死の匂い
「何回言ったらわかるんだ、千葉! ただ突っ立てりゃいいってもんじゃねえんだぞ!」
「……は?」
「上司に向かって、なんだその態度は、あァ? は、じゃねえよ! 返事は大きく『はい!』だろ」
「……はい」
「ダラダラしてねえで、きちっと仕事しろ! お前は給料泥棒か、バカヤロウ!」
この俺様を泥棒扱いしやがるイキがった現場主任は、相変わらずだ。
常日頃から、態度がクソ生意気な野郎で、自分を疑わず、世界は自分中心に回ってると思ってやがる。ついにぶん殴ってやる日がきたかと思ってはみたが、会社の社長には優しくしてもらい、大変世話になっている身であり、休みや給料待遇も融通を利かしてもらっているこんな俺が、そんな大層なことできる訳がない。年下だが立場上しょうがない、ぐっと我慢して堪えることも、時として必要なものだ。
今日の仕事は、舗装工事の交通整理をする誘導員から遥か500メートル手前に立ち、車両が往来する度に『徐行』と描かれた旗を広げ、注意を促すという立ちっぱなしの過酷な作業だった。
こんな看板みてえなことやってられるか! などと不平不満を述べることもしない。なぜなら、これもれっきとした重要な仕事で、これで給料が発生するなら、文句も言えないのである。
だが、昨晩もすんなりと眠れたおかげで立ち仕事自体も、理不尽な現場主任の言いがかりも、全く苦にならなかった。
ただ、一昨日の件は手放しで喜べるものではなく、なんとも歯がゆく、ほろ苦い気持ちでいっぱいになった。
俺と廣嶋は、焼却し骨と灰になった岡山翠をまた積み直して、市内へ戻った。
行き先は、高知という男のマンション、部屋は五階の角部屋だった。廣嶋を車で待機させ、俺が部屋まで行くことにした。
辺りは陽も沈み暗くなり、虫の鳴く声が響いていた。時刻は二〇時手前というところで、ギリギリ出勤前と踏んだ。
玄関ドアの覗き穴スコープを軍手履きした指で塞ぎ、チャイムを鳴らすと、「はい」と低い声が中から聴こえた。
「宅配便です」
鍵を開ける音がして、ドアが薄く開いた瞬間、俺は、中へ飛び込んだ。
目の前に、高知と思われるホスト崩れのようなヨレヨレのスーツに細身の小僧が、不審に眉をよせ覗き込むような顔をして突っ立っていた。鼻がひん曲がりそうなほどの芳香剤に、余計苛立ちが募った。
短い髪の毛を鷲掴みにしてねじ伏せ、思い切りぶん殴る。
頬など狙わず中央の急所、鼻を折ってやる。容赦などする気はない。ゴリッといった鈍い感触が拳に伝わり、馬乗りになって、何度も腕を思い切り振るってやった。後ろでバタン、と鉄製の玄関ドアが閉まる音がした。
「首はどこだ」
「ぐああああああああ、痛てええええええええッ」
更に、鼻をめがけ殴りつけてやる。「黙れ。殺されたくなかったら、首はどこか言え」
「……す、すいません、すんませんすいません」
口からも血を吹き出しながら、高知は狼狽え動揺し、ひどく怯えていた。みるみる顔面は変形し、血だらけになっていった。
久しぶりの暴力は、気持ちがいい。
いいや、暴力で弱い者をひれ伏しイキがっている奴を、暴力で痛めつけてやるのが気持ちいいのか。
「誰に謝ってんだ、手前ェしか知らないことだ。岡山翠の首は、どこだと訊いてる」肘で血塗れの鼻を打ち、髪の毛を掴んだ手で、頭を床に勢いよく打ちつけた。「手前ェの折れた鼻を、更に粉々にすることもできる。それとも、喋れないよう顎の骨を砕くか?」
そうして赤く返り血に染まった軍手を振り上げ、何度もガツガツと潰れかけた顔面を怒涛のよう殴りつけた。
高知は足をばたつかせ、苦しみもがいていた。
どうにも心地いい。悦に浸っているところで、「……な、なげました」と痛みに堪えられなくなり、白状しだす。
その言葉で、高知が殺したものだという確証には充分だった。
「いつ、どこに」
「う、うびっす」
「どこの海に、いつ捨てたんだ」
「うわああああああああああああああ」
叫ぶと無我夢中に暴れだし、俺を押し退けやがった。
尻もちをつき、舌打ちする。と、同時に高知は、カーテンも閉めていない窓のほうめがけ走っていき、開放してあった窓から叫びながら、飛んで消えた。数秒後、ドスンと命の途切れる鈍い音が聴こえた。
クソッ、やられた。
床に飛び散った血痕を左手の軍手と喪服の袖で拭き取りながら、廣嶋に電話を入れる。
「そいつの携帯と鍵をとれ」
この散らかった部屋の中に残されているかもしれない、言葉同様に室内へずかずか上がりこみ、物色をする。
『やっぱり、こいつだったのかい?』
「そうだ」
『千葉ちゃんも早くね』
「部屋の鍵を持っていれば急いできてくれ。持っていなければ、一分後に通報してくれ」
『桃花ちゃんの物も頼むよ』
「あァ」
岡山翠の私物などがあれば、警察は線を辿って、なにかを疑うに違いない。
その線の先には、岡山翠への殺害が予測され、両親は絶望の谷底へ突き落とされる。俺の存在まで浮上するかもしれない。更には、高知の勝手な飛び降りの自殺なのに、他殺を疑うかもしれない。身体は五階からの落下で見るも無残に潰れているだろうが、その前に暴行を受けたことが怪しまれる可能性だってある。
だが、高知の身柄は早々と警察に預けるのが、最善であり有効なのだ。北導會などには渡せないからだ。
俺は、数字を規則的に数えながら、鍵と高知のスマホをとりあえず探す。10を数えた時、テーブルの下で充電していた 最新式のスマートフォンを見つけた。
20を数えた頃、廣嶋からの電話が鳴った。
『鍵を見つけた、今から行くよ』
返答もせず、通話も切らずに、ポケットへしまい込む。
廣嶋がエレベーターを使って昇ってくるとして、三十秒ほど。残りの時間で、岡山翠のなにかしら痕跡になるようなものを探す。時間は差し迫っている。
今度はクローゼットの中や、普段手をつけない場所に当たりをつける。
ひっくり返したい衝動を抑えながら、冷静沈着に、かつ素早く、また1から数字を数え、隠しそうな場所を手当たり次第に見ていく。もう二年も経過していれば、痕跡すら捨て消した可能性はあるが、この短い時間でも念には念をいれたかった。
だが、20を数え終わっても何も出てこなかった。引き出し、台所の奥の収納、気持ちだけが焦っていた。
33を数えたところで、玄関のドアが静かに開き、廣嶋が入ってきた。「千葉ちゃん急いで、行くよ」消え入るほど小さな声だった。
俺も、声を押し殺した。「クソッ、何も出てこねえ」
慌てながらも速やかに玄関で便所サンダルを履こうとした時、
ふと、異様なほど漂う芳香剤は、空気の臭いを覆い隠すかのよう感じた。まだこの部屋にあるはずだ、概念を覆せ、まだ開けていない場所。
「……ちょっと待ってくれ」
廣嶋に声をかけて、部屋にもう一度飛び込み、独身にしては大きな冷蔵庫を開いてみた。
冷蔵室、野菜室、と開けて、下段の冷凍庫になっている引き出しを引くと、霜だらけになったスイカのような円形の物体があった。燈台下暗し、とはよく言ったものだ。
無造作に転がっていたオレンジ色の燃えるゴミ専用の有料袋の中へ詰め、玄関を出た。廣嶋は、扉を閉めると同時に鍵を挿した。
ふたりでボロいエレベーターに、さりげなく乗り込む。天井の四隅に目を向けたが、防犯カメラの類は設置されていなかった。
「千葉ちゃん、それは?」
言いながら、廣嶋は俺がぶら下げていた袋を指し、スマホを耳にかざした。
「岡山翠、本人の残りだ」
「……マジかよ。あ、すいません」と、繋がった相手と話しだす。「今、人が飛び降りるのを見たんですけど、ええ、住所は○○あたりで。よろしく」スマホを切って、「マンションの住人には見られてない?」
「隣人に叫び声を聴かれた可能性はあるが、大丈夫だろ。ぎゃあぎゃあとうるせえ野郎だった。外はどうだ」
「たぶん、大丈夫。ポケットをまさぐってた時でも、誰も出てこなかったし。それと財布は強盗みたいになっちゃうから、そのままにしてきたよ。けど、これ」廣嶋は、キャッシュカードを手渡してきた。「桃花ちゃんのカードを持っていた」
見れば、ローマ字でMIDORI OKAYAMAと印字してある。
おそらく、所持金を奪い取ったか、家賃の引き落としを偽装する為か。いずれにせよ、岡山翠を殺した犯人という裏付けには充分だ。俺はカードを受け取り、真っ二つにへし折ってポケットに突っ込む。
廣嶋が、にやりと薄く冷たい笑みを浮かべた。「あのクズ、落っこちてもまだ、生きていたよ」
「……なんだと?」
地上階に着き、早足で歩く。「鍵を戻してくるよ」廣嶋は、腰に巻いていたネルシャツで鍵の指紋を拭き取りながら、高知が落下したであろう場所に向かって、走っていった。
俺は、ゆっくりと歩き、ダットサントラックの助手席のドアを開けた。ポケットに突っ込んだ高知のスマートフォンについた自分の指紋を丁寧に拭い、液晶画面を踏んで割った後、近くの排水溝に捨てた。
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。
廣嶋は車に乗り込むなり、キーを挿しこみ、エンジンをかけた。「お待たせ」
「慌てる必要はねえ、ゆっくり出せ」
「承知」
タイヤを転がすように、点滅するサイレンのほうへ向かって動かした。
「随分と派手にやったみたいだね、千葉ちゃん。顔が血だらけだったよ」
「あんな野郎に遠慮するほうが、おかしいじゃねえか。危うくハッタリこかれて、首を取り返し損ねるところだった。結果、見つけたがな」煙草を取り出し、火をつけた。「お前のほうこそ、大丈夫なのか」
「ああ、余裕だね。あんな高い所から飛んだら、骨なんてバラバラになるじゃないか」廣嶋もマルボロメンソールを咥え、火を灯す。「首の頸椎を踏んづけてやったさ、『高知、人間やめるってよ』ははは」
「ふん」
これで、高知からケジメをとったとか、落とし前をつけただとか、仇を討ったとは思っていない。
高知は窓から飛び降り、死ぬことで逃げたのだから。自分の思い通りにならない女を無慈悲に惨殺しておいて、殴られる暴力からの痛みに耐えかね、逃げやがったのだから。罪を償うことなく、罰を受けるでもなく、追うこともできないところへ逃げたのだから。
高知の動機や殺害の理由など、永久に闇に埋もれてしまった。
しかし、そんなことはどうでもいい、証拠など必要ではない。もう岡山翠は帰ってこないのだし、何の解決にも、慰めにも憐みにすらならないのだから。大げさなニュースの報道をされたところで、死者を愚弄する憶測と冷やかしだけで、何にもならない。
俺の中には空しいだとか、悔しいだとかいう感情は、全くもって皆無だった。
そんな感情を、高知に抱く訳がない。なぜなら、何かを感じるにも値しない、道端で踏まれ死んでいく、蟻んこ程度のクズ野郎だからだ。そんな奴に感情など、ぴくりとも沸かない。もちろん、俺が清く正しく良い行いをしたかといえば、否だろうが。
忍び寄ってくるであろう北導會のことも、少しばかり気にはなった。俺は、あからさまな逆鱗の地雷を踏んだかもしれないのだから。だが根本の腹は決まっていて、なにかに怯え、恐怖にビビるくらいなら、初めからこんな真似や行動は起こさない。もっとも暴対法の威力による警察の監視下でがんじがらめな暴力団は動きづらいはずだ。警察に監視され続けているのは、俺も同じだが。
その日の夜は、万が一もあるかもしれない、念には念をおしたアリバイ作りの為と、俺の狭い部屋でふたり酒盛りをした。
今日の俺は、会社をギックリ腰で休んだことと、日中いなかったことを踏まえれば、この部屋というのも渋々で仕方なかった。廣嶋は出所後の引っ越し以来訪れる俺の部屋に、店を休む始末だった。久しぶりに酒を交わしながら、バカ話に花を咲かせたかった、というのがお互いの本音なのだが。
一斗缶と灯油タンクは玄関に置き、有料ゴミ袋の中身をビール片手に確認した。霜が暑さで溶けだしていたため、買い物で貰ってきた発砲スチロールの中に入れた。
残念ながら憶測通り、小さな圧縮袋に入れられた頭部が出てきた。脳みそや血抜きはしているのか、後頭部に大きな穴が開いていたが、腐臭が漏れ出ていて、長い髪が残った顔は、ほとんどが白骨化していた。
ねちっこく執拗だったらしい高知が、岡山翠をこうも大切に保管していたということは、時折観察していたのだろうか、性処理の玩具に使っていたのかもしれないが、そんな悪趣味な思惑は知るだけ頭にくるし、考えるだけ無駄だ。
明日、また同じ場所で焼いてやろう。墓への埋葬も廣嶋に頼んだ。
「きっと桃花ちゃんも、これで少しは報われるだろうね」
「ふん、どうだかな」
呑んでいてふと気付けば、屋根裏からの物音、正確には、上の部屋の床下で叩く音がしなくなっていた。
そこから取り除いてペットボトルと入れ替えたからなのか、胴体そのものが物理的に無くなったからなのか、それとも、骨になって成仏でもしたのか。俺には分からなかったが、煩わしい音が聴こえなくなったのは、少しだけ安堵できる。
ひとりで寂しく、苦しみもがいていた岡山翠はいなくなった。
助けてやっただとか、救ってやっただなんて思っちゃいない。高知に痛い目を遭わせて懲らしめようとか、殺してしまえば終わりだ、などとも思わない。ある意味、最悪の形になってしまったと思っている。
俺の思うように事は運ばず、型に嵌めることはできなかったのだから。
せめてもの救いは、岡山翠の散らばったパーツを取り戻せたことと、事態を早く収拾させることができたことぐらいなものだ。二年の月日は経っていたものの、俺が動かなければ迷宮入り、半永久的に掘り当てることすらできなかったかもしれない。
両親に対して、父親だけになってしまったが、生きていようが死んでいようが、同じ逢えないのならと伝えるのを辞めたことが、相手にとって良いことなのかは未だ分からない。
結果や真実を伝えるのはどうかと、今でも思っている。警察当局が介入して犯人の高知が逮捕され、それで事件が解明されたからと言って、誰も救われるものではない。
残された岡山の両親は、まだ余命を生きるはずで、その少しの時間だけは希望をもってもいいのではないか、どうせ向こうに逝ったなら逢えることだろう、苦しみや痛みを抱え生きていくのは辛いはずだ、そう思ったのだ。
真実を知って、絶望を抱えながら朽ち果てようが知ったことではないが、岡山翠の両親が気の毒に思えたのは、確かだ。少女で短い生涯だった朱音同様、順番からいってもおかしいし、親の気持ちを考えれば、いたたまれなかった。
希望とは戦い続けること、生きながらにして、想い続けることなのかもしれない。絶望というゴールが待ち受けているのかもしれないが、わざわざそのテープは切らずとも、生きることはできるのだから。
「知ってるか、廣嶋」
百円均一で買ったグラスに、氷を手づかみで入れ、廣嶋が好きで買ってきたワイルドターキーをどぼどぼ注いでやった。「カマキリのメスは、交尾が終わったら、そのオスを喰うらしい。一番傍に居たオスが身近ながら、最高の餌になるようだ」
刑務所の中で暇つぶしに読んだ本の一節を思い出した。
「へえ、そいつは、男にとっちゃ大変だね」
今日のツマミは、おもてなしだ。
買ってきたスモークサーモンと冷食の枝豆、冷蔵庫で寝ていた余りもので、しんなりと油がびたびたになった唐揚げ。それと、とっておきのストックにしてあった柿の種チョコ。
「その生態は、生物界の理にかなっているんじゃねえかってな。メスは、その遺伝子を子孫として残す役割があるが、オスは種付けをしたら用無し、必要ねえだろ。年齢を重ね、弱っていけば、尚更な。メスが子を産む糧になるなら、いいのかもしれないだろ」
なぜか、レイコも膝を抱えテーブルを囲んでいる。
「確かにね」廣嶋は、すぐに氷の溶けていくロックのバーボンを舐めるように含んだ。「僕たちもいい歳だ、社会経済から見たら働き盛りだけど、生物としては用無しの役立たずかもな。人間の寿命も、男のほうが短いもんね、ははは」
「ダセえだけじゃない高知が、クズという所以だな」
俺もバーボンを注ぎ、水滴だらけになっていたグラスに炭酸水を継ぎ足し、ハイボールにする。ウィスキーでも、バーボンのように若く尖った味が俺は好きだ。「だけどよ、実際人間の世界じゃあ、そんな無意味なことで溢れている。極道の世界はその典型、男同士がカネや面子のために、命を削り合う。男という存在価値を誇示しようとしてるだけなんじゃねえのか」
「僕は、男と女じゃ役割があると思ってる。平等というのは分かるけど、さすがに対等ではないよ。だって、女性は弱いものだからね」
「男尊女卑や亭主関白なんて、ふん、笑っちまうぜ」俺は、マルボロをゆっくりと長く吐き出した。「DVだの児童虐待だの弱え者相手に、男がなにイキがってんだよ、てな」
「僕らにとっては、尊くも慈しみ愛すべき存在であり、笑顔にしてあげるのが、男の役目だろうね」
「男は度胸、女は愛嬌なんて言うしな。そんな女を、愛想よく笑わせてやるのが男ってもんだ」
なぜか、レイコも『そうだ、そうだ』とでも言いたそうに、無い首をうんうんと頷いているかのようだった。
ふと、昔のことを思い出した。「おい、廣嶋。男の拳は、なんの為にあると思う?」
「きっと、あれだろ? ぶん殴るためとか、そんなことだろ?」
レイコですら、首を傾げているような素振りだった。
「バカ言ってんじゃねえぞ」
「なら、なにさ」
「おっぱいを揉むためにあるんだよ。当たり前だろうが」
廣嶋は、凍り付いたように固まった。「……め、珍しいね、千葉ちゃんが、そんなこと言うの」
「お、おう」
「ははははははは」
酔いも回ってきた頃、廣嶋は真顔で「葵ちゃんがいるような気がする」と言い出した。思わず、傍のレイコに目をくれるが、「なんてね」と廣嶋はおどけた。
まさか、な。
俺はいつのまにか、床にぶっ潰れて、眠り呆けてしまっていた。
次の日の朝。
目が覚めると、廣嶋の姿はなく、ガラケーの着信音が鳴り響いていた。
頭痛がひどい、昨日は呑みすぎたか。薄いタイルカーペットで寝たためか、背中も痛い。
ガラパゴス携帯のフリップを開けると、着信の名前にうんざりする。
「……なんの用だ」
『コラァあああああああ。早く出ろ、バカ者!』
通話早々、俺をバカ呼ばわりするのは、保護司の福岡の爺さんだった。耳がキーンとして、頭痛が増していく気がした。
「なんだよ」
『寝とったのか? 今、何時だと思ってるんだ!』
「知らねえよ」壁掛け時計を見れば、午前七時になるところだった。舌打ちする。「だからなんだっつうんだ、こんな朝っぱらから」
『仕事はどうした』
ギックリ腰の仮病がある手前を思い出した。「……あァ、腰痛めちまってよ、自宅療養中ってやつで休んでる」
『すると、昨日も仕事を休んどったな』
「だから、なんだっつうんだ」
『また、被害届けが道警にきたらしいぞ、二件もだ!』
は?
まさか、昨日の高知の件で足がついたのか。冷や汗が滲み出た。いいや、待て。爺さんは二件と言った。とすると、思い当たるのは昨日の出来事。
なるほど、くだらねえ。今度は、何だというのだろうか。「おいおい、何でもかんでも俺のせいかよ」
『トイレの盗撮と、犯罪に加担した教唆脅迫ということだ』
心底、呆れた。
盗撮に関しては、香川のコンビニでの件だろう。
おおよそ、カメラに映りこんでしまった俺と、犯人が共謀していると思っているのだろう。犯人自身も逆転の発想なのか、やけっぱちなのか、盗撮カメラを発見され破壊された腹いせなのか。俺を道連れにでもしてやろうという魂胆か。バカバカしいったらない。
教唆脅迫は、なりすまし詐欺の電話からと推測する。
俺は最後に、「嘘をつくなら、相手を選べ」と言った。「殺す」とも言った。それを逆手にとって、電話の相手だった俺に対して、詐欺行為の犯罪を誘発、そそのかされ、更には身の危険を感じるほど脅された、とでも吹聴したのだろう。全くもってアホらしい。
こんなことがまかり通れば、世の中犯罪者だらけの騙し合い、冤罪ばっかになるじゃねえか。
「……あのなァ」
『もう逃げられんぞ、千葉。観念せえ!』
「これだから、昭和初期生まれは、困ったもんだぜ」俺は、朝一本目のニコチンを肺に入れる。「なんだ? それで、警察は任意で引っ張るつもりか」
『するか! バカたれ』
どうにも、いつもの爺さんとは様子が違うことに気付いた。
「だったら、俺は、関係ねえじゃねえか。言いがかりにも程があるぞ」
『ハッハッハ、というのは冗談でな』
福岡の爺さんは上機嫌に変わり、声に抑揚が滲んでいた。『コンビニの盗撮犯は、お前が見つけたらしいじゃないか。映像に、千葉が映り込んでいて、道警もびっくりしておったわ。オレオレのなりすまし詐欺犯なんぞ、自白したようなもんだ。よっぽど、お前に言われたことが癪に障ったようでな、怪しいと訝しんだ道警は、逆探知でアジトを掴んで、あっという間に御用だ』
なるほど。またしても、ミイラが増えたってことな。
「ふん、それじゃあ、俺は表彰もんじゃねえか」
『お前が、街の治安と平和に貢献するとはな、大したもんじゃないか』
そんなつもりは更々ねえがな。むしろ、昨日は高知を死に追い込んでいるのだから。「要件は、それだけか」
『うん? いや、まあ、そうだが……』
「すまねえな、切るわ」
『お、おい、』
喋りたがりの爺さんを無視して、通話を切る。
思わず、ガラケーを眺めほくそ笑んでしまった。その姿をレイコに見られ、少しだけ耳が熱くなったが、頭を冷やすためにシャワーを浴びることにした。
バスタオルで身体を拭き、廣嶋から貰った黒地に赤抜きで『打首獄門同好会』と書かれた意味不明なTシャツとハーフのカーゴパンツを履いていたところ、携帯電話が鳴っていた。今度は、誰だというのか。
携帯を見れば、不機嫌さが増す。鴇尾からだった。
大きく舌打ちをして、応対する。
「なんだ。鍵は、郵送、」
『千葉さん。高知、昨日死にましたよ』
あァ、知ってるよ。「ほう」
『何したんすか』
あァ、ぶん殴ったら、窓から飛び降りやがった。「別に、なにも」
『だったら、なんで住所なんて訊いてきたんすか』
詰めるために決まってんだろ、その前に、お前に理由なんか言わねえよ。「あァ、うちの会社に履歴書が届いたらしいんだがな、住所も書いてねえってんで――」
『嘘言わんといて下さいよ』
アホか、本当のことなんか言う訳ねえだろ。「俺が殺したとでも言いてえのか」
『千葉さんから連絡きた、その直後ですよ? 高知が飛び降りたのは』
どうやら、警察も事件にはしたくないらしく、自殺で処理したようだな。「飛び降り? だったら余計、俺は関係ねえだろが。なんだ手前ェは、俺を疑ってんのか? そいつが働いてるところは、北導會がどうのって心配してたんじゃねえのか」
『……だ、だからですよ! 話が縺れても、俺は知りませんからね』
上等、そいつは望むところなんだよ。「誰と、どう揉めるっつうんだ」
『兄貴が狙われるってことですよ』
ほう。
「手前ェが、密告しなけりゃいいだけだろ。なにか? 手前ェは、俺を売るつもりでいんのか、コラ」
『あそこのビルの物件は、俺が管理してるんすよ。なまら高いみかじめも……』
ほう。「ずいぶんよくしてもらってるようだな、鴇尾」
『……い、いえ。美味い話だったんで、それ以上は、なにも』
やっぱり、こいつはクソだ。廣嶋の忠告や、俺の疑心も的中した。
「なんにせよ、高知が死んだことは今、初めて聞いた。俺は関わってねえし、住所を訊いただけだ。信用できねえなら、それでいい」
『……どうなっても、知らないっすよ、ちっ』舌打ちまでしやがった。
「手前ェ、なんだその態度、」
鴇尾のほうから、通話を切りやがる。つくづくムカつく野郎だ。
これで北導會が出てこようが、構わない。元から、そんな奴らを恐れて生きてるつもりなどないのだから。鴇尾が告げ口しようとも、構わなかった。そんな者たちを怖がっているようなら、慣れ親しんだ地元の北見になんて戻ってはこなかったのだから。
気付けば、岡山翠の遺体がなくなっていた。
玄関を覗けば、骨と灰を入れていた一斗缶もなくなっている。廣嶋が持ち帰ったのだろう、電話を入れてみる。何度もコールするが、廣嶋は出なかった。まァ、いい。後でまたかけ直してみよう。
ギックリ腰という名目の仮病だったから、今日も仕事は休ませてもらう旨を、石川社長に伝える。無理はするな、と気を遣われ、少しだけ罪悪感があった。給与は固定給だったが、今月は少し休み過ぎている。これは夏冬の賞与にも影響するのだろうか、どれくらい天引きされてしまうのか、そんな心配をしてしまう。
レイコは、珍しく俺がいることにご機嫌なのか、バスルームから出てきて、小さなテーブルの前で、そよ風に吹かれているかのようゆらゆらと肩を揺らしていた。
なぜだか、そんな姿が懐かしく思える。
目覚めのシャワーを浴びたが余計に眠たくなって、ウトウトしていた昼近くに、廣嶋のほうから連絡が入った。
「おう、遺体を焼きにいってくれたのか」
『それより、千葉ちゃんのイビキ、ひどかったよ』
廣嶋は、電話口でからからと笑った。『早速、岡山さんのお墓に、桃花ちゃんを全て埋葬してきたよ』
「随分と、手早く終わったな」
『緑ヶ丘霊園のイ区画、28番だ。時間がある時にでも、お参りしてきてよ』
「おい。これからはどうなんだ? 俺は、仕事も休んでるんだが」
『ゴメン。今日は、これからヤボ用があってさ』廣嶋は運転中なのか、ダットサントラックのエンジン音が響いていた。『レイコちゃんにも、よろしく! それじゃあね』
「……な、なんだと? おい!」
廣嶋に通話を切られた。
レイコによろしく、だと? どういう意味だろうか?
「おい、レイコ。お前、廣嶋にも見えるのか?」
隣で未だ揺れながら唄でも歌っているかのようなレイコに問うても、どこ吹く風と知らんふりをされた。
大体が、レイコの存在も、名前さえ廣嶋は知らないはずなのに。
はッ!俺は、寝言でも呟いていたのだろうか。あいつは、イビキがどうのと言っていた。無意識の寝言で「レイコ、うーん、レイコ、どこにもいかないでおくれ、だって、寂しいんだもん」なんて言っていたのか。なんてこっ恥ずかしいんだ!
俺は顔に熱が帯びるのを堪えて、白いタオルを頭に巻き、便所サンダルをつっかけて外へ飛び出した。ママチャリにまたがり、盆地形の坂を登る。
彼岸でもなく、お盆でもない、緑ヶ丘霊園はひっそりとしていた。
広大な敷地に整然と並べられた墓石を取り囲むような木々、照りつける太陽の中、途中自動販売機で買ったミネラルウォーターを片手に『岡山家』の墓を探す。
28番、チバと語呂で憶えていた。妙な縁だな、と思いながら、その場所に立って苛立ちを覚えた。すぐに廣嶋へ電話を入れる。
『どうしたの?』
「お前、本当に市役所で確認したのか」
『もちろん。え? 今、お墓の前なの?』
「横棒が、一本足りねえじゃねえか」
『ん、どういうこと?』
「オ、カ、ヤ、マ、翠なんだぞ。『岡山家』じゃなく、『岡川家』になってるじゃねえか!」
『待ってよ、千葉ちゃん。そこ、本当に緑ヶ丘霊園?』
「寝ボケちゃいねえよ」
『イ区画の28番で間違いない?』
「28番だが、なに? 区画だと」
でかでかと建てられていた区画区分の表示には、『ハ区画』と描かれていた。「さ、先に言え、バカヤロウ!」
『はははは、僕は、ちゃんと言ったけどね』
「笑ってんじゃねえ!」カッときたが、ふと、さっきの会話を思い出した。「おい、廣嶋、さっきレイコって、」
通話を切られた。あの野郎!
なぜだか勝手にムカムカしながらも、イ区画の28番で『岡山家』の墓石を見つけることができた。ミネラルウォーターの蓋を切り、どぼどぼと灰色に磨かれた石にかけ、煙草に火をつけ線香代わりにした。
これで、寂しくもねえだろ。
そこには、お前の先祖も眠ってる、祖父なのか祖母なのか、もっと前の祖先も、そこで眠っているはずだ。疲れたら、眠ることだ。もうリセットされて起きることはないから、ゆっくり眠れ。
そのうち、お前の父も母も、ここへくるはずだ。待たなくていい、いずれ、どのみち、必ず皆ここへくる。
それじゃあな。
ひとつの区切りをつけたような、大きな仕事でもしたかのようなサッパリとした気分だった。空は青い、雲もなく、ただ果てしなく遠くに思えた。
交代休憩も終わり、また『徐行』の旗を広げる。今日はとてつもなく暑い。だが、滴る汗も、小便がしたくなるのも、生きている証だ、早く帰ってキンキンに冷えたビールでもくらいたい。
遠くに、いつも見る制服の婦人警官がぼうっと突っ立っていた。あの交差点で死んだ奴じゃねえのか、こんな現場にまで、なぜか俺に近づいてきてるような気もする、ま、あんな婦人警官に知り合いはいねえし、しばらく面倒事はゴメンだ、見えてしまうってのも厄介なもんだ、などと何気に考えていると、
「おい、コラ」
五分ほど前に通り過ぎた、覚えのある黒塗りのレクサスが、俺の前で急に停まった。
助手席のウィンドウが降り、薄い紫色の眼鏡をしたスーツ姿の男が因縁をつけてきた。ナンバーは、ゾロ目の888で記憶にあった。
「手前ェ、千葉だろ」
「はァ?」
「ほう、随分とイケメンじゃねえか。ドライヴでも行こうや」
反射的に睨みつけてやる。
髪をべったりと後ろに全て撫でつけた相手は柄が悪い。匂いで分かる、どうやら筋モン、本職のようだった。にやにやと含みのある卑しい笑みだった。絡みつく狂暴な視線は、毒蛇を思わせる、どこかで見覚えのある奴だ。
「乗れやコラ、ア?」
「仕事中だ、用があるなら後にしろ」
「知るか、カス」
車内のそいつの膝元に目を向けると、拳銃を握り、銃口を俺に向けていた。
「こんなとこで弾けんのか」低く声を出した。
「試してみるか?」
「やれよ、やってみろ、コノヤロウ」
全く関係のない場所で停車している黒塗りの車を、後続車はクラクションも鳴らさずに追い越していく。触らぬ神に祟りなし、というやつだ。
「手前ェの言うことなんざ聞いてねえんだ、俺は、ドライヴだっつってんだよ」男は口元に笑みを浮かべ、「おい」と、後部座席にいた男を顎で使う。降り立った後部座席の男は、俺の襟首を掴み、車内へ引きずり込む。
助手席の男が、俺の眉間に拳銃を突き付けた。
「そのヘルメット、お似合いじゃねえか」
外では、現場主任が何やら叫んでいた。
「北導會か」
「捜したぜ、人殺し。顔もイジらねえで、図々しく戻ってきてるなんてな」
「ずいぶんと時間がかかったじゃねえか、暴力団」
後ろ手にされ、手錠をかけられた。下手な抵抗は、もはや無駄だと思った。
車はタイヤを鳴らし、Uターンして加速する。横のジャージ姿の男に、真っ黒な布袋を被せられた。
「月日が経ちゃ俺が水に流すとでも思ってたのか。楽しみは、とっとかなきゃな、ア?」助手席の男の声は、ひどく下卑ていた。餌を前に、舌なめずりする空腹の爬虫類かのよう感じた。「こっちは、二十年近く待ってたんだからよ」
「暇なんだな」
「大口叩けるのも、今のうちだ。死にたいって泣くんじゃねえぞ、コラ」
何をされるか、想像がついた。
その想像など絶するほどの拷問を受け、嬲り殺される。そんな未来や覚悟はしていたものの、いざ現実になるかと思うと、真っ黒な布袋の中で色々と想うことがあった。
人生は、突如としてなにが起こるか分からない。
『俯瞰して見れば、人生とは喜劇だ』と、遥か昔、コミカルな動きをする白黒の喜劇王は、そう言ったらしいが。
俺はきっと、これで終わる。今日、殺される。
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