06.アクアの過去
二人が出会う場所となった泉へは、村から歩いてもさほど時間はかからない。
それなのに、ミリアが泉で村人と出会う事は一度もなかった。
今思えば、水神様が出現するくらいだから、よほど神聖な場所だったのだろう……と、軽率な行動を取ってしまった自分を恥ずかしく思った。
(でも、水神様は怒っていなかったみたいだったし……アクアまで授けてくださったのだから、きっと大丈夫よね……)
だけど、もしもう一度会えたのなら、改めて感謝を伝えなければ……と、アクアに手を引かれながら、ミリアはそう決めていた。
◇◇◇
空から降り注ぐ木漏れ日を浴び、緩やかに揺らぐ水面が光を反射しキラキラと煌めいている。
もう何度訪れたかも分からない泉を前にして、ミリアは気持ちが安らいでいくのを感じた。
「懐かしい……なんだか、もうずいぶんと来ていなかった気がします」
「そうだね。しばらく顔を出さなかったから、水神様に怒られそうだな」
苦笑いしながら、冗談っぽく言うアクアも泉を前にして嬉しそうにしている。
そして呆れるように呟いた。
「まあ、あの人の事だから、どうせ僕たちの様子は見られていただろうけどね」
「え……? 見られていた……?」
「ああ、あの人は自分が気に入った相手の生活をたびたびのぞき見しているんだよ。悪趣味だろう」
「……のぞき見……?」
笑顔でさらりと告げられた言葉に、ミリアは衝撃を受ける。
「え……それじゃあ……もしかして私たちの事も、水神様は見ていらしたと……?」
「そうだね。何度か見られていたと思うよ」
「……そうなのですか!?」
思わずミリアは泉に向かって問いかけるが、泉からは何の反応も見られない。
アクアが思わず噴き出すと、笑いながらミリアに言う。
「ははっ……無駄だよ。あの人はある条件を満たさないと姿を現わさないんだ」
「ある条件……?」
「うん。だけど、あまり不用意に呼び出さない方がいい。触らぬ神に祟りなし、ってやつだね」
「……?」
アクアの言っている事はよく分からなかったが、とりあえず水神様に会うのは難しいのだとミリアは理解した。
するとアクアは泉のすぐ前まで近付き、その場に腰を下ろした。
その隣で、ミリアも同じようにして草むらに腰を掛けた。
それからしばらくの間、沈黙の時間が続き――アクアが口を開いた。
「ミリアは、僕が水神様の手によって作られた存在だと思っているみたいだけど……僕は元々は人間だったんだ」
「え……そうなのですか?」
「ああ。僕もあの村の住人だったんだ」
「……!」
(でも……村の人たちはアクアを見て何も言わなかったわ……)
驚きに目を見開くミリアに柔らかく微笑み、アクアは穏やかな口調で続けた。
「もうずっと昔の話になるから、僕を知る人はいないんだ」
「……」
驚く事ばかりだが、ミリアは静かにアクアの話に耳を傾けた。
少し切なげな表情を浮かべたアクアがゆっくりと告げた。
「僕は昔、婚約者に殺されてこの泉に捨てられたんだ」
「……!?」
その衝撃的な告白から始まり――アクアは自分の過去を語り始めた。
◇◇◇
生前、アクアには婚約者がいた。
相手はアクアが暮らす村の領主である侯爵の令嬢。
アクアは代々、木こりを生業としてきた家系の生まれで、アクア自身も木こりとして仕事に励んでいた。
そんなある日、美しい青年がいると聞いて、一目見てみたいという好奇心から、侯爵令嬢は父親と共にアクアの村を訪れた。
そして案の定、アクアを見た瞬間に令嬢は心を奪われた。
溺愛する我が子から「アクア様と結婚したい!」と強請られ、侯爵は婚約話をアクアに持ち掛けた。
だが、アクアは躊躇する事もなくあっさりと断った。
理由は単純で「好きになれそうにない」と。
それに激怒した侯爵は、アクアを脅し始めた。
娘と婚約しなければ、今後村への支援は一切行わない。
村人たちは仕事を失い、路頭に迷う事になるだろう――と。
さすがに自分のせいで周りの人たちを巻き込む訳にはいかないと、アクアは仕方なく侯爵令嬢との婚約を承諾した。
だが、アクアは一度も令嬢に愛を囁かなかった。
たとえ、「嘘でもいいから……」とせがまれたとしても。
アクアは冷たい眼差しで、「結婚はするが、君を愛してはいない」と告げるだけだった。
アクアは昔から嘘がつけない体質だった。正確には、アクアの家系は皆そうなのだ。
嘘をついてしまった日には、体調が著しく悪くなる。
それを知っているから、アクアは一度も嘘をつかなかった。
一方で、アクアからの愛を拒絶されるたび、令嬢の心は壊れていった。
どんなに求めても得られない欲求は、日に日に激しさを増していった。
一心不乱にアクアの愛だけを求め、アクアに暴力を振るうまでにもなった。
それでも口を硬く閉ざすアクアに、「愛してるって言ってくれないと死んでやるから!」と、令嬢は自らの喉にナイフを突きつけた。
さすがに見かねたアクアは、一度だけ「君を愛してる」と囁いた。
その言葉に、令嬢が歓喜の表情を浮かべた瞬間、アクアはその場に倒れた。
突然の高熱を発症し、その日は一日中起き上がる事もできず、寝込むことになったのだ。
そんな姿のアクアを目の当たりにして、再び令嬢の心は歪み始めた。
「ねえ、そんなに私の事が嫌いなの……?」
朦朧とする意識の中で問いかけられたアクアは、本能のままに告げた。
「ああ、嫌いだ。君と結婚するくらいなら、死んだ方がマシだ」
その言葉を聞いた令嬢がどんな顔をしていたのか。
すぐに意識が途絶えたアクアが知る由もなかった。
――それから三日後。
令嬢から誘われて、アクアは泉へとやって来た。
そこはとある言い伝えのある泉で、村人なら誰も立ち寄らない。
だが、アクアは勘づいていた。
令嬢が何を目的として自分をここへ連れてきたのかを。
言い伝えとは少し違う、泉に関するある噂を知っていたから――。
自分の身におこる顛末を知ってもなお、アクアは何も言わなかった。
令嬢に振り回される日々に、嫌気が差していたアクアは自暴自棄になっていたのだ。
だから泉の前で自分に刃を向ける令嬢に、アクアは何の抵抗もしなかった。
『君と結婚するくらいなら、死んだ方がマシ』
その言葉すらも、偽りのない本音だったから。
間もなくして、アクアは令嬢の手により殺され、その死体は、泉の中へと捨てられた。