04.ケビンの不倫相手
アクアとの生活が一ヶ月を過ぎた頃。
アクアが仕事へ出掛けた後、間もなくして一人の女性がミリアの家を訪れた。
「あら、久しぶりね。えっと……名前はなんだったかしら……?」
開けた扉の先に居たのは、縦ロールに巻いたブロンズヘアーが印象的な、気品ある顔立ちをした美しい女性。
それは隣町に住む男爵夫人――レベッカだった。
鼻を突くような甘ったるい香水の香り。
ケビンの体からも同じ香りがよく漂っていた。
「ねえ、それよりもケビンはどこ? ここにいるんじゃないの?」
レベッカは何も返答しないミリアの体を押しのけ、ズカズカと家の中へと足を踏み入れると、手当たり次第に扉を開けだした。
寝室に入れば布団を剥ぎ取り、クローゼットを開ければ服を引っ張り出し床へ散らした。
自分の夫だった人物を探すレベッカを、ミリアは口をギュッと閉ざしたまま、ただ茫然と見つめていた。
(気が済んだらきっと帰ってくれるはず……)
そう信じて、諦めにも似た気持ちで時間が過ぎるのを待った。
その時、棚に飾ってあったウサギのぬいぐるみをレベッカが掴み取り、
「何これ。子供もいないくせに幼稚な趣味ね」
そう鼻で笑い飛ばし、ポイッと床へと投げ捨てた。
それはアクアが仕事で少し遠出をした時に、ミリアへのお土産として買った物だった。
『ミリアにそっくりで可愛かったから、つい手に取ってしまったんだ。良かったらもらってくれる?』
はにかんだ笑顔でそう告げ、手渡してくれたアクアの姿を、無造作に転がったぬいぐるみを見つめながらミリアは思い出していた。
◇◇◇
孤児院育ちのミリアは、幼い頃から我慢をする癖がついていた。
自分は本当の子供じゃないから、我儘を言えば追い出されるかもしれない。
そんな思いから、欲しい物を欲しいとも言えず、時々寄付されるおもちゃは、自分よりも幼い子供たちに譲っていた。
特にフワフワの可愛いらしいぬいぐるみは、女の子たちの間でも人気があり、当然ミリアも欲しかった。
それでも、どんなに欲しくても『私も欲しい』とは、どうしても言えなかった。
結局、ミリアの手にぬいぐるみが渡る事は一度もなかった。
結婚してからも、ケビンが贈ってくれる物は高価なアクセサリーや華やかなドレスの類。
ミリアにとってはそんなものよりも、可愛らしいぬいぐるみの方が魅力的に思えた。
――だが、ミリアは何も求めなかった。
求めれば自分が捨てられる。与えられた物だけを受け取ればいい。
いつの日か、我慢する癖だけでなく、諦める癖までもついていた。
そんなミリアの目の前に、突然現れた一匹のぬいぐるみ。
ずっと欲しくて堪らなかったそれは、ミリアの感情を大きく動かした。
ふわふわとしていて愛らしい目。両手の平にちょこんと乗っている姿がまた可愛い。
それを両手で受け取れば、綿のように柔らかくて、無邪気な顔でミリアを見つめてくる。
(なんて可愛いんだろう……)
お礼を言うのも忘れて、ミリアは感動に瞳を輝かせながら、しばらくそのぬいぐるみと見つめ合っていた。
その姿を、アクアは何も言わないまま、ただ嬉しそうに見つめていた。
その日から、ミリアは毎晩ぬいぐるみを抱き締めて眠った。
すると、あんなにも不安に駆られていた夜が、嘘のように穏やかになったのだ。
◇◇◇
「やめて……」
震える声で、ミリアは呟いていた。
それはレベッカの耳にも確かに届いたはずだった。だが、レベッカの動きは止まらない。
もう一度、ミリアは声を張り上げて訴えた。
「やめて! 勝手にこの家の物に触らないで!」
これにはさすがにレベッカもピタリと動きを止めた。
そしてジロッとミリアを睨み付けた。
「……は? なによ。あんたがケビンを匿っているのがいけないんでしょう!?」
「ケビンはここにはいないわ! 探しても無駄だから、もう出て行って!」
「ここにはいない? それはどういう意味かしら……? まさか、他に愛人でも出来たの? それとも……」
意味深に口元へ手を当て、レベッカは失笑しながらミリアに声をかけた。
「もしかしてあなた、ケビンを殺しちゃったの?」
「……!!?」
思いがけない言葉に、ミリアは息を呑んだ。
その反応に、レベッカは目を見張って驚いた。
「え? まさか本当に殺しちゃったの? ……ふっふふ……あんたなんかに殺されるなんて……ケビンもひ弱な男だわ。ねえ、いつ殺したの? もしかして死体を隠しているから私を追い出そうとしているの?」
「私は……殺してなんかいないわ!」
「じゃあなんでケビンがいないのよ!? あんなに私にベタ惚れだったのに……あんたが殺したんでしょうが! この人殺し!」
「人殺しはお前の方だろ?」
ミリアの背後から、その声は聞こえた。
咄嗟に振り返ると、無表情のアクアが開け放たれたままの扉の前に立っていた。
「はぁ? なんで私が……あら……? あなた、誰なの……?」
怪訝な顔でアクアに近付くと、レベッカは大きく目を見開いてその顔を凝視した。
「凄く綺麗な人……え……? うそ……あなた、もしかしてケビンなの……?」
「……僕はそんな名前じゃない」
「でも、その眉毛の傷痕……見覚えがあるわ」
アクアのすぐ目の前までレベッカが顔を近付けると、アクアはプイッと素っ気なく顔を晒した。
「やっぱり……あなたケビンじゃない!」
「だから違うと言っているだろう」
「嘘よ! だって――」
途端、レベッカはアクアの腹部の服を掴み取ると、それを勢いよく上へ持ち上げた。
あらわになったアクアの腹部は、鍛え上げられた腹筋が隆起しており、その肉体美を目の当たりにした女二人は思わず息を呑んで顔を紅潮させた。
だが、そこには筋肉だけでなく、痛ましい傷の痕跡も刻まれていた。
「ほ……ほら! この傷が証拠だわ! 昔、戦場で敵将と戦った時に出来た傷だって言ってたわよね!? 眉毛の傷もその時に出来たものだって……この体は確かにケビンに違いないわ! それなのに……なんで顔がこんなにも違うの?」
尚もアクアの顔を見ようと纏わりつくレベッカを前に、アクアは鬱陶しそうに顔をしかめ、レベッカの手から服を剥ぎ取り元に戻した。
「まぁいいわ! ねえ、ケビン。私の事、覚えてないの? あんなにも愛し合った仲じゃない……そうだわ! また今までのように愛を確かめ合えば、きっと私の事も思い出すはずよ。ねえ、ちょうどそこにベッドもあるし――」
「いい加減にしろ」
ゾッとする程に低く、怒りを孕んだ声。
うんざりするように大きな溜息を吐き出すと、アクアはレベッカに冷たく言い放った。
「無断で人の家に上がり込んだ挙句、妻のいる夫を誘惑するような女に何の魅力も感じない。虫唾が走るからさっさと出て行ってくれないか」
その言葉に、レベッカはカッと顔を真っ赤にしてアクアに食いかかった。
「はぁ!? 何よそれ!? そっちが喜んで誘いに乗ってきたくせに! だってこの女に愛なんて欠片もなかったのでしょう? 生活するために必要な道具って言ってたじゃない! それにこの女も同じよ! 私とあなたの情事を見ても、顔色一つ変えなかったんだか――」
刹那、ヒュッと突風が吹き、
「きゃぁっ!」
短い叫びと共に、レベッカは思わず瞼を閉じた。
しん……と静まり返る中、ゆっくりと瞼を開いた先――すぐ目の前に、鋭く尖る刃があった。
「ひぃっ!!」
叫び声を上げ、レベッカは腰を抜かして床へへたり込んだ。
仕事道具である斧を手に構えるアクアの瞳は、抑えきれないほどの怒りを孕んでいた。
よく手入れされた斧の刃は、窓から差し込む日の光をよく反射し、その切れ味の良さを主張している。
「これ以上、僕を怒らせるな」
唸るような低い声で、静かに牽制する。
これにはレベッカも身の危険を感じ、恐怖で涙を滲ませた瞳をアクアに向けた。
「な……な……どうして……」
「今すぐここから出て行け。でないと僕はお前をどうするか分からない。僕はそんなに気の長い人間じゃないんだ」
「……!! わ……分かったわよ!! 出て行けばいいんでしょう!? あんたなんか、こっちから願い下げだわ!」
喚くように捨て台詞を吐き出すと、レベッカはふらつく体を家具で支えながらヨロヨロと歩き出した。
そしてミリアとすれ違う瞬間、憎悪の眼差しでミリアを一睨みし、レベッカは家から去って行った。