第四話
本日四話目です。
「さて、まずは何から話したら良いものか……取り敢えず、君の名はなんと言う?」
男性は悩む素振りを見せてから、当たり障りのない質問を投げかけてきた。俺は自分の名前を知らない人間に教えていいものかと考えてから、ある重大なことに気がついた。
「俺の名前は……何なんだ? 思い出せない……」
「なるほど……では、君の歳は? 住んでいたところは? 誰でもいいから、知り合いの名前を言えるか?」
男性の質問に、俺は答えることができなかった。歳は高校に通っていたというのをなんとなく覚えていたので、十六~十八の間と答えたが、留年している可能性もあるし、何より本当に高校生だったのかもはっきりとしない。
住んでいたところに関しては、島国だったり過去に戦争で負けた国だったりといったことは思い出せるのだが、国の名前が出てこない。ただ、この世界とは何かが違うというのが分かるだけだ。
人物に関しても同様で、テレビや新聞で見たことのある有名人、本で読んだ過去の偉人の名前(どれもそうだと思われるもの)は何となく出てくるのだが、近しい人の名前……例えば親・兄弟、親戚に友人と思われるような名前は、全くと言っていいほど出てこなかった。
「まずは落ち着いて欲しい。君の今の状況は、過去に現れた異界人の状況とよく似ている。異界人とは、この世界とは違うところからやってきた者たちの総称だ。そして、彼らの共通点として、記憶の一部、もしくは大部分を失っているということが挙げられる。ただし、それは一時的な症状の場合もあり、時間が経ってから思い出したという話もある」
さらに男性は、「異界人の話は、おとぎ話のようなものとして人々に知られてはいるが、本当に実在した者たちだというのは、この国の貴族の中でもひと握りだけだ。このことがもし悪しき者に知られたら、君の持つ知識を利用しようとする者が現れるかも知れない」と言った。
過去には異界人に対し、薬や拷問といった方法で未知の情報を手に入れようとした者がいたらしい。この世界であってもそんなことは違法らしく、その者はすぐに処罰(死刑)されたらしいが、救い出された異界人は廃人同然となっており、助け出されてから数日で息を引き取ったそうだ。
「そういう者は我が国にいないと信じたいが、出来るだけそのことは秘密にした方がいい。で、だ。いつまでも、『君』と呼ぶわけにもいかないので、仮ではあるが名前をつけておいた方が都合がいいだろう。何か思いつく名前はあるか?」
そんな話を聞かされて、目の前にいるのが信用できる人間だと断言できるはずがないのに、何故だか目の前の人物たちが、俺に危害を加えようとは考えていないと思えた。
こんな状況の中、勘で判断するというのは馬鹿らしいのかもしれないが、今の俺にはこの世界の常識や情報が一つもない状態なので、どこかで誰かを頼らなければならないのだ。ならば、目の前の人物たちを頼ってみるのもいいかもしれない。全てを鵜呑みにするのは危険だが、全部が全部嘘の情報とは考えられないので、参考にする程度だと考えればいいだろう。
そう決めてはみたものの、自分の名前などそうそう思いつくものではない。もしかしたら俺は、ゲームなんかでは本名を使うタイプの人間だったのかもしれない。
「父上、自分に付ける名など、そう簡単に思いつくものではありませんよ。ええっと……そうだ。今君が、パッと思いつく言葉はあるかい?」
青年の質問に、俺は何故か『勝利』の二文字が頭に浮かんだ。
「勝利か……確か古い言葉に、『ジーク』という勝利を意味する言葉があったはずだ。君さえよければ、これから『ジーク』と名乗ってはどうだい? 」
青年の提案に、俺は何度か『ジーク』という言葉をくり返しつぶやいて、その名に決めることにした。言葉の響きは悪くないし、俺はこれからこの世界で生きていかなければならない可能性が高いのだ。森の中で感じた、「生きることは戦い」だというの意味でも、勝利の意味を持つこの名は俺にふさわしいだろう。
「そう名乗ることにする……ありがとう」
俺が素直に礼の言葉を口にしたのに驚いたのか、二人は面食らったような顔をしていたが、やがて優しい顔で笑っていた。
「名前は『ジーク』でいいとして、もう一つ気になっていることがあるんだが……君は自分のことを十六歳以上だといったが、君のいたところではそのような童顔の者が多かったのか?」
「はぁ?」
確かに俺の住んでいた国は、他の地域に比べると童顔に見える事が多いと聞いたことがあるが、多分お前よりは年上だぞと思ってしまった。
「とにかく、正確な記憶は思い出すことは出来ていない、と……ジーク、君にはいま複数の可能性がある。一つは、私たちの想像通りの異界人であるというもの。もう一つは、何らかの事故によって、記憶に齟齬が出てしまっているこの世界の住人というもの。三つ目は、私たちを暗殺しようと企んでいる、他の国の暗殺者……といったものだ。もっとも、最後の可能性はかなり低いだろう。その気があるなら、私たちは死んでいるだろうしな。これでも、多少は人を見る目があるつもりだ」
男性は自分で言った三つ目の可能性を消したが、俺にとって一つ目と二つ目の可能性はどうでもいいことだった。もっとも、こことは違う場所の記憶があり、その場所にはあのゴリラのような生き物が普通に生息していたとかいう可能性はゼロに近い以上、俺は自分の中で一つ目の可能性が当てはまると確信している。
「取り敢えず、私たちが住んでいる街まで連れて行こう。今後のことは、そこについてから決めればいい。もちろん、今回の礼代わりに、衣食住の保証はしよう」
男性の提案を受け入れるしか選択肢がなかった俺は、男性に了承の意を伝えると、そのまま馬車に乗って移動することになった。外で待っていた男たちに男性が指示を出すと、すぐさま移動を始めたのだが、馬車に乗っている俺を警戒しているのか、男たちは半分近くが馬車の周りを固め、残りの半分は進行方向に危険がないか調べるために先行していった。そして馬車の中には、俺のすぐ横に外に居た男性が座り、斜め前に銀髪の男性、正面に少年が座ることになった。横の男性は、何気なく外を見ているみたいだが、意識だけは常に俺に向けているようで、少し体を動かしただけでさりげなく剣に手をかけていた。
もちろん、俺に銀髪の男性たちに危害を加えるつもりなどなかったので、道中何事もなく馬車は進んでいった。馬車の中では、青年が色々とこの世界の常識を教えてくれたので退屈はしなかったが、俺の中にあった常識の大半が通用しない世界だとわかり、色々と考えさせられることがあった。ただ、俺の持っている常識に近いものもいくつかあったし、言葉も問題なく通用するようなので、気をつけていれば問題はなさそうでもあった。
ちなみにこの世界の常識として、魔力というものが存在し魔法が普通に使われていること。魔物という魔力を持つ生き物が生息していること。そして、人の命が軽いこと……などがあった。つまり、前の世界というよりも、前の世界に存在した漫画やゲームに近い世界だということだ。もちろん、漫画やゲームではないので、死んだら残機なしの試合終了だ。他にも色々と教えてもらったが、それらの情報が一番大事なものだろう。
その後、何度かの休憩を挟み、深夜と言っていいくらいの時間帯に俺たちは大きな街に到着することができた。
街は高く頑丈そうな壁と広く深そうな堀に囲まれており、目に見える範囲で街へと入ることができそうなのは正面にある大きな門だけだった。しかし、その肝心な門は固く閉ざされており、門から伸びる橋の手前には夜中だというのに人の列があった。だが馬車は、そんな列に並ぶ人々を無視して橋を渡り始める。途中、馬車に気がついた列に並ぶ人々の中から非難するような声が聞こえてきたが、すぐに収まっていた。
そのことを不思議に思っていると、少し前まで寝ていたはずの少年が今起きたことを説明してくれた。少年曰く、あれは街への入場の審査を待つ列で、朝一で審査をしてもらうために並んでいるのだそうだ。そしてそんな中で、自分たちを無視して先に進もうとしている馬車がいたので、注意とともに罵声を浴びせていたらしいが、この馬車の持ち主の正体がわかったのですぐに黙ったのだそうだ。
なお、その時に知ったのだがやはりこの少年は貴族であり、銀髪の男性の方はそれなりに上位に位置する存在だそうだ。ちなみに、この世界の貴族の位は上から、王・公爵、侯爵・辺境伯、伯爵、子爵、男爵、騎士爵が基本だそうだ。他にも、準子爵や準男爵、特別爵といったものが存在するそうで、準子爵の場合は子爵の下で男爵の上、騎士爵は騎士に任命された者に与えられ、特別爵は騎士を辞めた者(勤続年数などの審査あり)や、何らかの功績を挙げた一般人に与えられる称号なのだそうだ。どの位にも年金が与えられるそうで、それぞれの位による差はあるものの、功績の数や質によっては一番下の特別爵の者でも、贅沢をしなければ働かなくても暮らしていけるのだそうだ。
「私たちの正体は明かせないが、そこの彼が子爵だということで想像して欲しい」
そこの彼とは俺の横に座っている男性のことで、そんな彼が護衛をしていると言うことは、彼らはかなり上位にいるのだろう。
「さて、これからジークをどうするのかが問題だけど……」
「私の家に連れて行きます」
銀髪の男性の言葉にかぶせるように、隣にいる男性がそう言った。
「私の家ならば、家臣たちもいるので万が一の場合にも対応できると思います」
「そうか、なら頼む。ジークもそれでいいか?」
「構わない……です」
今更だが、貴族の中でもかなり偉い人のようなので敬語を使ってみたが、自分でもかなり違和感があった。そのことが面白かったのか、少年は笑っている。銀髪の男性も、「別に無理はしなくてもいい」と言っていたので、最低限失礼の無いようにすればいいかと思った。いくら俺が命の恩人なのだとしても、我慢には限界があるだろうし、いつまでかはわからないが、これから世話になるのだ。それくらいの配慮は必要だろう。
そのまま馬車は街中を進み、ある屋敷の前で停止した。どうやらここが横の男性の屋敷らしい。本来は目の前の男性と少年の屋敷まで護衛した後で帰宅する予定だったのらしいが、銀髪の男性が街中で危険はないし、他の護衛もいるから先に帰るようにと言ったので、先にこの屋敷に寄ったみたいだ。
「申し訳ありません、へ……閣下。お先に失礼します」
男性が謝罪の言葉とともに頭を下げたので、一応俺も男性に倣って頭を下げた。そして馬車を降りると、男性は屋敷の門の開けようとして何かを思い出したように俺の方へと振り返った。
「ジーク。この屋敷には、獰猛な番犬がいる。俺がいるから襲いかかってくることはないと思うが、絶対に手を出すなよ。何かあったら俺の後ろに隠れるといい……多分、安全なはずだ」
少し自信なさげに言うと、男性は再び門に手をかけて押し開いた。
門から屋敷まではおよそ三十mはありそうで、屋敷も大きかった。しかし、それ以上に庭は広く、庭の端の方にはアパートのようなものが建っていた。
「ああ、あれが気になるか? あれはうちの使用人や部下が住んでいる場所だ。数人は屋敷の方に部屋を持っているが、全員が住めるわけではないからな。大半の者はあそこに住んでいる」
男性の説明によれば、一部の使用人や部下を除いた者たちの寮のような建物だそうで、あれ以外にもあと二つもあるそうだ。ちなみに一部の使用人や部下というのは、男性や男性の奥さんの代々の部下などのことだそうだ。
そんな説明を聞きながら、屋敷の扉の近くまで来たとき、扉の近くにある茂みの中から赤い二つの光が見えた。それと同時に、威嚇するような唸り声も聞こえてくる。
「くそっ! そんなところに隠れていたか! ジーク、俺の後ろにいろよ! ……って、おいっ!」
男性が俺の前に出ようとしたが、俺が止まらずに歩いたせいで男性を追い抜かしてしまう。そんな俺を男性は止めようとしたが、それよりも茂みの中から何かが飛び出てくる方が早かった。
「うわっと!」
「くそっ!」
茂みから飛び出してくた何かは俺に飛びかかり、そのまま、
「きゃん!」
甘えてきた。
俺に飛びついて来たのは全身が真っ黒な子犬で、ものすごい勢いで尻尾を振り回している。
「何だ? 何が起こった?」
男性が呆気にとられた顔で俺に近づいてくると、子犬はまたも威嚇し始めた。全身の毛を逆立てながら低い唸り声を出すその姿は、数秒前まで尻尾を振り回していた姿からは想像もできないほどの迫力だった。
「何で、俺にはいつもこうなんだよっ!」
男性は、本気で吠えかかる子犬に対し、半ば涙目になりながら叫んでいた。
「それは、あなたに適性がないからでしょう。それと、威厳がないからかしら?」
男性の叫びに答えるように扉が開かれ、その先にいた女性が首をかしげながら、男性に辛辣な言葉を投げかけた。
女性が現れると、俺に抱かれて男性に吠えていた子犬は態度を一転させて甘えるような声を出し始めたので子犬を地面に下ろしてやると、子犬は嬉しそうに女性の足元へと駆けていった。
「いい子ね、ベラス。ところで、その子は誰なの? もしかして、あなたの隠し子……なんてことはないわよね? あなた……」
女性の声に、男性は小刻みに震えだした。
「いや! そんなことはありえない! 実はこの子は、カクカクシカジカで……」
「そうなの……ベラス、行きなさい」
「ガファ!」
「のぉおおお!」
あの説明で通じたのかよ! とか思ったら、案の定通じていなかったようで、ただ単に女性の怒りを買っただけに終わったようだ。
それにしてもこの子犬、この男性に本当になついていないみたいだ。女性の命令が出る一瞬前には、男性の足に噛み付いていた。男性の反応を見て俺は、子犬に噛まれた程度で大げさな、とか思っていたが、男性が噛み付かれている部分の衣類が破れているので、俺が思っている以上に痛いのだろう。
「ベラス、ステイ!」
「キャン!」
女性の命令を聞いた子犬は可愛らしい声で返事をし、女性の足元に戻ってお座りをした。
「それで、何があったのかしら?」
男性は女性の言葉を聴いて、直立不動の体勢で森での出来事を話しだした。
「つまりあなたは、あの方たちを危険な目に合わせたのね。そして、この子に助けられた、と……」
「いや、確かに押されはしたが、それは一度守りを固めてから反撃に移ろうと言う作戦であって……」
「接近されていたことに気がつかなかったのが、一番の問題でしょう? 例え、相手が想定以上の手練だったとしても」
女性の言葉に男性はぐうの音も出ないようで、心なしか先程より体が小さくなったように見える。
「それで、あなたの失態は理解したけど、この子がここにいる理由は?」
「実は、このジークは異界人だ。それに、命の恩人を王都についたからといって放り出すことはできないし、かと言ってあの方たちに任せっぱなしでは、下手をすると権力争いに巻き込まれてしまう。ジークは平然としているが、記憶の大部分があやふやだそうで、当然この世界の常識もない。なら、うちで預かって常識を教えようかと思ってな」
男性が俺をここに連れてきたのには、そんな理由があったのかと初めて知った。ただ単に、銀髪の男性たちに得体の知れない俺を近づけたくなかっただけかと思っていた。
「そう、わかったわ。まずは食事を二人で食べておきなさい。その間に、お風呂と寝室の用意をさせておくから。ジークといったわね。私はサマンサ・ヴァレンシュタイン。あなたを連れてきたカラードの妻よ」
「カラード?」
聞き覚えのない名前に、小声でつぶやいてしまったのだが、それをサマンサと名乗った女性は聞き逃さなかった。
「もしかして、何も聞いていないのかしら?」
その言葉に素直に頷くと、女性はにこやかな笑顔で近づいてきた。
「まあ、そのことは後で話すとして、あそこのメイドについて行きなさい。食事の用意をさせるから。食事のあとはお風呂に入るのよ。上がる頃には寝室の用意ができているはずだから、そのままおやすみなさい。明日は少しやることがあるから、忙しくなるわよ」
そう言ってドアの後ろに控えていた女性に目配せをして、自分は男性(恐らく彼の名前がカラードだと思われる)を連れてどこかへと歩いて行った。
「ジーク様、こちらへどうぞ」
「キャン!」
どこかへと消えていく二人を見送っていると、控えていた女性に案内されて食堂へと向かった。俺の足元では、ベラスと呼ばれていた子犬がはしゃいでいる。踏まれないように気をつけているみたいだが、時折避けようとする俺の足と同じ方向へ動くので、いつか踏みつけてしまわないかとヒヤヒヤしながらの移動だった。
久々にまともな食事にありつけた俺は、そのまま案内のメイドに風呂に連れて行かれた。この世界でも、風呂に入る前に体を洗うことが常識なのだそうだ。一通りの説明を聞いて、いざ風呂に入ろうとすると、何故かメイドが風呂場に控えたままだったので退出してもらった。どうやら、俺がちゃんと風呂に入れるか心配していたようだ。出て行ってくれと頼まれた時は難色を示していたが、風呂の入り方を確認すると俺の頼みを聞いてくれた。
風呂のあとは寝室に案内されたのだが、この屋敷にきてからそれなりの時間がたっているはずなのに、この屋敷の主人であるはずの二人はまだ外で話をしているみたいだった。
「キャン」
そして、何故かベラスは俺にあてがわれた寝室にまでついてきて、真っ先にベッドに乗り込んでいた。どうやら一緒に眠るつもりらしい。犬と寝るのは初めてなので、寝返りで潰してしまわないか心配したが、俺がベッドに乗ると頭の方へと移動していたので、寝返りをしてもひどいことにはならないだろう。そんなことを考えながら俺は、久々に柔らかなベッドに横たわったせいか、すぐに意識を手放してしまった。