第八話
ようやくディンドランさんたちの監視の目が緩んだので、俺も食事を楽しもうとテーブルを見て回っていると、
「はっはっはっ! その調子では、私に牙どころか爪も届くことはありませんよ!」
やけにテンションの高い今聞きたくない声と、まるで獣の唸り声のような……と言うか、まんま獣のむきになっているような声が部屋の隅の方から聞こえてきたので、一応確認してみることにした。すると、
「何やってんだあいつらは」
向かった先には、まるで闘牛士のように突進してくるベラスをひらひらとかわしている赤ら顔のクレアと、息を切らせながら必死になってクレアに何度も突進しているベラスがいた。
「なあ、一体何があってああなったんだ?」
俺は近くで心配そうにクレアを見ていたクーゲルに話しかけると、
「申し訳ない、ヴァレンシュタイン男爵。クレア様がその……男爵の犬を無理やり捕まえて臭いをかいで、臭い臭いと連呼してしまい、それに腹を立てたらしい男爵の犬が、クレア様に襲い掛かってしまって……」
「ああなっていると。そんな状況で止めに入らないということは、ベラスではクレアに怪我を負わせることが出来ないと思っているということだな?」
「いやまあ、確かにそれもありますが……正確には、怪我を負わせることが出来ないからではなく、多少の怪我ならクレア様はご自身で治せてしまいますので」
確かに、いくらベラスが魔物だからと言っても、今はクーゲルが言う通り大きめの犬くらいにしか見えないのだ。そんなのがクレアに噛みついたとしても、体が頑丈なクレアなら一瞬で致命傷を負うという可能性は低いし、そうなる前にクレア自身が魔法で怪我を治療してしまうだろう。
クーゲルはそれが分かっているのと、今止めてしまうとクレアが機嫌を損ねて面倒臭いことになるかもしれないので、ある程度満足するまで遊ばせている状況だということなのだろう。
他の皆も宴会の催し物の一つだととらえているのか、クレアとべラスの熱闘を観戦しながらそれぞれ酒や食事を楽しんでいた。しかし、
「あっ! お~い、ジークさ~ん!」
何を思ったのか、クレアは視界の隅に入ったらしい俺を見つけると、べラスから意識を外してこちらに向かって手を振り出した。
そしてベラスは、ここが好機とばかりに身を屈めて力を溜めて、
「あ……」
無防備なクレア目掛けて、これまでで一番と言うくらいの速度で突進した。
流石にこれは危ないと、急いでクーゲルが割って入ろうとしていたが、とてもではないが間に合うものでは無い。
クレアも、自身がやらかしてしまったことを理解したのか、一瞬焦るような顔をしたものの、
「なんちゃって! バリアー!」
すぐに自分の目の前に指で大きな四角を空中に描くと、そこにガラスのような壁が現れた。急に現れた壁に、ベラスは激突……しそうになったものの、何とか直前で地面に着地するかのように四本の脚を壁に付けて激突を回避し、そこから横っ飛びでクレアの側面に回ると、再度突進を仕掛けた。
「「「おおっ!」」」
このベラスの離れ業に、観客たちは感嘆の声を上げた。だが、
「ふっ、甘いです!」
「ギャン!」
即座にクレアはまたもベラスの目の前にバリアを作り出した。しかも、今度はギリギリまで引き付けてからバリアを出したので、べラスは回避することが出来ずに顔から激突して悲鳴を上げていた。
「なかなかの動きでしたが、それでもまだ私に届くには遠かったようですね! でも、誇っていいですよ! 何せこの私に、切り札の一つを二度も使わせたのですから!」
などと、クレアは涙目で鼻っ面を押さえているベラスに向かってドヤ顔で胸を張っていた。
この様子には、観客たちからブーイングの嵐が巻き起こったが……クレアは全く気にせずに、逆に観客たちに向かって手を振って応えていた。まあ、観客たちも本気でブーイングしていたわけではなく、その場のノリでやっていただけのようで、クレアの行動を笑って楽しんでいた。
それにしても、
「障壁をあんな簡単に作り出せるのか。あの勢いの突撃をまともに食らってもびくともしていないみたいだし、何よりも本気で作ったようには見えなかったから、まだまだ強度を上げることが出来そうだな」
これまで知らなかったクレアの技を見ることが出来たのは運がいい。俺も障壁自体は作ることが出来るが、あそこまでの強度を出すことは出来ないので、かなり参考になる。
それに、クレアが自分で切り札と言ったように、あれはもしかすると俺が思っている以上に秘匿性の高い魔法なのかもしれない。
俺の呟きが聞こえたのか、すぐそばにいたクーゲルは少し顔色が悪くなっていたが、すでに知られてしまったものは仕方がないし、変に突っ込むよりは知らないふりをした方が都合がいいと判断したのか、俺に対して何も言わずにクレアの元へと駆け寄っていた。
(方向を一点に定めることで強度を上げているのか、もしくは魔力の力技で強度を上げているのかは知らないが、指定した場所に発生し続けることが出来るのなら色々と使い道が多そうな魔法だな)
ただ、同時に何個も作ることが可能なのか? 出来たとしてどれだけの魔力が必要なのか? 作り出した後で動かすことが可能なのか? など、見ただけでは分からないことだらけで、もしかするとデメリットの方が多く使いにくい魔法ということもあり得るので、この辺りは何度も検証してみないと実戦で使うには不安が大きい。
まあ何にせよ、まずは俺が使うことが出来るのか試してからの話だな。もし使うことが出来なくても、その情報だけでも何かの役に立つことはあるだろう。帰ったら、サマンサさんやエンドラさんに相談してみよう。
もしかすると、クレアの使ったバリアという魔法の情報が、この旅で一番の収穫になるかもしれないと思いながら、俺は鼻を押さえているベラスを回収して魔法をかけてやり、クレアとは逆の方向へと逃がしてやった。
ちなみに、クレアはかなり酔っていたようで、そのせいでいつも以上にテンションが高かったようだ。なお現在は、クーゲルに怒られたので自分で魔法を使って酔いを醒まして、今度は腹が減ったからと料理の置いてあるテーブルへと突撃し、皿に料理を盛ることに夢中になっている。
俺はクレアに絡まれないように注意しながら腹を満たしていたのだが……流石に不規則に料理と料理の間をせわしなく動き回るクレアを完全に回避することは不可能で、いつの間にかクレアは俺の後ろをついて回るようになっていた。
最初の内こそ気付かないふりをしてやり過ごしていたものの、十分もしない内に怪しまれてしまい、ついには目の前に回り込まれてしまった。
流石にそうなってしまっては気が付かなかった振りを続けることは出来ず、適当に相槌を打ちながら好きにさせていたのだが……そのせいでディンドランさんたちの警戒度が上がってしまったようで、俺の周りはディンドランさんとケイトにキャスカ、そしてクレアと何故かフレイヤに囲まれることになってしまった。
傍から見ればハーレムを作っているように見えるかもしれないが、実際は俺の周りだけ重苦しい雰囲気に包まれるという、気の滅入るような状況となっていたのだった。
そんな状況の中で唯一クレアだけが呑気に食事を続けていた。俺としてはこの状況を作り出した原因の一人であるというのに、そんな我関せずと言ったクレアの態度に腹も立ったが……同時に、クレアに文句を言っても意味が分からないだろうし、下手をすると逆に悪化する可能性があったので、見て見ぬふりをするしかなかった。
そんな心の休まらない歓迎会は日が変わる頃まで続き、用意していた酒が無くなったことで解散となったのだが……
「さて、この二人の処遇はどうしましょうかね?」
「間違いなく有罪」
「サマンサ様に報告の後、しかるべき裁きを与えるのは確定として、その前に我々からも罰を与えるべきだと思いますが、いかがいたしましょう、男爵?」
一応、宴会の最中は常にどちらかが俺のすぐ近くにいたロッドとマルクだが、最後まで重苦しい雰囲気の漂う場の中には入ってこずに食事を続けていたということで、宴会が終わった後で女性陣によって裁判が行われようとしていた。
俺としては女性陣がピリピリしているような場所に近づきたくはないというのは理解できるのだが……それはそれとして、助け船を出してくれてもいいのではないかという思いもあるし、何よりも仕事を放棄していたと女性陣が主張すれば、それを否定することも出来ない。なので、
「判決を言い渡す。被告二人の処遇は、ディンドランさんたちに任せる。ただし、ディンドランさんたちは非人道的なことはせず、三人で話し合って適当と思われる罰を与えるよう心掛けるように。以上、解散!」
全てディンドランさんたちに任せることにした。
これなら三人は各々が納得する罰を与えることが出来るし、何よりも俺が面倒なことをしなくていい。ただまあ、ロッドとマルクには気の毒ではあるが……自分たちにも悪いところがあったと納得し、今後の人間関係の為に我慢してほしい。
そう言う思いを込めた視線を送ってみたものの、二人にはそんな俺の思いを察する余裕はなかったようで何か言おうと俺に向かって手を伸ばしていたが、俺に届く前にディンドランさんたちが間に立ち塞がったので、俺にはどうすることも出来ない状況となってしまった。
その後、俺はばあさんに五人のことは放っておくように頼み、まだ空けてあるという元俺の住処へと、腹を膨らませて寝ていたベラスを連れて向かい、マジックボックスから寝具を取り出して眠ることにした。
念の為、誰かからの襲撃があっても時間が稼げるように、何か対策をしておこうかと思ったが……万が一本当にそんな状況になると、逆に動きにくくなりそうだったので鍵もかけずに眠ることにした。まあ、結局のところそんな心配は杞憂に終わり、寝ている最中に部屋を訪れたのは裁判が終わって俺の様子を見に来たディンドランさんだけだったし、そのディンドランさんも俺が寝ているのを確認してすぐに戻っていったので、俺は朝までぐっすりと眠ることが出来たのだった。
「それじゃあ身支度も終わったみたいだし、出発するか?」
起きて食事と身支度を終えた俺たちは、最初の予定をかなり繰り上げてスタッツを出ていくことにした。
本当なら十日は滞在する予定だったので、最低限の予定しかこなすことが出来なかったが、今代の雷の襲撃があったことを考えるとのんびりすることは出来ない。
何せ、バルムンク王国の貴族として行動していた俺が今代の雷に襲われたことをウーゼルさんたちにも報告しないといけないし、何よりも今代の雷がまた襲ってくる可能性もあるので、予定の繰り上げは仕方のないことだろう。
まあ、俺としては今代の雷が同郷に近い人間だという情報と、ベラスのおかげでクレアの切り札の一つを知ることが出来たので、個人的には収穫があったので良しとしよう。
「慌ただしい男だね、全く……まあ、また来るつもりらしいから、今度来た時はゆっくりしていきな。それと……」
見送りに来ていたばあさんは、周囲を気にしながら俺に手招きすると小声で、
「明け方に来た知らせだけどね。ジークの情報を売ろうとしていた職員が商業組合の幹部に自首して、ジークの提示した罰を受けることにしたそうだよ。素直に罰を受けるということで、解雇はしないとのことだが、本人には見習いの身分に落とした上で、再教育を受けさせることに決まったそうだ。軽い出来心だったようだけど、その代償は高くついたみたいだね。まあ、組合員であり上得意でもある人物の情報漏洩をしようとしていたんだ。当たり前の罰ではあるね」
商業組合で見つかった俺の情報を売ろうとしていた男の処罰を教えてくれた。
ばあさんは複雑そうな顔をしてはいたものの、男のしでかしたことは一歩間違えば組合全体の信用問題にかかわることだったので、同情は出来ないと言った感じであった。
「それでジュリの方だけど、やっぱり巻き込まれただけのようだね。金目のものを持っていたのは、男と逃亡する為の資金にするつもりだったみたいだけど……そこはまあ、惚れた弱みで地獄の底まで共にと言ったところみたいだよ」
ばあさんがそう言うのなら、それが真実なのだろう。
それに、一応今回の事件に女は直接かかわっていないものの、仲間内からは疑いの目を向ける者も出始めているということらしく、男程ではないもののしばらくは厳しい環境で仕事をしなければならないだろうとのことだった。
「お~い、ジーク!」
ばあさんとの話が終わったタイミングで、おっさんとフリックとチーが小走りで近づいてきた。
ばあさんはおっさんたちの様子から何かを察したようで、すぐに折れのそばから離れて行った。
「もう少しゆっくりするもんだと思っていたが、思った以上に早く出発するんだな。間に合ってよかった」
おっさんは少し息を切らせながらも、離れて行ったばあさんの位置を確認し、ばあさんと同じように周囲を気にしながら小声で、
「ジークの情報を売ろうとしていた奴だが……こうなった」
と言って、自分の首を親指でかき切るようなしぐさをして見せた。
「解雇か?」
と俺が聞くとおっさんは、
「いや、そのままの意味でだ」
と、表情を変えずに行った。
俺は思わずそばにいたフリックとチーに視線を向けたものの、二人はそっと目を逸らすだけで何も言わなかった。
「調査の内容で処罰を決めたにしても、少し早すぎじゃないか?」
まるで何か不都合なことから隠すための人身御供にしたのではないかという決断の速さに、俺は少し疑いの目を向けたが、
「いや、処罰された男は元々素行不良だった上に、色々な嫌疑がかけられていてな。ジークたちがギルドを出て行った後で、ジュノーが男の家に子飼いの奴らを送ったらしいが、すでにもぬけの殻だったそうだ。ただまあ、運よく別のところに隠れていたのを発見して身柄を確保することが出来たそうだが、その際に男の家の中を調査したところ、改竄済みや途中の書類なんかがいくつか見つかってな。その中には持ち出し禁止のも含まれていたそうで、すぐに他の資料と照らし合わせたところ、男の横領が発覚したそうだ。それで拷問にかけたところ、色々と表に出せない話が出てきたらしくてな。それで即処分が決定され、実行に移されたとのことだ」
それらはおっさんの知らないところで行われていたそうで、おっさんは少し不満そうな顔で話していた。
恐らくだが、ギルド長がおっさんに言わずに行ったのは、おっさんから俺に情報が流れるのを少しでも防ぐ為だったのだろう。
もし仮に男を確保して処分するという話が俺の耳に入れば、俺は間違いなくその場に立ち会わせるように要請しただろうし、そうなれば隠しておきたい情報が目に入る可能性もあった為に、なるべく可能性を低くした上で、秘密裏に最速で男を消すことにしたのだと思う。
「まあ、その後のことは全て任せていたから、俺の方からどうのこうのと口を出しはしないが……おっさんは違うみたいだな?」
犯人の処分に関してはすでに興味を失っていたので、処分までの速度に驚きはしたものの特にいうことは無いのだが、どうもおっさんは違うようだ。
「当たり前だろ? ジークの歓迎会でいいもん食っていい酒飲んで、いい感じに酔っぱらって帰っていたら急にジュノーの子飼いが現れて、強引に連れていかれた先でいきなりそんな話を聞かされたんだぞ! いい気分が一気に台無しになったし、後は寝るだけだったのにそのまま書類の調査を手伝わされたら、不機嫌になるの当たり前だ!」
おっさんの言葉に、フリックとチーも頷いていた。どうやら書類の調査には、この二人も駆り出されていたようで、よく見るとどことなく機嫌が悪そうに見える。
確かにいい気分だったところにいきなりそんな仕事を押し付けられもすれば、おっさんのように不機嫌になるのも当然だろう。
「とにかく、これで一応裏切者は居なくなったはずだし、ジークを侮るような奴も減るだろう。まあ、そもそもの話、ジークのことをちゃんと調べていたのなら、侮るなんてことはしないはずだが……そう言った意味ではロウの功績は大きかったとも言えるな。それに今回のことでジークがバルムンク王国の貴族であるという話も広がるだろうから、余程の馬鹿でない限りは近づかないだろう」
と、おっさんが笑うとフリックとチーも同じように笑っていたが……いつどこの国にも、余程の馬鹿というのはわいてくるものだし、今代の雷のように権力さえあればどうとでも出来ると考える奴もいるだろう。
「過度な期待はしない方がいいが、コバエが減りそうなことは素直に喜んだ方がいいのかもな」
「それくらいの考えでいた方が、疲れなくて済むと思うぞ!」
「バルトロ、うるさいよ! 近所迷惑だから、声は抑えな!」
おっさんは酒がまだ抜けていないのと寝不足なせいか、かなりテンションが高く、大きな声で笑い出したせいでばあさんが怒鳴っていた。
「ベラドンナも十分煩いじゃないか……」
おっさんはガキのように不貞腐れながら、ばあさんに聞こえないくらいの小さな声で文句を言っていたが……そのせいで余計に情けなく見えていた。
「とにかく、次はいつになるか知らないが、暇が出来たらまた遊びに来い。歓迎してやるからな」
と言って背中を叩こうとしていたので、俺はすぐにその場から離れてモニカさんのところへ挨拶に行った。
モニカさんは孤児院の子供たちと一緒に来ていたが、子供たちにはまだ早い時間だったようで、三人は目をこすりながら眠そうに立っていた。しかし、
「朝飯もまだみたいだから、代わりにこれを……って、おい!」
腹がすいているだろうと思い、お菓子を入れた袋を渡そうとしたところで、三人はいきなり覚醒して俺から袋を奪い取っていた。もっとも、すぐにモニカさんから拳骨を食らい、説教を受けていたが……お菓子だけは取られないようにしっかりと守っていたので、あの様子では説教はあまり効果はなさそうだ。
「いや、悪いね。いつもはもう少し言うことを聞くんだけど、久々にジークと会ったからか、少し調子に乗っているみたいだ。それで、今更言うのもおかしな話だが、スラムの方にもジークの情報を売ろうと考えていた奴らがいたみたいだよ。まあ、そう言った奴らは周りから止められるか考えただけで実行には移さなかったみたいで、今のところ処罰されるようなことをしたという話は入っていないね。それで……」
「見つかったとしても、ほったらかしでいいですよ。正直、スラムまで手を伸ばす余裕は無いし、俺が居なくなったら使えない古い情報になるだけです。それに、スラムは冒険者ギルドや商業組合以上につながりが複雑で厳しいでしょ?」
「そう言ってもらえると助かるよ。まあ、出来る限り敵対するような真似だけはするなと注意はしておくからね。そこから先は完全な自己責任だとも」
スラムに関しては、俺は無関係ではないが関係者と言えるほどの付き合いは無いので、向こうがどうしようがほったらかしにするしかない。それに、下手に手を出してしまうと、失うものは何もないという危険な奴らを敵にしてしまう可能性もあるのだ。
戦力としてみれば、俺を相手にするには全く足りないが、顔も知らない奴らがどこから現れてどんなことをしてくるのか分からないのは面倒臭いので、スラムの人間の小遣い稼ぎくらいは見逃してもいいだろう。
これで見送りに来てくれた人たちとは挨拶が終わったので、早速出発するか! ……と思い、馬車に乗り込もうとしたところ、
「間に合いましたー!」
土煙が上がるくらいの勢いで、クレアが俺たち目掛けて走ってきた。
「酷いですよ、ジークさん! 帰るなら帰るって、ちゃんと言ってくれないと! もし間に合わなかったらどうするつもりだったんですか!」
「いや、どうするも何も、そのまま何事もなく帰るつもりだが? それに、今日の朝スタッツを出発するというのは、昨日教えたはずだろ?」
別に教えなくてもいいとは思っていたが、クレアがいつまでスタッツに居るのかと煩かったので、昨日の宴会の時にちゃんと教えていたのだ。文句を言われる筋合いはない。
「……そうでしたっけ?」
クレアは不安になったのか、ようやく追いついて肩で息をしているクーゲルとフレイヤに確認すると、
「ヴァレンシュタイン男爵は遅くとも昼前にはスタッツを出発すると、ちゃんと寝る前に言いましたよ。だから、フレイヤに何度も起こしに行かせたのです」
「クレア様は何度声をかけても目を覚まさず、体をゆすってようやく反応しましたが、起きる起きると言いながら、なかなか布団から出なかったんですよ」
二人から口早に言われてしまい、クレアはバツの悪そうな顔になっていた。
「と、とにかく! 間に合ったんだから問題なしです! それでジークさん、次はいつ遊びに来るんですか?」
しかしクレアは、反省したような顔は一瞬しただけで、その次の瞬間にはいつも通りの能天気そうなクレアに戻っていた。
「いつと言われても、そう簡単に国外に来ることは出来ないし、それはクレアも同じことだろ? そもそも、なんで聖国のクレアがそう何度もスタッツに来ているのかの方が意味が分からないんだが?」
スタッツは、バルムンク王国とカドゥケウス聖国のちょうど中間辺りに位置しているものの、スタッツと聖国の間には山が多く、直線距離で同じくらいでも王国からくるよりも時間がかかるはずだ。
しかも、クレアは聖国の聖女と言う立場にあるので、教会がそう何度も遊ばせるとは思えない。
そう思っていたのだが、
「それはですね……聖国に居ても、あまり仕事がないからなんです! それくらいなら、他の国を回ってきて、信者を増やしてこいって言われているんです! まあ、あの国にいるよりも他の国にいた方がおいしいものを食べられるので、私としてはそっちの方が嬉しいんですけどね!」
などと言って、クレアは胸を張って笑っていた。
俺は、そんなことが本当にあり得るのかと思いクーゲルを見たが……クーゲルは複雑そうな表情をしてクレアを見ていた。しかも、俺の視線に気が付いたクーゲルは、すぐに目をそらして俺から表情を見えにくくしていたので、かなり信ぴょう性の高い話のようだ。ただ、クーゲルのあの様子からすると、クレアが自分で言った以上に闇深い話の可能性も高いので、これ以上のことは聞かない方が身の為だろう。
「まあ、クレアの事情は大体理解したが、そっちとは違って俺はそう簡単にスタッツに来ることは出来ないからな、次と言われても予定は立てられない」
そう答えると、クレアは残念そうな顔をしたが、何かを思いついたような顔で、
「それならいっそのこと、私が」
「いけません!」
何かを言い切ろうとしたところ、クーゲルが大声で割って入ってきた。
その声はかなり大きく怒気も含まれていた為、離れていたところで待機していたディンドランさんが剣を抜いて俺の前に飛んできた程だったが、クーゲルはそんなディンドランさんを完全に無視して、
「クレア様、我々が許可なく出歩けるのはスオ国内のみです! それ以外は例えクレア様といえども、上の者たちから罰を受けることになります! どうか発言には気を付けてください!」
真剣な表情でクレアを注意していた。
そんなクーゲルを見たクレアは大人しくなり謝っていたが……俺には何故そこまでクレアを王国に行かせたくないのかが分からなかった。過去にはバルムンク王国の端の方とは言え言ったことがあるというようなことを話していたはずだし、発言に気を付けるも何も、ここにはクレアとクーゲル、そしてフレイヤ以外の聖国関係者は居ないので、ここだけの話ということにしておいてもいいはずだ。
だというのに、クーゲルがあそこまで過剰反応するということは、やはりクレア関連で何か表に出せない重要なことがあるということなのだろう。
「クレア、クーゲルもそう言っていることだし、次に会えるかどうかは神様に頼んでおいた方がいいんじゃないか?」
俺は、そんな場の空気を和ませようと、柄にもない冗談を言ってしまった……と後悔していると、
「え~……そんなお願い事を聞いてくれる神様なんているんですかね?」
クレアは聖国の聖女とは思えない言葉を口にした。
そのことに強い違和感を感じたものの、これ以上は深追いしないと決めたばかりだったので、軽く笑って聞かなかったふりをした。
その後、何故かその場の流れで皆でスタッツの入り口まで移動したのだが、いざ出発しようと馬車に乗り込もうとしたところで、
「え~っと……わんちゃんは……いた! お~い、わんちゃん! 次に来るときは、ちゃんと体を洗ってもらうんですよ~! 臭いままだと、皆から嫌われちゃいますからね~!」
と、俺のそばで馬車に乗り込もうと待っていたベラスに向かって手を振っていた。
それを挑発とみなしたべラスは、即座にクレアに突進しようとして、
「おっ! やりますか?」
などと言いながら、空中に指で四角を描こうとしたクレアを見て足を止めた。
そのままクレアとべラスは睨み合い……
「ふっ……冗談ですよ、冗談! 昨日の今日で、私を越えられるはずはないですからね!」
更なるクレアの挑発で、ベラスは我を忘れてクレアに飛び掛かろうとした……が、
「ベラス! そんなにクレアと遊びたいというのなら、お前だけスタッツに置いて行くぞ!」
「ぎゃう!」
俺はジャンプしたベラスの胴体にシャドウ・ストリングを巻き付けて、一気に引っ張って馬車の中に叩き込んだ。
「クレアもいい加減にしないと、次に会った時は完全に無視するからな。当然、今回みたいなお菓子もなしだ!」
「それはあんまりです! ジークさんは、数少ないお友達を何だと思っているんですか!」
「やっぱり、お菓子無しは確定な」
そしてクレアにも注意すると、クレアはあろうことか俺を馬鹿にするような発言をしてきたので、次に会った時は無視する無視しないに関わらず、お土産は無しにすると心に決めたのだった。
そんな俺の言葉を聞いたクレアは、何か悲痛な声で叫んでいたが……俺たちはそれを完全に無視して、バルムンク王国に向けてスタッツを出発したのだった。