第十七話 雪女・大詰め 1
シン、と静まり返った廃病院の中へ足を踏み入れる。完全に廃墟だが、しかし床の様子からして、頻繁に人が出入りしていることが窺えた。
小袖の裾を引き摺り、シュテンが悠々と歩く。
多少は人の出入りがあるので廃墟にしては汚れは少ないが、それでも床にはそこそこ泥や埃が積もっている。お高い着物が汚れてしまうが、当人に頓着した様子は一切ない。こいつにとって金は湯水と同じなのだろう。その割に給料の払いが悪い辺り、マジで性根がひん曲がっている。
予想した奇襲や罠の類は全くないようだ。
しかし病院内にも雪男の道が作られていたため、こちらの行動も自然と制限される。どうやらボスの所まで直行するしかないらしい。
「……なんでこんなことになったんだか」
不意に、タチバナさんがぼやいた。
先の戦闘では完全に雪男を圧倒し、今も荒事になりそうな気配はない。それで多少は余裕ができたのだろう。
だがまだ楽観するのは早計だ。
聞くところによると、今回の怪異の首領は相当な大物っぽいし。なにより一般人のタチバナさんを連れている以上、警戒を怠る訳にはいかない。
しかし場慣れしていない彼女には無視されたと思われようだ。不満そうに唇を尖らせている。そしてあろうことか、シュテンに絡み始めた。
「このまま雪女の所に向かうんですよね。名無しさんは相手になりませんでしたけど、勝算はあるんでしょうね。まあ鬼っていうくらいなら大丈夫ですよね、きっと。名無しさんに比べてさっきから全然働いているように見えませんし、この後さぞ活躍して頂けるんでしょうね」
何故かこちらを持ち上げつつ、シュテンを下げる嫌味を繰り出すタチバナさん。
この状況で凄いなこの人。
その胆力、皮肉・嫌味抜きでちょっと尊敬しちゃいます。
「あらあら、元気やねぇ。若い、若い。羨ましいわぁ」
しかし当のシュテンは柳に風と受け流している。
もちろん見向きもしない。こいつは本気でタチバナさんのことをどうでもいいと思っているらしい。でもそれでは火に油を注ぐだけだ。半日程度の短い付き合いだが、彼女の人となりは概ね把握している。
案の定、タチバナさんはシュテンに食って掛かった。
「はあ? こっちは命が掛かってるんですよ!? 私は依頼人で、仕事を受けた以上、貴方達には事件を解決する義務がある! そうでしょう!? ―――ちょっと! 無視してないでちゃんと答えなさいよ!」
タチバナさんの手が伸び、シュテンの細い撫で肩を掴む。
「…………」
シュテンが足を止めた。徐に振り返り、こいつは漸くタチバナさんを視る。
細められる蒼い大きな瞳。形の良い色素の薄い唇が、緩やかに弧を描く。
―――ぞくり
全身の肌が粟立つ。
その笑みは美しく。けれど、死を連想するほどに醜悪だった。
「おいたはあきまへんえ。それとも、そないに構って欲しいんやろか。そんなら、まあ、ボクは別にええけど――どないする?」
表面上はあくまでも麗しく。けれどそれは、完全に捕食者の形相だった。
横で傍観していただけの僕でさえ本能的に「食われる」と直感したのだ。当のタチバナさんが受けた衝撃は想像に難くない。彼女は気色張った顔色を一転させて真っ白になり、半ば跳ぶ勢いで後ずさった。
タチバナさん、SAN値チェックです。
成功で一、失敗なら六面ダイスを一回振って、出た出目分の正気度ポイントを喪失します。
「―――――」
「タチバナさん、落ち着いてください。アレは文字通りの人でなしですから。お気になさらず。僕も事件の解決に尽力致しますので、どうかご安心を」
「聞こえとるよ、名無し君。ほら、さっさと行きますえ」
先程の様子が嘘のように、シュテンは素知らぬ風に歩きだした。
僕達もその後を追う。
タチバナさんは僕の腕にしがみついていたが、すぐに我に返り、僕からも距離を取ってしまった。警戒心を剥き出しにして、僕達と周囲の雪男を睨み付けている。
そんな実に和気藹々とした道中を経て。
―――そして辿り着きました、霊安室。
「いいですか、タチバナさん。開けますよ」
「……はい」
気の強い美人らしく、怯えつつもしっかりと頷きを返してくれる。
霊安室を塞ぐ重苦しい金属扉の取っ手に手を掛け、一気に開ける。するととんでもない冷気に迎えられた。夏の外気の暑さとのギャップが凄い。これでは病院の霊安室というより、食品工場の冷蔵庫だ。
明かりは着いていない。凍える闇が口を開けている。
シュテンは迷いなく、闇の中へ足を踏み入れた。漆塗りの黒い下駄がタイル張りの床を叩く。僕とタチバナさんも後に続いた。
霊安室に入り少し歩いたところで――背後の扉が勢いよく閉められる。
今度こそ逃がす気はないらしい。
怪異が発する本気の殺意と悪意を感じ取り、肌が総毛立った。
―――ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ
霊安室の奥――目の前の空間から、虫の羽音のような、あるいは機械の作動音じみた『声』がする。これがタチバナさんの言う怪異の呼び声か。
パッ
電気の通わない筈の電灯が通電し、蛍光灯の冷たい明りが降り注ぐ。
瞬間――僕は、ソレを視た。
ソレは雪女だった。
しかし、どう見ても雪女ではなかった。
広い霊安室の半分を埋め尽くす巨大な体躯。その外見はもはや人型ですらない。雪男と共通した黒い渦巻き状の頭部の下に伸びているのは、完全に虫の体だった。
全体的な印象は腹を丸めた、臨月の妊婦だ。
ぶくぶくに太った腹部と、無数に生える細長い節足の脚。背中にはもがれた翅の跡。女王蟻のように自らもいだのか。そして丸く膨らんだ腹部は中が透けて見えて、無数の雪男の幼体が眠っているのが窺える。
これは雪女ではないが。その一方で、確かに雪女だった。
雪男の上位個体。群生動物が構築する社会の頂点――女王。それを表すならば、確かに『雪女』という名前以外にありえまい。
そして雪女の両脇に、奴隷のように傅く人間が三十一人。その全てに見覚えがあった。タチバナさんの同級生だ。
「やっぱり、思った通りや。名無し君が敵わん訳やねぇ」
ケタケタと三日月のような笑みを浮かべて、シュテンが囁く。
……当たり前だ。こんなモノに戦いを挑むなんて正気の沙汰じゃない。
この五年間――数多くの怪異を見たけれど、コレに並ぶような化け物はほとんどいなかった。三年前と、この間の海以来か。雪男ならば銃で幾らでも倒せるが、コレは無理だ。存在としての強度と恐度が全然違う。
妖怪――妖とは、本を正せば旧き神々が零落した姿だ。
旧き神々とはこの世の森羅万象そのもの。無形であるが故に無敵。容を持たないが故に永遠である存在。文字通りの神様だ。カテゴリーとしては天災と同等。そんなものを相手に人間ができることなど何一つない。
アレは受肉した怪異でありながら、そういったモノへと回帰していた。
……これが現代の怪異の怖ろしい所だ。
雪男然り、雪女然り。
コズミック・ホラーを吸収したことで、怪物としての能力と格が上がっている。神から妖へと墜ち、怪異と化して――再び神へと先祖返りしたモノ。こいつらはそういったモノになっている。
そう。この怪異に神の称号を与えるなら、それは―――
「―――邪神」
そう呼ぶ他ない。目の前にいるのはそれほどの化け物なのだ。
僕もタチバナさんも、蛇に睨まれた蛙のように動けない。為す術がない。そんな僕達を、雪女が嘲笑っている。
……しかし識るがいい、宇宙的恐怖の体現者。
お前の目の前にいるものもまた、人知の埒外にあるものだ。
「ふぅん、中々見応えがあるやないの。酒の肴には丁度ええわ」
かつて――まだ旧き神々が世界の全てだった時代。人間の都を恐怖のどん底に陥れた悪鬼が嗤う。
地震、大嵐、伝染病――など、などと。
旧き神々は時に災害として現世に顕れ、あらゆる生物を虐殺した。そういった事態に際し人間が取ることのできる対処法は二つ。一つは方法を問わずひたすら崇め奉って鎮めること。そして、もう一つは―――
神と同等の存在――即ち別の神を召喚して、戦わせ、追い払うことである。
未来の人は言いました。「化け物には化け物をぶつけんだよ」。
結局の所はそれがベストアンサーなのだった。
そして此処には神と同等位階の化け物が一匹。
彼の伊吹大明神――荒ぶる八岐大蛇が嫡子、酒呑童子。日本が誇る最強の怪異。
しかしその力は源頼光等によって、退魔ノ剣に封じられている。多少の呪術は扱えども、基本的に今のこいつは見た目通りの子供でしかない。
退魔ノ剣を抜くには、この怪異が日本という国にとって排除すべき悪害であることを明確にしなければならない。罪の所在を明らかとし、剣に示さない限り――刃を縛る呪いは解けないのだ。
シュテンは腰に提げた瑠璃細工の瓢箪を手に取る。その栓を抜き、愛用の盃に中身を注いだ。
銘を神便鬼毒酒。
悪鬼・酒呑童子を討つべく、旧き神々が源頼光へと授けた宝物。無数の妖と怪異を材料に造られた、鬼殺しの毒酒である。
シュテンは遊ぶようにそっと盃に息を吹きかけた。
水面が揺れ、泡立ち――玉虫色のシャボン玉となって、盃から浮き上がり宙を漂う。ぶくぶくと分裂と増殖を繰り返すそれが次々と無数に表れ、瞬く間に僕達三人の周囲を覆い埋め尽くした。
「―――怪異を形作るのは天津罪と国津罪。生き物が持ってはる負の感情に惹かれて呼び寄せられた妖と、妖を目視し取り憑かれた生き物の肉を依り代として、怪異はこの現世に顕れ八百万の害を為す。在り得ざるモノが在ることと、それが及ぼす全ての影響――それが許許太久ノ罪。
この三つの罪が明らかになった時、この八握剣の一振りである『退魔ノ剣』を抜き、怪異を祓うことができるんよ。
さあ――待ちに待ったお楽しみの時間やね。覚悟はええかいな?」
鈴を転がす三日月の笑みが咲く。
シュテンはいつものように、残酷に嗤っていた。
「―――――今此処で。全ての罪の所在を、明らかにするとしまひょ」
玉虫色の泡は更に増殖し、雪女すら包み込む。霊安室全体を覆う。
この泡はあらゆる時間と空間とを繋ぐ門にして鍵だ。これから僕達は、この怪異を生み出した罪を直視しなければならない。
怪異を、祓うために。
無数の泡に包まれた不確かな視界の中――シュテンが盃を口に咥え、両手を空にする。そしてあいつは勢いよく柏手を一つ叩いた。
その瞬間――全ての泡が、割れて。
僕達は、闇の中へと放り出された。




