01.夫に殺されそうです
「悪いなぁミリア! お前はここで死ぬんだ! あやまって泉に落ちて溺れたって事にしてなぁ!」
朝日が降り注ぐ閑静な森の中に、しゃがれた男の声が響き渡った。
卑しく歪んだ笑みを浮かべる男は、自分の妻の頭を冷たい泉の中に押し込んでいた。
夕日色の髪が水面に広がり、ブクブクと浮かんでくる泡は次々と弾け散る。
突然すぎる夫の行動に、ミリアは戸惑いつつも必死に抗った。
だが、男の力にはとても太刀打ちできず、間もなく限界を迎えようとしていた。
(もう……息が……)
抵抗するのを諦め、静かに覚悟を決めたその時――ミリアの耳……いや、頭の中に囁くような男性の声が聞こえてきた。
『ミリア。泉の中に入るんだ』
(……⁉)
何故か自分の名前を知っているその声に心当たりは無い。
しかし不思議と恐怖心が和らいだミリアは、地を掴んでいた両手を放し、泉の中へと飛び込んだ。
「うわぁ!?」
まさかそんな行動に出るとは思わず、ミリアの頭を掴んでいた夫も、つられるように泉の中へと吸い込まれた。
その反動で夫の手から解放されたミリアは、すぐさま泳いで水面から顔を出し、存分に息を吸い込んだ。
いくら泳ぎが得意だとはいえ、服を着たまま泳ぐのは至難の業。
それなのに、なぜか体がとても軽く、難なく浮上する事ができた。
それに加え、さっきまでは冷たかった泉の中が、今は不思議と温かい。
しかし何よりも気になったのは、先ほどミリアの頭の中に響いた声の主だった。
(さっきの声は……誰だったの……?)
疑問に思ったが、とりあえず泉から上がり、呼吸を整えながら自分を殺そうとした夫の姿を探した。
途端、ザバッと水面から夫の顔が飛び出し、バシャバシャと手で水面を叩きながら必死な形相で叫び始めた。
「はぁっ! がぼっうぐ……ミリアアァァ! ……ハァッ助けてくれ! 俺はガハッ……泳げないんだぁぁ!」
浮き沈みを繰り返しながら必死にもがき訴える夫の姿を、ミリアは冷めた眼差しで見つめる。
(ああ……ケビンが溺れているわ……)
同じ場所に落ちたはずの夫だったが、何故か陸からかなり離れた泉の中央で溺れている。
不思議に思いながらも、さすがに自分を殺めようとしていた夫を助けに行く気にはなれなかった。
もしかしたら溺れるふりをしていて、近寄ったところをまた殺されるかもしれない。
いや、もし本当に溺れていたとしても、助けたところでまた自分を殺そうとするだろう。
そんな事を考えながら、ミリアは溺れる自分の夫の姿を遠くからぼんやりと眺めていた。
(なんでこんな事になってしまったのかしら……)
夫から愛されていない事は知っていた。
だけどまさか殺されるほどの憎悪を向けられていたなんて……と、ミリアは悲しみの感情をグッと胸に押し込めた。
◇◇◇
ミリアが物心のついた頃には、人里から離れた場所にある孤児院で暮らしていた。
自分の生い立ちについて気になる時期もあったが、考えても仕方がない、とすぐに割り切った。
孤児院を経営する神父とその家族、自分と同じ境遇の子供たちに囲まれ、ミリアは貧しくも充実した日々を送っていた。
自分よりも幼い子供たちの世話をしたり、農作業に精を出し、出来上がった作物を街へ売り出しにと。真面目なミリアは不満の一つも言う事なく、共に暮らす家族のために、自分が出来る事に精一杯励んだ。
そんなミリアが十六を迎えた時、美しく成長した彼女とぜひ結婚したいと、多くの貴族が名乗りをあげた。
最初は知らない相手との結婚を渋っていたミリアだったが、孤児院の経営難を知り、気持ちを改めた。
そして孤児院に多額の寄付金を贈ると申し出た、当時伯爵位を継いだばかりのケビンとの結婚を決意したのだった。
だが、そんな二人の結婚生活はすぐに暗転した。
ミリアは美人で優しい性格であったが、感情表現が乏しく言葉数も少なかった。
ケビンの話を、お手本のような微笑みで聞きながら相槌を打つだけで、その会話も長く続かなかった。
最初はベタ惚れだったケビンも、次第にミリアをつまらない女だと思うようになった。
二人が結婚して半年後――。
ケビンは顔見知りの人間にそそのかされ、ギャンブルに手を出し大きな損失を背負い、爵位も剥奪された。
反対を押し切りミリアと結婚したケビンは親からも見放され、二人を助けてくれる人物は誰もいなかった。
居場所を失い、逃げるように首都から離れた二人は辺境にある小さな村へと行きついた。
そこで空き家となっていた古びた家を住処として、ほそぼそと暮らし始めた。
それまでの贅沢な暮らしは一変し、使用人も居ない地味な生活。
家のあちこちは劣化が酷く、雨の日はあちこちからの雨漏りに悩まされる日々。
それでも、ミリアはこれまでの経験を生かして村の農作業を手伝い、生計を立て始めた。
一方でケビンはというと、平民の暮らしに耐えられず、積み重なった苛立ちは暴言、暴力となりミリアに発散するようになっていた。
そのくせ働きもせず、家で自堕落な生活を送りながら、ふらっと何処かへ出かけていく。
そして帰って来た時には、女性が身に付ける香水と思われる香りを体から漂わせていた。
あからさまに不貞を働く夫。
それを知っても、ミリアは何も言わず、自分の夫を見放す事もしなかった。
ミリアは毎日、生活に必要な水を確保するため、荷車を引いて村に隣接する森にある泉へと足を運んだ。
村に井戸はあるのだが、ケビンの横柄な態度に腹を立てた村長が、二人に対して井戸の使用許可を出さなかったため、自分たちで水を確保するしかなかった。
たとえどんなに天候が荒れていたとしても……体調が優れなくとも――ミリアは毎朝足しげく泉へ通い続けた。
そんなミリアを、ケビンは一度も手伝った事などなかった。
そんな薄情な夫が今日、一緒に泉へ行くと言い出したのだ。
今まで自分を気に掛けた事もなかった夫が、急にそんな事を言い出したので、さすがにミリアも驚いた。
だが、それ以上に嬉しい気持ちで満たされた。
もしかしたら、これからは二人で協力し合って生活していけるのではと、淡い期待を抱いた。
そんなミリアの気持ちをこの男は一瞬で裏切った。
泉に到着し、水を汲もうとしたミリアを背後から襲い掛かり――殺そうとしたのだ。
◇◇◇
(結局、私を殺すために優しいふりをしていただけだったのね……)
その事に、ミリアは少しだけ心を痛めた。
だが、さすがにこのまま見殺しにするのも後味が悪いような気がして、どうしようかと頭を悩ませていた時、突然泉が金色に染まり、眩い光を放ち始めた。
眩しさに目を細めながらも、ミリアは泉の水面から人らしきものが浮上するのを見ていた。
間もなくして、光が消えた泉の水面上には、慈悲深い微笑みを浮かべる女性が佇んでいた。
サラサラと流れるようなブロンドの髪をなびかせ、夜空を映したような深く澄んだ紺青色の瞳。
神々しい存在感を放つその女性は、古来より泉を住処として存在していた水神だった。
目の前で起きた信じられない光景に、ミリアはへたり込んだまま、パチパチと瞬きを繰り返すだけ。
そんなミリアに、水神は笑みを浮かべたまま問いかけた。
「そなたが落としたのは、これまで献身的に支えてくれた妻を殺めようとした、この生きている価値もないクソみたいな毒夫か?」
「……え?」
その慈愛に満ちた笑みにそぐわない言葉を耳にして、思わずミリアは聞き返してしまうが、水神は言葉を続けた。
「それとも――」
水神が前方へ手をかざすと、そこに水面から新たな人物の姿が浮かび上がった。
その体はうっすらと透けていてハッキリとせず、幻影の如く揺らめいている。
だが、そんな状態であってもとても美しい青年だとミリアは思った。
「紳士的で頭脳明晰、力も強く、惚れた女は全力で守るこのスパダリ美青年か?」
その言葉に、ミリアは更に困惑した。
そして恐る恐る水神に問いかけた。
「あの……スパダリって何ですか……?」
いや、違う。今聞くところはそこじゃない。と、ミリアは思ったが、初めて聞いた単語が引っ掛かり、気付けば問いかけていた。
「スパダリ……つまりスーパーダーリンだ」
「……」
得意げに告げられたものの、結局スパダリの意味はミリアには分からなかった。
「さあ、そなたが落としたのはこのクソ野郎か? それともこのスパダリか?」
変わらない微笑みのまま、妙な圧をかけられながら問われ、ミリアは思わず固唾を呑んだ。
そしておずおずと口を開く。
「えっと……そもそも、私はどちらも落としていなくて……夫が勝手に落ちただけで――」
「そうかそなたは大変正直者だ。正直者のそなたにはこの美しい青年を授けよう」
「え?」
まるで最初からセリフが決まっていたかのように、流暢に言葉を告げると、水神は目の前の青年に目くばせをする。
その青年は水神へ深く一礼した後、水面の上をパシャリパシャリと歩き、溺れるケビンのすぐ目の前で止まった。
「ガハッ……ゴボッおい! 早くたすげ――」
その声を完全に無視し、ケビンを冷たい眼差しで見下ろすと、美しい青年はその体の中へ入るようにスゥッと消えていった。
途端、ケビンの動きがピタリと停止し、そのまま静かに泉の中へと沈みだす。
「あ……」
沈みゆく夫の姿に、思わずミリアが手を伸ばした時――突然、その水面から誰かが顔を出した。
一瞬、ケビンかと思ったが、それは違うとすぐに分かった。
その人物はミリアの方へと振り返ると、水で垂れ下がった髪をかき上げニコリと笑いかけた。
それは先ほどのスパダリ――美しい青年だった。
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