感覚とはかけ離れている。
「……そ、そこまでだ! 逢坂」
「はァ?」
声をあげたのは、トカゲ野郎だった。
「全員、動くな!」両手の先には小型の拳銃を構えていた。「俺は、刑事二課の警察官だ。ここまでだ、逮捕する」
なんだと?
こいつは、警察官だったのか。しかも、北見署刑事二課とはマル暴じゃないか。仕事は比較的治安のいい田舎で少ない分、色々と兼務しているらしいが。
なるほど、合点いくことがある。鋭い洞察力によって眼つきが悪くなる、私服であれば刑事であろうが身元は分からない、麻薬取締官のような潜入捜査は出来ないが現行犯で逮捕権を行使できる、そして俺の名前を知っていた。
束の間、生きる希望の光が差したよう思えた。
「おい、鴇尾。どういうことだ、説明しろ」
口を開けたままだった鴇尾は、「こ、こいつが、ここ最近、俺に近寄ってきて、」
「今日、この事務所で面白いものが見れると誘ってきたのは、鴇尾のほうだ」些か、トカゲ面の警官は、震えているように思えた。「もう辞めろ、逢坂」
「厄介な野郎を連れてきやがって、ふん」
逢坂はお構いなしにチェンソーを起動させる、グイイイーンと唸るけたたましいエンジン音と、高速で回転する刃が、隣で寝そべる死を叩き起こすようだった。
「う、動くな、逢坂! 撃つぞ」
「やってみろ」
言うや否や、逢坂がチェンソーを振り回した。
トカゲ野郎の伸ばした腕をかすめる、思わず尻もちをついたトカゲ野郎の手から拳銃が零れ落ち、それをすかさず若い衆が拾い上げ、トカゲ野郎を取り押さえる。
「やめろ! こ、公務執行妨害だぞ」
「たった一人で、なァにができるんだ、ア?」
もみくちゃにされながら、トカゲ野郎は取り押さえられてしまった。
「警官殺しは、色々と面倒だが。まァ、この際だ、手前ェは後でじっくり嬲り殺してやっからよ。死体は二つになるが、鴇尾。後始末は、手前ェがやれ。得意だろ、そういうことはよ」逢坂は、血走った目を俺に向けた。「まずは、手前ェからだ、千葉」
思わず、息を呑んだ。ここまでだったのは、俺のほうだ。
葵、もうすぐ行く。すぐに逢える。
レイコ、もうお前とは会えない、もう二度と逢えなくなる。
壮絶で凄惨な最期を経験できるなんて光栄だ、そうそう誰も体験できることじゃねえ、もっとも俺にはお似合いだろう。ヤクザらしくて、みっともねえ無様な死に方だ。レイコと同じ姿かたちになるなんて、なんだか皮肉めいている。それは俺自身の末路を占っていたのかもしれない。
けれど、俺は地獄へ堕ちる。今までのことを鑑みれば、当然のことだ。あァ、そうなれば、お前とは、もう二度と逢えないかもしれない。
葵を最後に一目見ようと、首をあげると、茶色の髪を逆立て鬼のような形相の葵が、俺の前に両腕を広げ、立ち塞がっていた。
もういい、葵。そんなことしなくても、もういいんだ。
それでも葵は、歯をむき出し、怒りを増幅させたような表情で逢坂を睨みつけている。
見えていないお構いなしの逢坂は、「オラ、いくぞ」と、アクセルをグン、グイン、と吹かして見せる。鴇尾が、ゲラゲラと笑っている。
途端、ガラス窓が大きな音をたて、ヒビが入った。亀裂はピシッと稲妻のように走り、そこにいる全員が振り向く。更に、天井の蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返す。
チェンソーの荒々しい鼓動さえが、ピタッと止まる。
「……なんだ、こいつは。使えねえな」
俺には、見えていた。
ふっと突然どこからともなく現れ、窓ガラスを掌底で叩き割り、蛍光灯のグローランプを緩め、荒ぶるチェンソーを止めたのは、あの突っ立っているだけの婦人警官だった。
瞬きもしない眼を見開き、不気味に笑い、逢坂の隣に立って、チェンソーの刃を指で摘みながら、静止画のよう蒼白い顔で俺をじっと見下ろしている。誰にも見えやしない、この世の者ではない、全てのラップ現象を起こしていたのは、こいつの仕業だ。この婦人警官の霊魂は、物理的にモノを触れるというのか。
剥がれた背筋の皮にさえ鳥肌がたつような悍ましさに身体の痛みさえ忘れ、粘ついた唾を呑みこむのがやっとだった。
次の瞬間、外がガヤガヤと騒がしく感じた。と、事務所のドアが激しい音をたて開く。
「待たせたな、クソヤクザども」
「……ア?」
突入してきた男たちは、暴力団の成りそのものだった。
「家宅捜索だ、バカヤロウ」雪崩れ込むようにして、数人が声をあげて事務所に入ってくる。「二課、組織犯罪対策の者だ。そのまま動くんじゃねえぞ」
北見署の刑事二課、組対とは通称マル暴、主に暴力団を取り締まる課の本隊だった。
「ガサ、だと?」
スーツ姿の捜査員たちが、もみくちゃになりながらも若衆を後ろ手にとり、みるみる抑え込んでいく。鴇尾もあっけなく、地べたにひれ伏した。
事務所内がザワザワとし、怒号も飛び交う異様な空気に活気づく。
「おう、手前ェ、逢坂だな」
先頭にいた目つきが鋭く、でっぷりと腹の出た坊主頭の男が歩み寄る。「暴対法の令状とってあんだよ。北海道の片田舎だと思って、嘗めてんじゃねえぞ、バカヤロウ」
裁判所からの捜査令状を広げて見せた。
「あァ? フザけろよ、コラ」
「こっちは、いたって真面目に仕事してんだろ、バカヤロウ。うちの者まで痛めつけてくれるとは、調子に乗りやがって」
後ろにいた刑事のひとりが、写真をパシャ、パシャと撮りだした。デジタルカメラを回している者まで居る。
「おうおう、証拠の山だぜ。こいつは言い逃れもできねえぞ」刑事は、にんまりと笑みを浮かべた。「傷害、及び殺人未遂、及び逮捕監禁致傷、及び凶器準備集合罪、および! クソ生意気の現行犯だ。これだけあったら長くなりそうだな、逢坂」
「……弁護士呼ばせろ」
「好きにしな、時間はたっぷりある」かっかっか、と高笑いしたマル暴の刑事は、「こんだけの物証あって、何とかなると思ってんのか? 大バカ者! 国家権力嘗めんじゃねえぞ、コラ。手前ェら全員、ブタ箱送りじゃ!」
逢坂は、恨み節のようにブツブツとなにやら呟き、目を座らせたまま、手錠をかけられ連行されていく。怒号が飛び交いながら、組員たちは警察署員に連れていかれる。
助かった。
なんにせよ、生きている。俺は脱力し、気が抜けた。どこかで死にきれなかったという想いもあったが、今は命拾いをし、心底ホッとしているというのが正直なところだった。
はっと思い立ち、首を持ち上げれば、さっきとは別人のよう柔らかな笑みを浮かべ、俺の顔に手を差し伸べてくる、葵がいた。
それは俺が前から知っている葵で、あまりにも懐かしく、恋しくて愛おしく、目頭が熱くなった。俺の頬に、そうっと手を添え、優しく口を合わせてくる。その仕草と唇がとても温かくて、昔を思い出す。
いつまでも葵を感じていたかった。このまま時間が、この刻が、切り取った写真のように止まってほしいとさえ思った。
余韻に浸る間もなく、そのまま、ふっと消えてしまい、葵の姿はどこにもなくなった。
なぜだか、二度と逢えないような気がして、どこか寂しい気持ちだった。胸の真ん中をえぐられて、ぽっかりと抜き取られたような空洞ができた。
最後に見た柔らかな笑顔、最後に感じた痺れるほどの温かみ、もう二度と触れ合うこともできないかと思うと、いろんな感情や思い出が溢れてきて、生まれて初めて涙が零れそうになった。
入れ替わりのように、俺の顔の前にしゃがみ込む男がいた。
まったく色気もない、思わず舌打ちする。
「お前が、千葉か。一度、電話で話したことがあったな、捜したぞ」そこら辺の暴力団よりもヤクザらしい風貌で場を仕切っていた刑事が睨みつけてくる。「めんこい面した色男が台無しじゃねえか、随分と派手にやられたもんだな。おい、救急車呼べ」
腹の出たマル暴の刑事は、後ろにいた若い男に顎を振った。
「……その前に、煙草くれや」
「ふん、生意気な」
マル暴は、自分の胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけ、俺に咥えさせてくれた。1ミリという軽すぎる煙草だったが、何年も吸っていなかったかのよう心地いい煙が、喉と肺を撫でまわす。
ひとまず、礼でも言おうかと刑事のほうへ振り向くと、ぎょっとして言葉に詰まった。あの婦人警官が、刑事の後ろで蒼白い顔で笑っていたのだ。
「お、おい、なんだよ、そいつは……」
「は? 何言ってやがんだ。殴られすぎて、イカれちまったか?」
「い、いや、マル暴には婦人警官も居る、」
「悪いがな、お前にもフダが出てんだよ」
思わず、むせ返る。「ゴホッ、な、なんだと? 一体なんの容疑だ、俺は、どう見ても被害者だろ」
咥えていた煙草も落とした。
「北海道警察北見署長、直々のご指名だ。覚悟しろ」マル暴の刑事は、含みのあるニヤッとした笑みを浮かべる。「感謝状ってフダだとよ、元ヤクザ」
「……は?」
読んでいただき、ありがとうございます!