08.水神が姿を現す時
その日は、正午を過ぎたあたりから急に雲行きが怪しくなり、ポツポツと雨が降り始めたかと思うと、途端に大雨へと変わった。
泉の水面に打ち付ける雨がひっきりなしに描く波紋を眺めながら、アクアはいつものように時が過ぎるのを待った。
ミリアが泉に来るのは朝のみで、次に来るのは翌日の朝。
水神は今日はまだ姿を見せていないが、毎日現れるとは限らない。
現れた時には、アクアに見せつけるようにミリアの姿を映し出し、アクアもついその様子を覗いてしまう。
それをまたニヤニヤと笑みを浮かべた水神にからかわれる……というのがいつものパターンだった。
だが、水神が現れないとなれば、次にミリアの姿を見られるのは明日の朝という事になる。
(こんな大雨で、さすがに仕事はしていないだろうな……)
たとえその姿を見る事ができなくとも、アクアが考えるのはミリアの事ばかりになっていた。
その時――泉の前に、誰かが現れた。
(こんな日に人……? ……なっ……ミリアなのか!?)
咄嗟に、アクアは自分が浮上できる場所までやって来ると、その姿を確認した。
雨のせいでハッキリとは見えないが、それでも夕日色の髪色は、それがミリアであると主張している。
(なぜ彼女がここに……? こんな時間に来るなんて初めてだ……いや、それよりもこのままじゃ風邪を引いてしまう……!)
「おや……珍しいな。こんな時間に……」
突然、アクアの隣に現れた気配。
その声の主は水神だった。
「ふむ……」
そう呟くと、水神は水面へ向けて手を掲げた。
その瞬間、降り注いでいた雨が水面に着水する前に消え、波紋を描き続けていた水面が、シン……と静まり返った。
それなのに、ポツリ……ポツリ……と波紋を描く場所があった。
そこはミリアがいる所だった。
ミリアは泣いていた。
悲嘆に暮れる顔で、泉を覗き込む瞳から流れる雫が鼻筋をつたい、ポロポロと泉へと落ちていた。
その姿に、アクアは胸が締め付けられるような感覚になった。
(ミリア……何があったんだ……?)
辛そうなミリアの姿に、思わずアクアが手を伸ばす。
その時だった。
すうっ……と大きく息を吸い込むと、ザバァッ! と、ミリアが泉の中に顔を突っ込んだのだ。
(!?)
驚愕するアクアの目の前で、ミリアは口を大きく開き――。
『ふっっざけんじゃねえええぇぇぇぇぇ!! あのクッソやろおおぉぉぉぉ!!!』
泉の中を振動させるほど響き渡ったミリアの言葉に、アクアは耳を疑った。
一瞬、水神がミリアの中に乗り移ったのではないかとも思ったが、水神はアクアの隣で口元を抑えてプルプルと震えている。
そしてついに限界を迎えたらしく、水神は盛大に吹き出した。
「ぶぁっははははは!! あの娘、なかなか言うではないか!!」
お腹を抱えて笑い転げる水神を尻目に、アクアはポカンと口を開けたままミリアを見つめていた。
ミリアはすでに泉の中から顔を出しており、手で顔の水をはらうと、その顔はどこか吹っ切れたようで、さきほどまでの憂いが消えていた。
立ち上がり、踵を返すとミリアはそのまま歩いて去って行った。
それでも未だにアクアは唖然としたまま、その場に立ち尽くしていた。
「いやはや……彼女もなかなかの正直者であったな。私も彼女の事が気に入ったぞ」
その言葉にアクアはハッと我に返ると、すぐさま水神へ問いかけた。
「まさか、彼女まで僕のように所有しようとでも言うのですか?」
「ふむ……そうだな。もしも彼女がこの泉に身投げするのであれば、それも良いかもしれんな。だが、あの様子ではそんな気も起きないだろう」
「……」
「そうガッカリするな。そなたには私の我儘に付き合ってもらった恩があるからな。いずれはそれに相応しい恩を返そう。私の勘が正しければ……その日はそう遠くはないぞ」
そう言って意味深に笑う水神を見ながら、アクアは小さく溜息をついた。
確かに、アクアは少しだけガッカリしていた。
もしもミリアが自分と同じように、水神のものとなったのならば……同じようにここで過ごせると思ったから。
(まさかここで彼女と共に過ごしたいなんて……それは彼女に死んでほしいと言っているようなものなのに……)
そんな自己嫌悪に苛まれながら、数日が経過し――あの日がやって来た。
◇◇◇
それは良く晴れた日だった。
いつものように、ミリアは泉へとやって来た。
夫のケビンと共に。
どこか嬉しそうなミリアとは裏腹に、アクアはそれを見て嫌な予感がしていた。
その予感はすぐに的中した。
水を汲もうと前かがみになったミリアの頭をケビンが掴み、泉の中へと押し付けたのだ。
(ミリア!!!)
苦しむミリアを前に、どうにか助けようとアクアは手を伸ばすが、ミリアの所までは浮上する事ができない。
浮上したところで、ミリアに触れる事もできないのだが。
ケビンの行動が、アクアには理解できなかった。
なぜ自分を見捨てずにいてくれた心優しき妻を殺そうとしているのか。
死ぬべき存在は、己自身ではないか。
もしこの体が自由に動けたのならば、今すぐにでもその命を奪ってやるのに――。
想像の中で、アクアはケビンを殺めて必死に煮えたぎる怒りを制御した。
だが、それ以上に何も出来ない自分への苛立ちも膨れ上がる。
そして――。
(もし、僕と同じようにミリアがこの泉に落ちたとしたら……ミリアも僕と同じように……)
そんな期待をする自分に、失望した。
だがどちらにせよ、このままではミリアはケビンの手により殺されてしまう。
あんな男の手の中で死ぬくらいならば――僕が彼女の最期を見届けたい。
触れられないかもしれないけれど……その体に寄り添いたい。
そんな思いから、アクアはミリアに向かって声を掛けた。
「ミリア、泉の中に入るんだ」
そう言ったところで聞こえるはずがないのはアクアも知っていた。
だが、その言葉どおりにミリアは抵抗をやめて泉の中へと落ちたのだ。夫と共に。
しかしミリアはすぐに泳いで浮上すると、陸へと上がっていった。
離れていくミリアを前にして、アクアはホッと安心しながらも、少しだけ残念な気持ちにもなった。
(ミリア……助かって良かった。やっぱり僕の勝手な都合で彼女を死なす訳にはいかない)
そうやって、アクアは必死に自分を納得させた。
「諦めるのはまだ早い。これは良い展開だ」
「……!」
突如、アクアの背後に現れた水神は、いつもと変わらない落ち着いた口調でアクアに語り掛けた。
「そなたも知っているであろう? 私が外の人間に姿を現わす条件を。それが今、満たされた。彼女に与えるべきものも……ここにある」
そう告げて、水神はアクアを指さした。
「……僕……?」
信じられないような顔をするアクアに、水神は穏やかな笑みで応えた。
「そなたと過ごした時間はなかなか楽しかった。感謝する。あとは私の問いに対して、彼女が正直に答える事を祈っておれ」
そう言い残し、水神はアクアの前から姿を消した。
そしてミリアの前へとその姿を現わしたのだった――。