櫻三月『欲望タル混沌』
一日目
特別な事? 私には無い。 誰かに聞かれると必ずそう答えていた。大抵、その後は考えてしまう。特別とは何だろう?
私の願望など――世界に溢れる幾つもの願望に比べて大したことはない。
だって―― 愛した人を体内に入れないと不安で死にそうになる程度。けど、その事を他人に話したことはない。ここで矛盾があると思う。問題無いのなら誰かに話せばいい。けど、私はそれを話そうとしない。
私の願いは特別なのかと再び考えてしまう。
日常の光景、学校、家、様々な場所で見る人達。その顔の裏側にはどんな願いがあるのだろうか? 考えてしまう。
日常の一部。友人との会話で顔を見る。その裏側を覗きたい。細胞ではなく、ソレと心の境界に存在する強固な願い。混沌の姿を――
そんな生活を送っていれば視線は怪しくなっていく。すぐに噂になり、次第に周囲から気味悪がれた。私で招いた結果なのに、身体の混沌は、この状況までも餌にして深みを増していく。その深度が増せば増すほど、愛の表現は生々しく彩られていく。内臓の色、血の色、肌の色、経過と共に複雑に変化する色と味で狂いそうになる。想像は次第に現実の様に感じた。更なる想像が夢を浸食し、その世界でも喜びを得る。眠りの中でも襲われ限界だった。誰かを好きにならない努力と社会との繋がりを無くす。この方法しかない。私が『桜 三月』でいるためには。
その日から不登校になり、家では昼夜逆転の生活をし、心配する両親と友人には甘い嘘を口にする。
大丈夫。少し疲れただけだから……。もう少ししたら学校にも行くから。と――
私の嘘に、両親も友人も頷き、その後は必ず抱き締めた。その度に混沌の深度が増えた。
自殺しかない。この地獄から抜け出すには――
ある夜、『水面市』四丁目に在る古びた本屋に行った。読んでいた小説が思いのほか早く読み終えてしまったから。少し不思議な感覚―― わざわざ紙の本を買いに行く必要があるのかと言われそうだが、紙の本が好きなので気にしない。ついでに散歩もしたい気分だった。
部屋に籠っているので、元々少ない筋肉が更に少なくなっている。これ以上減ってしまうと、自殺する時に苦労しそうだ。体力が無さすぎるのは色々と困る。
月光の下、足音が響く。この時間に歩いている人は少ない。市道でもあるので、交通量は国道に比べてとても少ない。歩き始めてから車一台としかすれ違っていない。
息が若干上がる。筋肉が相当落ちたようで、両足が痛くなってきた。明日は筋肉痛だな――
ゆっくりと歩きながら本屋へ向かう。唐突に光の質が変わった。
「え?」思わず出てしまった声。そのまま夜空を見上げる。私の目に射し込む青い光。脳が一瞬、光を拒否。しかし、それは強制的に侵入する。そのまま心に射し込む。歪に枝分かれする光と意思。私の中に存在する混沌のイメージ。私が、私の変化を見ている。
――ああ、止めて。お願いだから、お願いだから。
懇願も空しく、今までの抵抗も意味が無いものになった。そして、拒絶の意思は変化の喜びを味付けした。
全ての変化が終わり、先程まで身体を作り変えていた青い光は吸収された。
――ありがとう。願望を叶えるチャンスを与えてくれて。そして、私に人を好きになるチャンスをくれて。嬉しい嬉しい嬉しい。
青と白の生地で作られた清楚な雰囲気があるワンピース。肩から掛けた小さな鞄が、倒れる首が戻る勢いで一回揺れる。併せて明るめのブラウンカラーに染めたボブヘアーがふわりと元に戻る。
感じる―― 口内全体から食道。そして、胃。他の内臓に刻まれる変化の証。細かく、小さな痛みに愛を感じる。直接見ることは出来ないが、私の願望で作り変わった内臓。脳内にイメージが流れる。三日月の中に小さな腕と口があるタトゥー。
『ダークムーン』の力で作り変わった身体に喜びを感じ、笑みを浮かべる。口内から漏れる淡い青い光。
此処に少女以外の存在が居たとしたら、その異様な美しさに恐怖するに違いない。強制的に一つの感情を抱かされる青い光。柔らかい笑みから、ゆっくりと三日月の形をした唇から現れる光を宿す歯。
食べられる――という感情が光によって剥かれ、咀嚼され、消化される。
綺麗に剥かれた心の中で愛でられ、そして優しく嚙みつかれる。次第に痛みも愛と感じ、全てを少女に委ねる。深い愛で作られた胃液の海で。
『桜 三月』は、此処に存在していない想像の存在も愛し、食した。
「私の世界。ようやく見つけた」
少女の姿は消えた。『水面市』と『青月市』の境界に居た身体は『青月市』へ。
二日目
『青月市』に来て、とても美しい人を見た。全てを無視、いや、違う。他人を真っ白にしてしまう様な怪しい力を持っている女性。私は恋に落ちた。どうにかして名前を知りたい。近づきたい。私を知ってもらいたい。まずは近づかなければとストーキングを始めた。
女性の事を知りたいだけなので、他の事は全く気にならない。正確には興味が抱けない。彼女以外の景色は全てが曖昧に存在している。ぼやけた景色の中にいる彼女は美しさが増す。
早く食べたい。私の愛を受け止めて欲しい。そして、全てを差し出して欲しい。
私の世界に異物が紛れ込んで来た。非常に不機嫌になる出来事だった。
規則正しい金属音がゆっくりと止む。視線の先、宙に浮いた鎌。それが伸び、周囲の影を刺し続ける。風切り音が一つ。元の位置に戻った鎌が作った垂直の切れ目。開かれた空間からゆっくりと進んで来る可愛らしい白い椅子。細い腕が持ち、フリルとリボンを多く使った可愛らしい白のミニワンピース。少女のピンク色に銀色が混ざった長い髪が綺麗に巻かれ、動くたびに青い光の粒子が出る。宙に存在していた鎌は少女の影に入り、再び空へ向かって伸びる。停止すると、メトロームの様に揺れ始める。異様な光景の中、少女は優雅に一礼。
「私は『下弦上月』。貴方が知りたい事を教えましょうか?」
突然の出来事に上手く呼吸が出来ない。――違う、この少女が異様過ぎて身体と心が拒絶している。でも、私の知りたい事を教えてくれるという部分は興味深い。
「本当に何でも教えてくれるの?」恐る恐る聞いてみる。
「ええ、何でも。答えられないことはないわ。貴方はそれだけの権利を有している。さあ、遠慮せずにどうぞ」
あの人の容姿。今、知っている事を全て伝え、最後に名前を聞いた。
可愛らしい白椅子に座り、夜空を見上げる少女が抑揚無く答える。「名前は『白浜梨露』『漂白』の力と『変身能力』。あと、血に特殊な能力があって、『罠』の様な物を作れる。多彩だと思うわ」
『漂白』の言葉、私が感じていた事とほぼ一致している。嬉しい―― 一致しているという事は、私の愛を受け入れてくれる可能性は非常に高い。会話もしていない相手の秘密を当てられるなんて、身体に入れたらもっと愛が深まる。
少女にお礼を言おうと意識を向けた時、口元に鎌の切先が向けられていた。そのままゆっくりと下がっていき、両足の付け根まで降りる。
「教えたことに感謝はいらない。ただ、躊躇は許さない。愛を語るのなら、自身が抱く美しさを貫いて。そうすれば『ダークムーン』も喜ぶ」
鎌の切先が地面に落ち、そのまま伸びていた少女の影に落ちる。勢いのまま身体と椅子が引き込まれる。粘度の高い液体に大きな物が落ちた時に聞こえる鈍い音。そのまま少女の姿は消えた。影の塊も消え、辺りの異様な雰囲気も消える。
警戒しながら周辺を確認するが誰もいない。安心して息を吐く。心の安定から浮かび上がる熱い気持ち。「『白浜梨露』さんか……」
出会いは偶然だった。『青月駅』で行き交う影の人を見ていたら、『白浜梨露』を見つけた。
気配を消し、ゆっくりと近づく。そして、挨拶と告白した。答えはいらない、だって知っているから、決して変更されない事実をわざわざ聞く必要は無い。
綺麗な指―― 今から愛してあげる。
私の歯で切り取られた指。口内に広がる血の味。続くように彼女の過去、嗜好が伝わってくる。どれもこれも素敵だった。そこに私が居ないことは悲しい事だったが、咀嚼し、胃液の海で語って欲しい。『梨露』に語れない愛の言葉を――
私の噛み後から出血は少量。その理由を口にすると恐怖して逃げた。
どうして逃げるの『梨露』。私の愛が嫌なの――? と同時に強烈な眠気に襲われ意識を失う。
三日目
目を覚ました所は『月見廃墟地区』だった。窓の外のわずかなスペースに立っていた。
どうしてこんな所に――? 室内に気配を感じ、隠れながら中を覗くと『梨露』が居た。
私に愛された指と耳。その途中で食べてしまった髪を気にしていた。その姿を見て思う。
焦らなくてもいいよ『梨露』。もっともっと愛してあげる――
急に部屋から出て行こうとする彼女を見て苛立つ。もうっ、何処に行くつもりよ――
窓から身体を滑り込ませ、蛇の様に動きたいと思ったら動けた。そのまま右足を愛する。
『梨露』の口からもっと愛してと叫ばれる。応えようとしたら、『梨露』は恥ずかしがりみたいで、『変身能力』で腕を刀に変化させ、床を切り刻んでいる。その衝撃で彼女は落下する。粉塵が舞う中、その穴を覗き込む。先程と同じ音が聞こえる。
おそらく年上だろうに、子供っぽい行動を取る『梨露』に溜息をつく。
逃げなくても愛するのに―― 普通なら年下の私がする行為に笑みを浮かべてしまう。その表情のまま蛇の動きで穴へ入る。
廃墟のエントランスでは、左足を斬られた『梨露』が這いつくばりながら出口へ向かっていた。
少し離れた場所には、以前私に『梨露』の事を教えてくれた存在と同じ雰囲気を持つ少女
が車椅子に乗っていた。私はそちらに向き深々と頭を下げる。少女が、私の恋をサポートしてくれたのだから。
『梨露』に近づく、耳元に顔を近づけ。決めていた愛の言葉を口にした。
まずは柔らかそうな頬肉。綺麗切断され流れる血は瞬時に止まる。そのまま顎から鼻へ向かい、片目ずつ吸い込む。口内が一杯になり急いで咀嚼。嚥下し、空になった口内を満たした頭皮と髪。追加で残っていた耳。もう少し愛を感じたいので首の肉を一気に食い尽くす。着ている服も全て『梨露』の物。私の愛が気持ち良くて逃げようとする身体を押さえ付け、服を剥ぎ取り、急いで口内に入れ、咀嚼。口内から鼻腔を抜ける『梨露』の匂いに脳が一瞬痺れてしまう。愛している、愛してる、愛してる。
綺麗な肌。美しい二つの丘陵の胸。陰毛に陰部、千切れ、斬られた足。変身した両腕。全てを愛し、胃液の海に落ちる。その深海で語れる愛は清く美しい。
残った骨も全て愛し、私は『梨露』との恋を成就出来た。ただ、一つ不安があった。胃液の海で彼女が消化してしまえば、私は『梨露』を失ってしまう。それは愛が終わってしまう事と同義。願う、細胞の調整を。彼女の身体で作り変わった細胞が入れ替わらないよう、身体を停止して欲しいと。そう強く願った。
その歪んだ願望は『ダークムーン』によって叶えられた。
『櫻 三月』は変化を失った。少女の愛が深ければ深いほど『櫻 三月』は姿を変えない。