子爵令嬢の誤算
「王太子の悩み」シリーズ3作目です。1作目をお読みいただいた方がより楽しめると思います。
「私の人生、誤算だらけじゃない」
真新しい白い寝衣で夫の訪れを待つ子爵令嬢、いや、今日から王太子妃となった少女はそうつぶやくと、枕をぼすっと投げた。
枕を投げるなんて子どもの時に癇癪を起こして以来だが、それを咎める侍女もここにはいない。隣室には控えているだろうが。現在この国で最も高貴な夫婦の、新婚初夜を邪魔しようとする不届き者がいるはずもなかった。
王家や上位貴族とは比べるべくもないが、不自由なく育ったつもりだった。平凡に結婚するものと思っていたら、城の文官の給料だけで一家の家計を賄っている父には、姉二人が嫁ぎ、兄が花嫁を迎えようとする今、末娘の自分の持参金まで払う余裕がないことを知った。しかし、子爵令嬢はそこでへこたれる少女ではなかった。親戚や友人のつてを頼ったり、できるだけいろいろな場所に出かけるようにして、子爵令嬢は結婚相手を探し始めた。
持参金のいらない裕福な結婚相手を探していた、はずだった。持参金がなくとも平凡な自分を受け入れてくれるのなら、爵位がなくても商人でもよかった。にも拘わらず、子爵令嬢が見染められたのは、この国の王太子だった。
初めて会った時から、文官にしてはいやにまばゆい人だと思っていた。
王家主催の夜会に何度か出たことはあったが、しがない子爵令嬢が王太子に直に挨拶できるはずもなく、王城の大広間の隅から遠目に姿を眺めたことがあるだけだった。
文官の父に届け物をするついでに文官や騎士と知り合いになれないかと、王城を怪しまれない程度に彷徨っていたら、まさか王太子と出会っていたなんて誰も思わない。それも氷の薔薇と謳われた美しい婚約者のいる…。
何度か逢瀬を重ねた後に、まばゆい人にその高貴な身分を明かされ、結婚を申し込まれた時、頭では断らなければとわかっていながら、子爵令嬢は撥ね付けられなかった。
愛していたのだ。
いや、ただの憧れだったのかもしれない。
過ぎた縁は身を滅ぼす、自分のような何の才能もない者が王室と縁を持つことは、牢獄に入ることと同じと、どこかでわかっていながら、子爵令嬢はその道を選んだ。
妃となるための教育は、子爵令嬢として受けた教育の比ではなく、子爵令嬢は血を吐く思いで今日までの一年を過ごした。
初めの頃は錯乱して、密かに護衛騎士の男に愛を求めたこともあった。そうでもしなければ平静を保っていられなかったのだ。
王太子は婚約が整った途端、執務が忙しいと顔を見ることもできなくなった。顔を合わせれば、妃教育の進捗を気にするばかり。
何の瑕疵もない優秀な公爵令嬢と婚約を解消して、熱烈な恋の末に迎えた新しい婚約者が、まずまず見劣りしない程度には仕上がっていなくては、王家の信頼が失墜する。
愛する人のために、子爵令嬢はやらなければならない。
しかし、教師以外の誰にも会えず、子爵令嬢は孤独だった。
優秀な公爵令嬢が十年間で成し遂げたことを、自分は一年間で身につけなければならない。付け焼き刃でこなすにも、基礎的な理解は必要だ。
子爵令嬢は秀でた才能はなかったが、自分に何が足りず、どの程度までやればそれなりに格好がつく程度に振る舞えるか見極める能力に長けていた。それでも圧倒的に時間が足りない。
時間がないとわかっている中、王太子や家族に会いたいとも言い出せず、王太子がたまに訪れる他は、家族とは手紙だけのやりとりで、息を抜く暇もない。立場が圧倒的に変わってしまった今、気安く友人と呼べる令嬢もいなかった。
まだ教育中のためと称して、公務や上位貴族との気を遣う交流もほとんどないのはありがたいが、たまに外に出ると値踏みするような視線にさらされる。
今の国王が妻を亡くしてから、王妃の座は長らく空位だ。子爵令嬢が王太子妃になれば、王太子妃が国内の女性の最上位となる。
氷の薔薇と謳われた前の婚約者の公爵令嬢は隣国の王といつのまにか婚約しており、王城のいかなる催しにも姿を現していない。
しかし、子爵令嬢には、一度もまみえたことのない公爵令嬢の亡霊が、王城の至るところで自分を見ているように思われ、人の視線が気になって仕方なかった。
心の持ちようだとわかっていても、最上位の女性としてどう振る舞うべきか、同じ立場で悩みを相談できる王妃も存在しない。
この王城で味方なのは侍女と護衛騎士しかいないと思い詰めていたある日、子爵令嬢に限界が来た。
若い侍女を使いに出した隙に、子爵令嬢は護衛騎士の胸にすがって泣いた。のみならず、悪しくもその日は王太子が地方へ視察に出ており、その夜、護衛騎士と一夜の関係を持った。
罪悪感はあったが、婚約前に既に王太子に純潔を捧げていたため、問題ないと割り切ることにした。いや、割り切らなくては生きていけなかった。
つのる罪悪感を打ち消すため、子爵令嬢は勉強に熱心に励み、教師たちは喜んだ。ますます課題が難しくなり、一層勉強に励んでは合間に護衛騎士の胸にすがって泣いた。自分が何をしたいのか、何が何だかわからなかった。
そんな最悪な時間はある日突然潰えた。
護衛騎士が生家の辺境伯領で兄を支えるために戻るのだという。
「貴方は私をこの牢獄に置いていくの」
そう問いかけながらも、これ以上罪を犯さなくて済むことに、子爵令嬢の心にはかつてない安らぎが広がっていた。
男は深く黙礼して去った。
王太子は何も言わないが、それからよく子爵令嬢の部屋を訪れるようになった。いつも物言いたげで、何かを知っているようだった。
恐ろしい秘密に耐えきれず、子爵令嬢は王太子に罪を告白しようとしたが、その王太子に告白を止められた。
お金はないが働いていくらでも慰謝料を払う、自分に罪があるとして婚約を破棄してくれて構わないから聞いてくれとまで訴えたが、王太子と王家の威信のため、二度目は許されない、何も聞かなかったことにするから誰にも何も言うなと王太子に言われるばかりだった。
「ただ、少し時間をくれないか。必ず結婚はする。それまでに心の整理をつけるから」
そう言った後も、王太子はまめまめしく婚約者の元を訪れ喜ばせたが、結局その瞳は心ここにあらずで、以前のような熱い触れあいもなくなり、明るく振る舞う子爵令嬢の心を傷つけた。
いや、自分が彼を傷つけたのだ。子爵令嬢は言葉を飲み込んだ。
侍女も護衛騎士も壮年の、厳しい者たちに入れ替わり、子爵令嬢は常に監視されることになった。しかし、熟練した彼らは子爵令嬢の様子をよく見ていて、子爵令嬢が落ち込んだり疲れ果てている時には小さな気晴らしを上手に取り入れてくれた。
経済的に慎ましい子爵家では縁のなかった、上級の使用人の振る舞いを見て、子爵令嬢は王城の熟練した使用人の凄さや、人の上に立つことを知った。彼らの細やかな献身がなければ、子爵令嬢は到底今日の日を迎えられなかっただろう。
王太子の華燭の典は、春麗らかな日に近隣の王侯と国内の貴族を招いて華々しく執り行われ、王太子と子爵令嬢は神の前で生涯共にあることを誓った。平凡な子爵令嬢だった少女は、次代を担う王太子妃として国の内外にお披露目された。
煌めく王太子妃の冠も、贅を凝らした花嫁衣裳も、新たな牢獄の始まりのように思えたが、前を向くしかなかった。
王太子妃は落ちた枕を戻し、長椅子にぼんやりと腰掛けた。
これからどうなるのか。いや、そもそも今夜の初夜はどうなるのか。
すると、王太子の私室と繋がる扉がすっと開き、今日から彼女の夫となった男が現れた。
男の顔は赤く、目がうるんでぼんやりしている。披露宴でずいぶんお酒を召したようだ。お酒には強くないのに。しかも昨夜よく眠れなかったのか、今朝は瞼が腫れぼったかった。
夫の様子をさっと見てとると、新妻は玻璃の器に入った水を差し出した。
「少し酔いを醒ましませんか」
妻が、長椅子に隣り合わせで座るように手を取って導くと、夫は無言でそれに従い、水を飲んだ。
「ずいぶん待たせてしまったな」
「そうでもないわ。これからずっと一緒にいられるんですもの」
できるだけ明るい声で返事を返す。王太子は出会った頃、彼女の小鳥が囀るようなおしゃべりが好きだと言っていた。できるだけ明るく可愛らしく振る舞わなくては、と王太子妃は腹の底に力を入れた。
「昨夜、父上と久しぶりにゆっくり話したんだ」
「よかったわね。嬉しかったでしょう」
王太子妃も、昨夜は王城に招かれた両親と姉二人と兄で、久しぶりに水入らずで語らえたことを思い出しながら相槌を打った。
「父上は、私たちの間に子が授かることはないだろうと言われた」
「そんな。何で…」
呆然としながら王太子妃には思い当たることがあった。
あの薬。
王城入りしてからのこの一年、毎晩必ず飲むように侍女から差し出される薬があった。体調を整えるための秘薬と言っていたが。侍女は自分が薬を飲むのを必ず見届けてから部屋を下がっていた。
それは自分が裏切る前には婚姻前に早々と王太子との子を孕むことを防ぎ、裏切りの後には王太子妃が誰の子かわからない子を孕むのを防ぐために飲まされていたのだ。そしてこれからもずっと。
「父上は、この一年私たちの間に何があったのか全てご存知だった」
「そう…」
何も言えなかった。
一度不貞を働いた王太子妃に子を産ませれば、一体誰の子が生まれるかわかったものではない。
そんな裏切りは二度と考えられないが、夫と王家の信頼を失ってしまったのは自分だ。
愛する人のお嫁さんになって、やがて可愛い赤ちゃんを授かるものだと子どもの頃から疑うこともなかったが、それは叶わなくなったことを王太子妃は知った。
薬を飲まずに誤魔化し子を授かることもできるかもしれないが、その時には自分や授かった我が子に何が起きるか…。王太子妃は身震いした。
そして、自分が夫に子を与えられなくなったことに気づいた。
「貴方の跡継ぎはどうなるの。この国は側妃や愛妾を認めていないわ」
「父上は私に傀儡の王となれと仰せだ」
酔いが醒めてきた王太子の口調が、厳しいものになった。
「父上の弟とその息子が立派に国を盛り立て、次代につないでくれるだろう。私たちは何もしなければいい。否、してはいけないのだ」
苦々しく王太子はつぶやいた。
一瞬、部屋が静寂に満ちた。
王太子は、何と言ってこの沈黙を破るか悩んだ。
「傀儡でもいいじゃない」
ふいに妻の口から明るく響いた言葉に、王太子は耳を疑った。
「私たち、立派な傀儡になりましょうよ。平凡な私には立派な王太子妃を期待されるより、それくらいがちょうどいいの」
貴方を巻き込んで申し訳ないけれど本当にごめんなさいごめんなさいと、最後には泣きじゃくりながら王太子妃はまくしたてた。場違いな冗談とわかっていても、この人を笑顔にしてあげたかった。
王太子はあっけに取られていたが、やがて笑い出した。
久しぶりに聞いた笑い声に、今度は王太子妃が赤く腫れた目をさらに丸くした。
「そうか。私にもそれくらいがちょうどいいのかもしれないな」
妻と自分の目の縁を指先で拭った王太子は、王家に伝わるという言い伝えを語り始めた。
ー王国には、初代の建国者の時代から王家にだけ伝わるある言い伝えがある。
後継者には相応しい配偶者を迎え、添い遂げること。さすれば国は神の恵みによって守られ、破られれば国は神の怒りによって滅びるだろうー
愚かな王太子は、それを神の御心だと信じていたが、昨夜、父王にそれは互いが互いに相応しく努力を続けることだと教えられたこと。
優秀な元婚約者に劣等感を持っていたが、今日妻となった王太子妃が、元婚約者の実家の公爵家からも賞賛を得るほどの振る舞いをしていたのを目の当たりにして、努力とはこれほど人を変えるものかと、自分が恥ずかしくなったこと。
そのようなことを王太子は問わず語りに語り、妻は寄り添って耳を傾けた。
「凡庸で劣等感まみれの私に、立派な傀儡になろうと明るく言ってくれる貴女は、私にとってかけがえのない人だ」
だから、もう一度やり直そうーと夫が確かに言ったのを、王太子妃は確かに夫の腕の中で聴いた。
誤算だらけで失敗ばかりしたけれど、そうやって生きるしかないのだ。