07.ミリアとの出会い
死んだはずのアクアの意識は、泉の中で覚醒した。
ふわふわとした浮遊感に包まれながら、アクアは自分の手を目の前にかざした。
その手は薄っすらと透けており、泉の中にいるのにも関わらず、水に触れているという感触はなかった。
まるで実態を持たない幻影のような……そんな感じだった。
自分が置かれている状況が分からず、戸惑うアクアの前に水神が姿を現わした。
「哀れな男だな。正直に生きるがゆえに殺され、捨てられてしまうとは……」
突然の事に、アクアはただただ目を見張り硬直する。
すると水神はアクアの顔面まで迫り、ジロジロと観察し始めると、怪訝そうに眉を顰めて口を開いた。
「しかしこんなイケメンを子孫も残さず殺すとは、なんともったいない事を……いや、イケメンゆえの悲劇というものか……」
「……あなたは……誰だ?」
「私は古からこの泉に住まう神だ。そなたら人間は私の事を水神と言うが……まあ、それで間違いはないだろう」
「神……? では、貴方が僕を救ってくれたのですか……?」
「救った、というのは違うな。そなたは間違いなく死んだ。だが、その魂を私がもらい受けたのだ」
「……?」
水神は腕を組み少しだけ反り返ると、不敵な笑みを浮かべた。
「私は昔から正直者が好きなのだ。……どうやら、あの男の子孫はみな正直者のようだな」
「……!」
直感的に、アクアは水神の言う人物が自分の先祖であると確信した。
正直者ゆえに、神から授かり物を受け取ったという男。
古来より伝わる言い伝えに出てくるその人物が、自分の先祖であるというのはアクアの家系であれば誰もが知っていたからだ。
「……ですが……この体質のせいで、今までに幾度となく苦労させられました」
「そうであろう。人間は嘘が好きな生き物だからな。自分が気分よくなれるのであれば、それが真実かどうかなど、どうでもよいのだろう」
「……」
「なにはともあれ、せっかくだからしばらくは私の話し相手になってもらうぞ。今ではすっかりこの泉には誰も近付かなくなったからな。たまに来る連中は相変わらず不要な物を捨てていくだけ……まあ、今回は良いイケメンを拾ったわけだが……」
にんまりと微笑む水神は、アクアをジッと見つめた。
「ここには私とそなたしかおらぬ。末永く仲良くしようじゃないか」
「……仲良くできるとは思わないのですが」
「ふっ……はっはははは! 神である私にその態度とは! やはりそなたは正直者だ! これはしばらく退屈しないで済みそうだ」
そうして、アクアは水神と共に泉の中で過ごすようになった。
水神は気まぐれに姿を現わすと、アクアと他愛のない会話を交わし、再び姿を消した。
それ以外は、アクアは何をする事もなく、ただぼんやりと空を眺めて一日を過ごした。
体がないから食事をする必要はなく、眠気も訪れない。
ただただ退屈な時間だった。
(こんな事なら死んだ方がマシだったんじゃないか……? いや……もう死んでいるのか……)
そんなどうでもいい事を考えながら……アクアは虚無のような世界に身を委ねた。
そうして一年が経ち……十年……二十年と時が過ぎ――数えるのも嫌になるほどの時が経った。
いつものように無心で空を眺めるアクアの視界に、一人の女性が現れた。
長く鮮やかな夕日色の髪に、泉のように澄んだ水色の瞳。
ハァハァと息を切らし、泉を見つめる女性は隣接する村にやって来たばかりのミリアだった。
その切羽詰まったような表情が、次第に和らいでいく。
「ああ、神様。命の恵みに感謝致します」
手を組んで祈りを捧げると、ミリアは泉の水を両手で掬い、自らの口へと運んだ。
コクリ……と喉を鳴らし、満足そうに息を吐く。
「おいしい……」
そしてもう一度、更にもう一度と泉の水を口にした。
それからミリアは持って来た水桶で泉の水を掬った。
二つの桶に水を汲み終えると、ミリアはそれを両手に持ってヨロヨロと歩きながら泉から去って行った。
それはあっという間の出来事だったが、少なくともアクアにとっては印象深い出来事だった。
(今の女性……水を汲むためだけにやって来たのか……?)
アクアが泉で過ごし始めてから今まで、人が来なかったわけではない。
ただ、ミリアのように水だけを求めてやって来る人間は一人もいなかった。
――他の者はみな、ある目的があったからだ。
(近くに住んでいるのか? それなら……またここへ来るだろうか……)
その日、アクアは夜が更けて朝日が昇るまで、ミリアの事が頭から離れなかった。
◇◇◇
次の日の朝も、ミリアは水を汲みに泉までやって来た。
女性に不釣り合いな大きさの荷車を引いて。
泉の前まで来ると、ミリアは昨日と同じようにして神へ感謝の言葉を告げ、荷台に乗せていた複数の水桶に水を汲んでいった。
それを荷台に並べ終えると、再び荷車を引いて去って行った。
たったそれだけの事。
それなのに、アクアはミリアから少しも目が離せなかった。
そして次の日も、その次の日も……ミリアは毎朝、必ず姿を現わすようになった。
何も変わらない日常。
そこにミリアが現れた事により、空虚感で蝕まれていたアクアの心が少しずつ変わっていった。
泉を見つめて微笑むその姿が、まるで自分へ笑いかけているようにも見えて、動かないはずの心臓が跳ねるような錯覚にも陥った。
日に日に、アクアはミリアが来るのを待ち遠しく思うようになった。
ミリアの姿が見えなくなると気持ちが沈み、長い一日を終えて再び日が昇る頃に、期待に胸が膨らんだ。
ただ、なぜそんな風に思うのか、自分でも理解できなかった。
それは久しぶりに目にした人間だからなのか。
それとも、泉を前に嬉しそうに微笑む姿が、単純に可愛らしいと思ったからか。
はたまた、細い腕で懸命に水を運ぶ彼女の姿が、なんとも健気でいじらしく思えたからなのか――。
「全部であろう」
「!?」
思い悩むアクアの前に、突如水神が姿を現わした。
「……勝手に僕の思考を読み取らないでいただけますか……?」
「それは無理だな。今のそなたは私の体の一部でもあるのだから」
フンッと意地悪く笑う水神を、アクアはじっとりと睨んだ。
「しかしそながた他人に興味を持つとは珍しいな。せっかくだから、彼女の様子を少し覗いてみようではないか」
「は……?」
大きく目を見開くアクアを無視して、水神が手をかざすと、そこにミリアの姿が映し出された。
水桶が乗った荷台を引いて、時々足を止めて休憩しながら懸命に水を運ぶミリアの姿を見て、アクアは手伝ってあげたいと思った。
「……て、人の様子を勝手に覗き見るのはどうかと思うのですが……」
「ふふっ……そなたこそ、さっきから彼女に視線が釘付けになっておるぞ? 口だけでなく、体もなかなか正直者のようだ」
「……」
「そうだな……正直者のそなたには、彼女の湯浴みする様子でも見せてやるべきか」
「やめてください……」
「しかし見たいであろう……?」
「……」
ニヤニヤと卑しく笑いながらアクアをからかう水神を恨めしく思いながらも、アクアはその言葉に反論できない自分の体質を心底恨んだ。
それからアクアは時々、ミリアの普段の様子を覗かせてもらうようになった。
彼女が『ミリア』という名前だと知り胸が熱くなったが、既婚者なのだと分かると気持ちが深く沈んだ。
だが、ミリアの夫がろくでもない男である事を目の当たりにし、激しい憤りを覚えた。
生活のため、たった一人で水を汲みに来るミリアを手伝いもせず、働きもしない。
挙句に、ミリアが懸命に働いて稼いだお金のほとんどを酒に使い、ミリアが働いている時間には他の女の所へと出掛ける。
それなのに、ミリアは文句の一つも言わずに夫と一緒に暮らしている。
そんな二人がアクアはもどかしくて仕方なかった。
(ミリアはなんでこんな男と結婚したんだ……? 僕なら……もっと君を大切にするのに……)
アクアは既に自分が死んでしまっている事を、初めて悔しく思った。