03.新しい生活、幸せな日々
それから、ミリアに代わってアクアが泉の水を汲み、荷車を引いて村へと戻った。
村の広場には人だかりが出来ており、森から戻ってきたミリアたちを見るや否や、
「え!? ミリアちゃん……!?」
一人の女性が、信じられないものでも見たかのように声を上げた。
それに続いて他の人たちも次々にミリアの方へと振り返ると、二人はあっという間に注目の的となった。
そんな中、最初に声を上げた年配の女性が、恐る恐るミリアに近付いた。
「ミリアちゃん……あんた……」
――あの夫はどうしたんだい?
そう聞かれると思い、ミリアの体にゾクッと悪寒が走った。
(どうしよう……なんて答えればいいのかしら……)
皆から注目される中、焦れば焦るほどに何も考えられず……ミリアは咄嗟に顔を伏せた。
ギュッと瞼を閉じ、その先の言葉を待つ。
緊張感で手に汗を握るミリアの耳に、やたらと明るい声が聞こえた。
「良かったねぇ! やっとあのクソ旦那とおさらばできたんだね!」
「……え?」
予想していたのとあまりにもかけ離れた言葉に、ミリアはすぐさま顔を上げた。
その先にはニコニコと上機嫌な様子の女性。と、その後ろに控える村人たちも、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
その反応に、ミリアは呆気に取られたまま小首を傾げた。
もともと村の人たちは、ミリアに対しては友好的であった。
朝から晩まで真面目に働くミリアの姿を、多くの村人が目撃していたからだ。
そして夫から理不尽に罵られ、時には体に痛ましい傷が刻まれているのも、皆知っていた。
そんなミリアを可哀想だと憐れむ村人も多くいた。
中には毎朝水を汲むために泉へ通う彼女に、こっそり水を分けようとする村人もいた。
だが、ミリアは『大丈夫ですから』と、それを全て断っていた。
決して人の手を借りようとしないミリアに、声を掛ける村人もだんだんと少なくなっていった。
それなのに――。
(なんでみんな、そんなに嬉しそうにしているの……? それに――)
「そんな事よりミリアちゃん、こちらの色男は新しい夫かい?」
「え……? あ……えっと……」
突然問われ、言葉に詰まるミリアの横からアクアが口を挟んだ。
「はい。今日からこの村でお世話になります。ミリアの夫のアクアと言います。どうぞよろしくお願いします」
煌めくような微笑みを浮かべて爽やかに応えるアクアに、女性は頬を紅潮させて惚ける。
「あらぁ~ほんとイイ男だねぇ! それに体もガッシリとしていて逞しいわぁ!」
「少し前まで木こりをしていましたので。もしこちらでもその手の仕事があればぜひ紹介してください」
「おお! じゃあさっそくウチのところで働いてくれ!」
「いや待て! ワシのところも今人手不足なんじゃ! ワシのところにぜひ来てくれんか!?」
アクアの周りは、我先にと仕事先に名乗り出る人々であっという間に取り囲まれた。
「ミリアちゃんも、何か困った事があれば何でも言ってちょうだい」
「あ、そうだわ! きっと村長も井戸の使用許可を出してくださるはずよ。あの男のせいで今まで使えなかっただけなんだから」
「そうそう、ほんとろくでもない男だったわね。ミリアちゃんもよく今まで我慢してこれたわねぇ」
温かい言葉を掛けてくれる村人たちに、ミリアは苦々しく笑いながら相槌を打って応えた。
だが、蔓延る違和感は拭えない。
(なんで誰もケビンの事を聞かないの……?)
まるで示し合わせたかのような村人たちの反応。
それを少々奇妙に感じたものの、
(でも、とりあえず追い出されないみたいで良かった……)
そう思い、ホッと胸を撫で下ろした。
そして顔を上げた時、ちょうどアクアと目が合った。
アクアはミリアにニッコリと笑いかけ、「ほらね」と小さく囁いた。
◇◇◇
その日のうちに、二人の噂は村の隅々まで広まった。
噂を聞きつけた村人たちがアクアを一目見ようと、ミリアの家を訪れた。
一人一人、丁寧に挨拶を交わすアクアの印象は好評で、特に若い女性たちはアクアの美しさに釘付けになった。
その中には誘惑するような言葉を掛ける女性も。
だが、そんな時は決まってアクアが、
「僕が愛する人は妻のミリアだけだから」
と言って、はっきりと断った。
温厚で人当たりの良いアクアだったが、自分に好意の目を向ける女性に対しては、冷たい態度を見せる事もあった。
それを見た村人たちは、「アクアは本当にミリアちゃん一筋なのね」と称賛した。
一方でミリアはというと、喜びを露にするわけでもなく、自慢する訳でもなく。
いつもと変わらない微笑を浮かべてそれに応えた。
(きっと神様がそうなるようにアクアを生み出してくださったんだわ)
そう納得しながらも、ミリアは胸の内側がポカポカと温かい気持ちになっているのを感じていた。
◇◇◇
次の日から、さっそくアクアは木こりの仕事を始めた。
その手際の良さはすぐに村で評判となり、仕事の依頼が殺到するようになった。
そのおかげで安定した収入を得られるようになり、アクアの提案もあってミリアは仕事量を減らした。
井戸の使用許可も下り、今までのように朝早くから泉まで水を汲みに行く必要も無くなった。
ボロボロだった家も、アクアと村人たちが補修をしてくれたおかげで雨漏りに悩まされる事もなくなった。
それでも修繕だけではどうにもならない劣化もあるので、少し離れた場所に新しい家を建てる準備もしている。
そんな感じで、アクアが現れてからミリアの生活は大きく変わった。
何よりも嬉しかったのは、アクアがミリアを一途に愛している事だった。
仕事が終わればすぐにミリアが待つ家へと真っすぐ帰り、たとえどんなに疲れていようとも、出迎えたミリアに『ただいま』と笑顔で応えた。
それからすぐに汚れた体を清めると『ミリアに早く会いたかった』と囁き、ミリアの体を抱きしめる。
そして夕食の支度をするミリアの手伝いも怠らなかった。
ミリアが作った料理を幸せそうに頬張り、『美味しい』とアクアが顔を綻ばせれば、あっという間にお皿は空になった。
ミリア自身も、アクアにもっと喜んでほしくて、村の夫人に料理を教えてもらうようになった。
少しでも美味しい料理を出せるようにと、新鮮な食材を求めて隣町の市場にも足を運んだ。
新しい事を学び、生活の幅も広がり、ミリアは充実した日々を過ごすようになっていた。
そんな二人だったが、夜は別々の場所で寝ていた。
ミリアがベッドの上で、アクアはソファーの上。
それは、ミリアがアクアの事を好きになるまでは別々で寝よう、というアクアの申し出だった。
ミリアは一緒でも構わないと言ったが、アクアは譲らなかった。
その代わり、『君が僕を好きになったその時は、覚悟しておいてね』とだけ告げた。
それを聞いたミリアは、赤面したまま何も言えなくなった。
夜、ベッドの上で横になると、ミリアは一日を振り返っては幸せを噛みしめていた。
時には、感極まってじわりと涙が込み上げた。
ただただ嬉しかった。
優しい村人たちに囲まれて、温かい家の中で美味しい食事をお腹いっぱい食べられる事。
自分を誰よりも大切に想い、愛してくれる夫がいる事が。
だが、それと同じくらい、どうにもならない不安がミリアを襲った。
(この幸せは、いつまで続くのだろう……)
今が幸せだと思えば思うほど、それを失う事が怖かった。
――突然、舞い降りてきたこの幸せな日々は、本当に私が手にするものだったのだろうか。
ただ水神様の問いかけに、正直に答えただけで――。
漠然とした不安が、ミリアの心を蝕んだ。
嬉しくて流していたはずの涙は、気付けば悲しみの涙へと変わり。
声を押し殺して泣くミリアを、少し離れたソファーからアクアはジッと見つめていた。