10.嘘
その日の深夜――。
皆が寝静まり、静寂に包まれた村の中に現れた一つの人影。
その人物はマッチ箱を手に忍ばせ、ミリアの家へと向かった。
辺りを見渡して人がいないのを確認すると、枯れかけの雑草を手当たり次第に引き抜き、家の扉の前に散らした。
そして箱の中から数本のマッチ棒を取り出す。
それを手に不気味な笑みを浮かべる女性はケビンの不倫相手、レベッカだった。
プライドの高いレベッカは、自分をこけにした二人を許せなかった。
膨れ上がった恨みつらみから、家に火を放ち、二人を殺そうと目論んだのだ。
そうしてマッチ棒に火を付けようと、レベッカが構えた瞬間――横から勢いよく伸びてきた手が、マッチ棒を握る手首を掴み上げた。
「!!?」
咄嗟に顔を上げ、その人物を見た瞬間レベッカは驚愕の声を上げた。
「あ……あんたは……!!」
「やはり来ると思っていたよ。お前があのまま大人しく身を引くとは思えなかったからな」
冷たい口調でそう告げると、アクアは軽蔑の眼差しでレベッカを睨み付けた。
「なにせミリアを殺すよう、そそのかしたのはお前なのだから」
「……!!」
思わずレベッカはギクリと顔を強ばらせた。
それは紛れもない事実だった。
レベッカにも夫はいる。
だが二人の間に子は生まれず、長い夫婦生活の末、夫は妻への興味を失った。
そんな時、レベッカは酒場で昼間から飲んでいたケビンと出会い、彼が既婚者であると知り言葉巧みに誘惑した。
ケビンと不倫する事で、自分は妻を持つ男をも虜にする魅力ある女性なのだと――そんな自己欲求を満たした。
その欲求は、ケビンが自分に夢中になればなるほどエスカレートしていった。
そして試したくなったのだ。
この男は、自分のためならばどんな事をしてくれるのだろうかと――。
『ねえ、私のために奥さんを殺してくれる? そしたら、私も旦那を殺すわ。それから二人で一緒に暮らしましょう』
情事の最中、そんな事をケビンに囁いた。
もちろん、自分は夫を殺す気などなく、冗談半分に告げた言葉だった。
まさか本当にそれを実行するとは思いもよらず――いや、少しだけ期待していた。
もしも本当にケビンが妻を殺したのなら――その時は自分の夫も殺してもらおうかと。
不慮の事故として片付け、夫の残した遺産を手にし、妻を殺めるほど自分を深く愛する男と一緒になるのも悪くない――そう思っていた。
「なによ……それを覚えてるって事は、やっぱりあんたがケビンじゃない!」
「いい加減、その名前で呼ぶのはやめてくれないか。ただでさえ不快な記憶にうんざりしているというのに… …その名を耳にするのも疎ましくて堪らない」
「じゃ……じゃあ、あんたは一体なんなのよ!?」
途端、アクアは表情を一転させニッコリと微笑んだ。
突然の変貌ぶりに、レベッカは咄嗟に身構える。
「僕の存在がそんなに気になるのなら、特別に教えてあげるよ。ただし、誰にも言わないと約束するならだけど」
「……へ?」
思いがけない提案に、レベッカは唖然として固まった。
怪訝に眉をひそめながら、その腹を探る。
「あんた……何を企んでいるのよ……?」
「別に、何も企んでいないよ。ただ、不本意ながらも君の存在がなければ、僕はこうしてミリアと一緒になれなかっただろうから……その恩を返してもいいかなと思ってね」
「恩を……返すですって……?」
それでもまだレベッカは警戒心を解きはしない。
そんなレベッカに、アクアは変わらぬ笑みのまま囁いた。
「そうだね。上手くいけば、君も理想的な夫を手に入れる事ができるかもしれないよ」
「……!! それは本当なの!?」
ついにレベッカはアクアの言葉に食いついた。
「ああ、本当だよ。僕は嘘をつけない人間だからね」
そう告げたアクアは、意味深に目を細めていた。
◇◇◇
その日の早朝――。
「おい! いったいどこまで連れて行く気だ!? 金塊なんて本当に見たのか!?」
野太い男の声が森の中にこだまする。
レベッカは自分の夫を連れて、泉のある森へとやってきていた。
夫には『森の中に隠されていた金塊を見つけたの』と、適当に嘘をついてここまで連れ出した。
すっかり中年太りし、体力の落ちた夫は滝のような汗を滴らせ、苛立ちをあらわにし始める。
そんな夫が気を揉んで帰ってしまわないうちにと、レベッカは歩くペースを上げて目的地へと急いだ。
「はぁ、はぁ……もうすぐ……もうすぐだから……あ! あったわ!」
肩で息をするレベッカが指さす方向に、キラキラと光り輝く泉があった。
「ああ……あれが目印の泉か……はぁ……とりあえず喉が渇いたな……」
息を切らした二人は、泉の前までやって来ると、即座に水を手で掬い飲み始めた。
「ふぅっ……水がこんなにうまいとはな……」
呑気な事を言いながら、男はもう一度水を掬おうと上半身を屈ませた。
その夫の後ろに立ったレベッカは、まんまると太ったお尻を後ろから思い切り蹴飛ばした。
ドボンッ! と泉に落下した男はもがくように泳いで泉から顔を出し、レベッカを怒鳴りつける。
「おい! 何の悪ふざけだ!? 早く助けろ!」
「あら、嫌よ。それよりも早く沈んでくれない? でないと新しい夫をもらえないじゃない」
「は? 何を言って……なんだ!!?」
突然、男の足首に何かが絡みついた。
次の瞬間、男はそれに引っ張られて勢いよく泉の底深くへと吸い込まれた。
それは一瞬の出来事だったが、姿を消した夫に、レベッカは薄っすらと笑みを浮かべた。
『自分の夫を森の泉に落とすんだ。そうしたら、水神が現れて理想の夫を授けてくれるだろう』
それが、アクアが教えた事だった。
正気な人間であれば信じないような話。
だが、レベッカはすぐにこの話を鵜呑みにした。
なぜなら、実際にミリアは理想的な夫を手にしていたからだ。
きっとミリアも、ケビンを泉に落として、代わりに新しい夫を手に入れたのだと――そう納得した。
そしてアクアの言葉どおりに夫を落としたレベッカは、今か今かと目を輝かせる。
その時、泉が金色に染まり輝き出し、水面に水神が現れた。
(あれが水神なのね! やっぱりあの話は本当だったんだわ!)
歓喜の表情で水神を見上げるレベッカに、水神はため息交じりにやる気なく問いかけた。
「はぁ……そなたが落としたのは、つい今しがた泉の底へと沈んだ冴えない豚か? それとも――」
「いいえ! 私が落としたのは、もっと見目麗しくてダンディーな夫です!」
水神が言い終えるのも待ちきれず、レベッカは声高らかに言い放った。
もうレベッカの頭の中は新しい男の事でいっぱいだった。
今すぐにでも新しい夫を持ち帰りたくて、レベッカは鼻息を荒くして水神がそれを授けてくれるのを待った。
そんなレベッカを軽蔑の眼差しで眺めた水神は、再び大きな溜息を吐いた。
「はあぁぁぁ……そなたは神である私に嘘をつき欺こうというのか? 欲に目が眩んだ愚かな女。お前には相応の罰を与えてやろう」
「……は? なんで……? そんなの聞いていないわ!」
次の瞬間、水神の姿は忽然と消え失せ、金色の泉は光を失い、闇で塗りつぶしたような漆黒へと変わった。
風も吹いていないのに、ザワザワと木々が大きく揺らぎ不気味にざわめきだす。
晴れていたはずの空はいつの間にか雲に覆われ、辺り一帯は薄暗く、不吉を予感させる異様な雰囲気に包まれた。
(何よこれ……あの男の言うとおりにしただけなのに……話が違うじゃない!)
アクアがレベッカに教えた事はもう一つあった。
『もし水神に落としたものを問われたら、自分が望むものを言わないといけないよ。でないと、水神は何も与えてくれないから』
だからレベッカは、水神の問いに対して望むものを告げた。
それなのに、水神は何もくれず、あろうことか罰を与えると言いだした。
ようやく、レベッカは理解した。
アクアに嵌められたのだと。
「許せない……あの男! またも私を馬鹿にして! 一生後悔させてやるわ!」
怒りのままに立ち上がり、復讐心を燃やすレベッカは、どう仕返しをしてやろうかと考えを巡らせる。
その時、レベッカの右足首に、冷たくねっとりとした何かが絡みついた。
「きゃ!? なによ!?」
気持ちの悪い感触に、咄嗟に足を振り払うが、その感触は離れない。
そして気付いた。自分の足に絡みついているのが何なのかを――。
「レベッカ……たすけ……て……くる……しい……」
それは紛れもなくケビンの声。
レベッカの右足に絡みついていたのは、まるで屍のように腐敗し、見るも無残な姿に変貌したケビンの手だった。
「ひいぃぃぃ!!」
悲鳴を上げ、恐怖に慄くレベッカはその手に右足を引っ張られ尻餅をついた。
そしてズルズルと、泉の中へと引っ張られていく。
「や……いや……! 誰か! 助けてえええぇぇぇ!!!」
その叫びは虚しく響くだけ。
ジタバタと足を動かすレベッカの左足首を、さらに泉の中から伸びた手が掴んだ。
水面から現れたその人物は、つい先ほど泉の中へと沈んだ夫だった。
その顔も手も真っ青で、生気のない姿の夫は、大きく目を見開きレベッカを凝視する。
「よくも俺を騙したな……?」
「あ……あんた……!?」
「お前も一緒に死ねえぇぇ!」
「きゃあぁぁぁ! はなして! だれかぁぁああぁ!!」
かつて自分を愛してくれた二人の男性。
そんな二人に絡みつかれ、レベッカは泉の中へと引きずり込まれて――その姿を消した。
途端、泉は何事もなかったかのように澄んだ水色へと戻り、空を覆っていた雲は晴れ、森の中には静けさが戻った。
次回、最終話となります