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厄介者  作者: 滝沢和也
11/14

宿題の答え

 収監された網走刑務所でも、ロクな目に遭わなかった。そこは、生き地獄のようだった。

 作業場から持ち込んだ彫刻刀やキリで刺され、飯には唾や痰を吐きかけられ、共同のトイレでは殴られ、風呂場ではカミソリで切りつけられ、自由時間にはサッカーボールのように蹴られ、就寝時には手足を押さえつけられ、猿ぐつわ代わりのタオルを突っ込まれ、カマを掘られた。

 全国最大規模の広域指定暴力団は、懲役に出ている人数、服役者も桁違いだった。数の論理でその集団に、塀の中では打つ手立てがなかった、至る所でリンチに遭う毎日だった。

 刑務官ですら買収され、袋叩き(ふくろ)になっている俺を見てみぬフリされる始末だった。

 その都度、抵抗して暴れまくり、独居房に拘束着をつけられ隔離されたほうが、幾分マシだった。俺の収監期間が減刑されるはずもない理由は、そんなところにあった。仮釈放や模範囚などというものとは、ほど遠かった。

 だが、今まで読んだこともなかった歴史や偉人伝、哲学書などの読書に耽ることが、気を紛らわせることが、少しは雑学として、少しの気休めとして、俺の身になったことはある。腕立てや腹筋、背筋とスクワットでの筋トレは、毎日欠かさなかった。

 肉体的、身体の痛みなどは時間が経てば忘れてしまうが、こうも続く暴力、暴行行為は少しだけウンザリした。痛めつけられ、心が折れることはなかった、これで死んでしまっても構わないと思っていたから。こんなことで死んでたまるか、とも思っていた。

 そこから解放された自由の裏返しは、実は娑婆にある。

「コラ、千葉。まずは(エンコ)詰めろ」

 俺は、黒い布袋を被せられ手錠をかけられたまま、足すらロープや針金で拘束され身動きもできず、自由を完全に奪われた状態だった。どこか分からない場所に連れてこられ、殴る蹴るの暴行をひたすら受けた。

 北導會の事務所ではないかと思われたが、考える隙もなく、ボコボコにされた。

 鼻血や吐血が、鼻腔に生臭くこびりつき息苦しい。ヘルメットを被ったままだったのが功を奏したのか不幸なのか、脳震とうにはならなかったが、首を絞めつけられ、呼吸はままならなかった。

「なんか言ってみろよ、ア?」

 胸倉を掴まれ、倒れている俺を起こし、黒い布袋を剥がされる。目の前には、ニヤニヤとした笑みを浮かべる助手席に座っていた男がいた。

 唾を吐いてやる。

「手前ェは、特別だからよ」

 目の奥には何もなかった。ただ、どんより暗かった。「足の指から指っつう指、全部いこうや。二十本な」顔に冷ややかな笑みは浮かべるが、目玉は真っ暗で底が見えなかった。「おう、手は関節ごとにいっからな。小便漏らすなよ、コラ」

 肉は削がずに、骨を断ちにきた。エンコは仕方ないにしろ、全部落とされる拷問だ。

 指には痛神経が集中していて、太ももや腕の肉を刺されたり、えぐられるのとは比にならない。骨が身体から離れてしまえば、元通りになるのは困難だろう。痛みがどれほどのものなのか、俺は知らない。

「……好きにすりゃいい。早く殺せ」

「なにぬかしてんだ、手前ェ。簡単に死ねると思ってんのか、コラ」

 俺は、もう一度、血塗れの唾を床に吐いた。途端、うつ伏せに倒される。

「安心しろ、ここはうちの事務所だから、叫ぼうが何しようが、誰もこねえからよ」悪意にまみれた視線をぶつけてくる。「一週間かけて殺してやっから。おい、道具持ってこい」

「はい、若頭(かしら)

 声をかけられたジャージ姿の若衆が、奥の部屋へ引っ込む。

 顔だけ上げ、「……若頭だと? すると手前ェが、逢坂(おうさか)か」

 どおりで憶えのある奴だった。

 こいつは俺と同年代、確か二つほど年下だったはず。思春期の学生時代にも、悪事を好んで働く希代のワルとして名前が知れていた。そんな非行でイキがってる小物は気にも留めなかったが、風の便りで、敵対する北導會のチンピラになったと聞いた。出所後、その逢坂が若くして北導會の若頭になって北見市の底を腐らせ、暗闇の膿を巻き散らしていると聞いたのは、つい最近だ。

 生まれながらにして生粋の悪玉だろうと極悪だろうとも、ヤクザとしての資質や適正があるかどうかは、別問題だ。

極道、任侠の世界は、仁義や盃事を重んじる。逢坂のような悪党は、自分ひとりが良ければそれでいいと考え、いくら裏社会とはいえ、天下など獲れない。その差は、天と地ほどかけ離れている。

「だったら?」

 逢坂は、嘲笑し睨みつけてくる。

「……こ、この事、親や本家は知ってんのか」

「当たり前ェだろ。親父は、ちょうど一週間、納会で帰ってこねえしよ」

「こんな真似して、ただで済むと思ってんのか」

 ふん、と氷のよう微笑み、「逆に訊くが、手前ェはこれをどうにかできんのか、ア?」

「うちの組は、抗争で解体(バラ)されてんじゃねえか。手打ちにもなってる話を、今さら蒸し返して問題にならねえほうがおかしいだろ」

 どうにもこれは、逢坂の独断による暴走だろうと推測した。

 組長の留守をいいことにやらかしている、本家に筋も通らないはずだ。なぜなら、俺はもう堅気だし、国家の監視下に置かれるような犯罪前歴者なのだ。それをつけ狙うのは、あまりに強引で乱暴すぎる。

 いいや、そんなことは所詮、どうでもいい事かもしれない。

 それは、俺が殺された後の問題だろうし、そもそも逢坂のような奴は、そこまで考えはしない。北導會現組長にしても、腐った野郎だ。結果など俺には関係ないことで、形は後でどうとでもできるものだから。

 死人に口なし、とはよく言ったものだ。

「笑わせるな。奈良組みてえなクソが、うちと手打ちだ? そもそもが本家に盃返しやがった手前ェらが何ぬかしてんだ。嘗めてんのか、コラ」

 逢坂の声は、抑揚もなく、場をひんやりと冷たくさせる。「こっちの代紋汚しやがって、ケジメもとってねえじゃねえか。しまいに、イモひいて警察へ逃げ込んで、勝手に解散しやがったのは、手前ェらじゃねえか、ア? 差し引きで考えてみろ、手前ェらは、誰も死んでねえじゃねえか」

「損得勘定じゃねえだろうが」

 逢坂は、薄く笑った。「そういう問題なんだよ、ボケ。堅気になったつもりでいんのかも知れねえけどな、俺らにとっちゃ、何年経とうが手前ェは(かたき)なんだよ、ア? うまいこと言うだろ、笑えよ」

「ふん、面白くねえもんに笑えるか」

 俺が反対の立場だったら、どうしただろうか。同じことをしたかもしれない。

 泣いていた少女の朱音に対してもそう、岡山翠に対してもそうだったじゃないか、俺が逢坂を批難できる訳もない。

 ヤクザはやられたらやり返す、面子を重んじ報復によって生きているようなものだ。人の足を踏んだことなど気にもしないが、反対に踏まれたことは根に持ち忘れることはない、それが人間というものだ。

 組織に属せば、なにかのきっかけをいいことに、どす黒く歪み腐った野望を抱えた者は、頂上(てっぺん)まで駆け登る最短ルートを画策するのだろう。己の筋や人の道がどうかなど関係なく、出世や自己顕示、薄汚れた自尊心や欲望だけが全て、それだけだ。

 俺を始末し、この世から消せば、功労として称えられ、尚且つ、組の脅威と威厳が保たれることを知らしめることができる。

「こっちは親獲られてんだぞ、ア?」

「その先代の写真は、どこに飾ってあるんだ」

 殺風景でがらんどうな事務所の応接室らしき場所には、灰色のスチールデスクと安っぽいソファが一組、大きな金庫と組織の金看板は飾ってはあるが、俺が殺した先代親分の写真は飾っていなかった。

「死んだ親のことなんか、知るか」

 急に、表情を消した。「ここまでうちの組をデカくしたのは、俺なんだよ。分かったような口きいてんじゃねえぞ、コラ」

「……偉そうに。先代を、少しは敬ったらどうだ?」

「ぶち殺した手前ェが言ってんじゃねえ、ア? ベラベラとうるせえ奴だな。指詰める前に、その舌切り落としてやってもいいんだぞ、コラ」

 どうにもやるせない、儚くも虚しい気分に陥った。


  ※


 分裂騒動から3カ月程経ち、全国で本家山菱組と兵庫山菱組との対立抗争が激化する、一週間ほど前のことだ。

 スマートフォンが普及し始めた頃、俺は二十歳で、血気盛んな狂犬が如く荒れていた。

 街でひとり呑み歩き、深夜になった頃。

 俺は、歩道で信号待ちをしていた。そこへ、外にまでやかましい音楽がダダ洩れしているヤンキーの生き残りのようなシャコタンのクラウンが、横断歩道を遮るよう、ボンネット部分が白線の中ほどまで飛び出た形で、堂々と目の前で停車した。

 運転席の若い男は、冬にも関わらず窓を開け放ち、肘を出してニヤけていた。

 酔っ払い、気持ちよくなっていた俺は、歩行者用の信号機が青になると、右手を颯爽と掲げて、そのまま横断歩道を歩いていく。ひょい、とボンネットに飛び乗り、ズカズカと踏んづけてやる。

 途端、運転席の男が叫び狂い、外に飛び出してきた。

「手前ェ、コラ! なにしてんだ、おい!」

「は?」

 クラウンのボンネットで仁王立ちになったまま、とぼけてやる。当然ながら、ボンネットは俺の足型にへこみ、ベコベコのデコボコになった。

「降りろ、コノヤロウ!」

「ここは、歩道じゃねえか。手も挙げてるだろ」

「なんだと、コラァ!」

 若い男は、俺を降ろそうとしたいのか、身を乗り出して腕を伸ばす。

 その顔面を思い切り、蹴り飛ばしてやった。吹っ飛んでいった男に、すかさずボンネットから飛び降り、馬乗りになってやる。拳を振り上げた、その瞬間、

「はっはっは、めちゃくちゃだな、おい。面白れェじゃねえか、若いの」

 反対の歩道で笑っている、髪がロマンスグレーの紳士然としたおっさんがいた。年齢は、六十代を越えたくらいか、眉間の皺が深く刻まれ、年輪を感じさせた。

「それぐらいにしてやれ」

「あァ? ダセえマネしてんのは、この野郎だろ」

 目撃していた辺りの人々がざわつきだした。

 おっさんは、ゆっくりと歩み寄り、「そんなことで、男の拳を汚すんじゃねえよ」

 そう言うや、財布から万札を数枚取り出し、「よう、あんちゃん。あんたが調子に乗って、歩道にまで、はみ出たのが悪い。ここはわしに免じて、これで勘弁してやってくんねえか」屈みこみ、運転手の男のシャツに札束を突っ込む。

「……なんだ、おっさん。出しゃばってくんじゃねえよ」

 俺は、おっさんに向き直った。

「よう、威勢のいい兄ちゃん。わしァ、まだ呑み足りなくてな。どうだ、ちょいと、付き合ってくんねえか」

「はァ?」

 年老いてはいても、眼光は鋭く、どこか呑みこまれそうな雰囲気があった。

「信号も変わるぜ、ほら、行くぞ」

 肩を叩かれ、横断歩道を渡り切る。「近くに、行きつけの旨い寿司屋があんだよ。ちょっくら、そこで呑もうや、なァ」

「……あ、あァ」

 俺は、すぐに火を消され、何だかよく分からないおっさんの妙な魅力に惹かれ、不思議と導かれるように、その背中の後をついていった。鼻血を出し、クラウンも運転席に乗り込んだ若い男は、信号が変わるや否や、飛んでいくように逃げていった。唾を吐きつけてやる。

 寂れた寿司屋の暖簾をくぐれば、俺たちふたりだけだった。カウンターに並んで座る。

「カネなら、もうねえぞ」

「なァに言ってんだ、兄ちゃん。わしが誘ったんだ、若いのがそんな心配すんじゃねえよ。腹減ってねえか? ビールでいいか?」

「あァ」

 タダ酒なら、どんな形でも喜んで受ける。

 白髪のおっさんは、「おう、大将。生と熱燗だ、それに美味い酒の当て、頼むわ」熱いおしぼりで、顔を拭った。「で、お前さん。奈良組かなんかの、あれか、ヤクザか?」

 正直、返答に困ったが、「……あァ」素直に話す。

「三年B組なんかじゃねえぞ」

「そうか、そうか」

 快活に笑い飛ばしたおっさんは、運ばれてきた熱燗を手酌でおちょこに注ぎ、「だったら、余計ダメじゃねえか」俺の眼を、力強く見つめてくる。

「……なにが」

「さっきのだよ。あらァ、生意気だったにしろ、堅気のガキだったじゃねえか」ちびりと、おっさんは熱燗を美味そうにすすった。「ヤクザ者が、堅気に手出しちゃいけねえよ。まァ、あのガキが悪いのは分かるが、あらァ、やり過ぎだ。はっはっは」

 俺は鼻で笑って、グラスまで凍ったキンキンに冷えたビールを飲んだ。

「そもそもな、男の拳をあんなとこで使っちゃいけねえ」

「おい、フザけんな、おっさん。ヤクザの拳は、殴るためにあんだろうが」

「バカ言ってんじゃねえよ、兄ちゃん」

 刺身の盛り合わせが、目の前に置かれた。

 驚いたのは、活きた真鯛のお頭がパクパクと口を動かしながら乗り、食べたこともないような新鮮なウニやアワビが出てきた。このおっさんは、どこかの社長かなにかだろうか、この寿司屋のもてなしに、少しだけ眉をひそめた。

「いいか、ヤクザだろうが何だろうが、男の拳ってのはな、」

 そう言って、おっさんは黙り込む。日本酒を口に含み、天井を仰ぐ。

「……なんだよ」

「気に入ったぜ、若いの」

「は?」

「明日も、またここへ来い」

おっさんは、にこやかな笑みを浮かべた。「夜の十二時だ、遅れるんじゃねえぞ。それまでの宿題だ、よーく考えてこいよ。大将、ごちそうさん」

「おい! まだ、なにも食ってねえじゃねえか」

「ここのネタは最高なんだよ。残して帰るんじゃねえぞ」俺の肩を叩きながら、コートをはおって立ち上がる。「そうだ、兄ちゃん、名前は?」

「あァ、千葉だ」

「……ほう、そうかい。せっかくだったのに、なァ。いや、お前に会えたんだから、良しとしねえといけねえわな」

 おっさんは、どこか含みを持たせ何かを思い出したかのようにんまりと口角をあげた。

「ア? どういう意味だ」

「また、明日な。大将、頼んだぜ」

「おい、」

 おっさんは、背中越しに手を上げ、店を出て行った。

 寿司屋の大将が、「ささ、せっかくの新鮮なネタですから、どうぞ。ごゆっくり」と、店の奥に消えていった。

 なんだっつうんだ。ただの節介焼きか、奉仕好きなのか。俺のことを知っているような素振りも見せた。

 俺は、キツネかタヌキにでも摘ままれたかのような気分だったが、大人の粋な計らいに甘え、食ったこともない刺身をペロリとたいらげ、帰路についた。

 次の日、夜の十二時を前に、昨日の寿司屋に出向いた。

「おう、来たな、千葉」

 首で少しだけ頭を下げ、おっさんの隣に座る。店は、昨日と同じく誰もいなかった。

「あァ、昨日は、色々、ごちそうさんです」

「バカ言え、いいってことよ!」顔が上気しているかのよう赤くなっていたおっさんは酔っているのか、ご機嫌だった。「ほら、今日はな、カニだ、カニ」

 見れば、カウンター席にずらっと並んだカニの群れがあった。

 発泡スチロールが五つほど、その中にタラバガニから毛ガニ、ズワイガニや花咲ガニ、タカアシガニまで。キロに換算すれば、20キロは超えているはずだ。

「……これ、全部か?」

「いいじゃねえか、はっはっは。わしァよ、お前が、ひどく気に入ったんだ。好きなだけ食ってけ」

「あ、あんた、一体、何者なんだ?」

「何者でもねえよ」おっさんは煙草を咥え、火をつけた。味わうように紫煙をゆっくりと吐き出す。「まァ、カミさんと世間からみりゃ、厄介者だろうけどな、はっはっは」

「……なんで、見ず知らずの俺に、こんな良くしてくれるんだ」

「なーに言ってやがんだ、ばかたれ。これからの人間に旨い飯を食わせるのが、わしらみてえな爺にできるこったろうが、え? そいつを喜んで、美味い美味いって食ってくれりゃ、わしは、それだけでいいんだよ。ヤクザのくせに小せえことなんざ、気にすんな、そうだろ?」

 肩を、ぽんぽんと叩かれる。

 組の構成員である俺を怖がりもせず、ある意味では、うまく丸め込まれている気がした。いくら年配だからとはいえ、どこか貫禄なのか、懐が深いような余裕があった。

「きっと、わしらが、お前たちの世話になる時代が、そのうち来る。タダで若いお前らに、世話してもらおうとは思っちゃいねえんだよ。その時には、頼むぜ」

 おっさんの言っていることは、分かる。

 今の社会の仕組みからいって俺たちが上の世代を支え、それを俺たちは若い世代に繋げる。だが、どうだろう。少子高齢化が進んでいる、年金制度など破綻しかけている、この国だ。支えられる人数は増える一方、土台となる若い世代がいない。そんな逆三角形のようなことが成り立つのだろうか。老人ばかりの国は疲弊し衰退していく、そう歴史的な虐殺を犯した独裁者は言っていたらしいが。

「正直言えば、お前のことは知らない訳でもないんだよ、千葉」

「……なんだと?」

 眉を寄せ怪訝に思ったが、思い出しても知り合いに似た顔はいない。

「それじゃァ、また明日来いや。大将、また頼むぜ」

「お、俺は、あんたに、なにをすりゃいいんだ」

「いらねえよ、言ったじゃねえか」おっさんは、帰り支度をして立ち上がった。「お前みたいな奴が、わしは好きなんだよ。ヤクザ者が柄にもねえ、遠慮してんじゃねえよ」

「そうだ、宿題の答えってのは、一体なんだよ」

「おいおい、分かんねえのか?」ふん、と鼻で笑ってみせた。「そうだな。ヒントはな、ジャンケン、だ」

「……はァ?」

背中を向けて、「明日来たら、教えてやるよ。じゃあな」

「おい、だから、」

 一体全体、あのおっさんは、何者なのだろうか? どれだけカネが余っているのだろうか? 宿題の、男の拳とはいったい何だ? ジャンケンだと? 俺のことを知っているとは?

ハテナばかりが頭の中を駆け巡ったが、ご馳走を前にして食わずは男の恥だと思い、タラバガニの足にむしゃぶりついた。カニだけで、腹一杯になるなんて贅沢をしたことは今までになかった。

 さすがに、全部は食えなかったから、大将にお願いしてビニール袋に詰めた大量のカニを、葵のお土産にした。「どこの水族館で盗んできたのよ、まったく。それとも、密漁でもしてきたの? もう」葵はそう、頬を膨らませた後、ころころ笑い喜んでくれた。

 明くる日にも寿司屋へ行けば、大将は、にこやかな笑顔で、「お代は頂いてますんで、お好きなものを、お好きなだけ、どうぞ」と、今日は寿司をご馳走になった。

だが、その日も、次の日も、その次の日も、例のおっさんは来なかった。

 一週間、寿司屋に通い詰めたが、寛容に盛大なご馳走を奢ってくれるだけで、おっさんは現れなかった。大将に訊いたところで、にこにことして「さァ?」と、首を傾げるだけだった。

 さすがの俺も、もう寿司屋には行かなくなった。

 そんな中、些細な火種がちりちりと燃えていた。奈良組と北導會の組長が市内のスナックでばったり出会ってしまう。ボディガードを五人ほど連れ添い、我が物顔で客を追い出す奈良組の組長に対し、ひとりで居た北導會組長が「堅気の人が迷惑してんだろ。ヤクザもんなら、そんなみっともねえ真似すんじゃねえよ」と注意を促した。一触即発の空気に包まれたが、その場は事なきを得た。

 翌日、コケにされては黙ってられない、と腹を立てた奈良組の組長は、独断で先制攻撃にうって出る。

 俺は、若頭(かしら)に呼ばれた。

「千葉、お前が殺ってこい」

 ヒットマンに任命されてしまった。

 それぐらいの覚悟はしていたものの、いざ、そうなると尻込みしたくなった。二十歳やそこらのガキが、そんな大それたことできるものなのか? しかも、それぐらいの出来事で殺しまで。

「他の連中は、所帯持ちばっかだからよ。会社務めの一般人だって、独身が先に飛ばされるだろ? お前は、うちの組じゃあ一番若いしな。務めから出てくりゃ、即幹部の椅子用意してやっから。軽く、弾いてこいや」

 随分な言い分だったが、仕方ない。これが、ヤクザ組織としては当たり前の掟なのだろうから。目の前のデスクには、黒光りしたリボルバーが置かれてあった。

 俺は、粘ついた唾を呑みこむのが、やっとだった。

「か、若頭、俺は向こうの、親の顔を知りません」

「おう、こいつだ」

 若頭は、履歴書のような薄っぺらな紙を差し出してくる。「どうやら、愛人のとこに匿ってもらってるようだな。そこで張ってりゃ、一発だ。実を言えばな、ここにも書いてあるがお前には適任、うってつけの仕事だ。こいつは、二十年ほど前に、」

「……お、俺には、できません」

「なに? 聞こえなかったが、俺の空耳か、オ?」

 俺は、その場にひれ伏して、土下座をした。

「お願いします! 違う奴に、た、頼んます!」

「なんだ手前ェ、いち兵隊のくせしやがって、組の仕事もできねえってのか、オ? こんなもん、簡単な仕事だ、目つぶって指絞ったら終わりなんだ。なんだったら、シャブでも食ってよ、チャッチャとやりゃいいんだよ」

「……すんません。けど、」

「これは、親父の命令だぞ。親に逆らうつもりでいんのか、コラ」

「か、勘弁してください! 俺には……」

「ダメだ。千葉、お前が殺れ」

 紙っ切れに貼り付けられた写真には、俺を無償で食わせてくれ、俺のことを気に入ったと言ってくれた、白髪頭のおっさんが写っていた。

 抗争相手、北導會の親分とは知らなかった。

 そんなことがあっていいのか、まだ何も返えせちゃいない、美味いタダ飯を食わせてもらったおっさんを弾くなんて、いくらヤクザ者同士の抗争だとはいえ、俺にそんなことできない、出来っこない。

 やりたくねえ、無理だ、この俺が、殺れる訳もない。

読んでいただき、ありがとうございます!

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