◇ 夢見た日 ◇
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協定の条
イビトは、ヒトの世界において、特性の行使に常に危険が伴うことを、充分に意識すべきである。
*
すみれは、セーラー服に袖を通した。
これを着るのはひどく久しぶりだった。こうして着る日を、心待ちにしていた。
とうとう、決意した。
あの家庭教師から話を聞いたことは、すみれにとってプラスに働いていた。
たしかに変われるのだと、背中を押してもらった気分だった。
小瓶のふたを開ける。溢れんばかりの球体を、一気に口に流し込んだ。
とたんに、胸が高鳴った。
幼い日のように、どきどきした。まだ自分には無限の可能性があるのだと、愚かにも信じていたあのころ。あの気持ちを、また味わえるとは思っていなかった。
鏡を見た。
笑いが止まらない。
それは、思い描いていた理想の姿だった。
長い髪はさらさらとうしろに流れ、肌は赤子のように弾力を得て艶めいていた。瞳は大きく光を宿し、生まれ変わった自分自身を映している。
うっとりとした。
まるで自分ではないようで、しかしたしかに自分自身だ。
カバンを手にして、家を出る。美久がどこか心配そうな顔をして、すみれを待っていた。
「行きましょう、美久」
いままでで一番優しい気持ちで、声をかける。美久が嬉しそうに微笑んで、それだけがすみれの癪に障ったが、けれど小さなことだった。
いまなら、許すことができた。
ひとはこんなにも寛大になれるのだと、知る。愚かでかわいそうな友人を、愛しいと思う。
すみれは胸を張り、夏の日差しを浴びて、堂々と歩き出した。
筒賀高校に近づくにつれ、視線を感じた。
噂されているのがわかる。だれもが振り返り、褒め称えている。
美久でさえ引き立て役に過ぎないのだと、すみれは確信していた。
輝いている自分に、この上ない自信を抱く。
「すみれちゃん。教室に行くの?」
黙って歩いていた美久が、おずおずと口を開いた。すみれは蔑むような視線を送る。
「あんたバカなの。教室に行かなくて、どこに行くの」
「うん、そう、だけど……」
何かをいおうとして、口を閉ざす。すみれは、それ以上は聞かなかった。ダメな女、と胸中で笑う。
きっとあの気持ちを味わっているんだ、とすみれは思った。
あの、みじめな気持ち。
自分はずっと陰にいるのだと、決して注目されることはないのだと、沈んでいく気持ち。重くてどろどろとしていて、それを抱えていることが嫌で、かといって手放すこともできなかった。
次はあたしの番ね──心のなかで、すみれは美久に笑いかける。
だから、もっと悔しそうな顔をしなさいよ。
「あ、ゴメン!」
道路を渡ってきた男子生徒が、すみれにぶつかった。前を見ていなかったのだろう。同じクラスの男子だ。すみれは舌打ちしそうになり、それでもにっこりと微笑んでみせる。
「気をつけてね、鈴木くん」
声すら、自分のものではないかのようだった。弾むような、まるで女神の声。
彼は、すみれを見て目を見開いた。すぐに頬を染める。それから美久に気づき、あれ、と声をもらした。
「え、もしかして……」
満足な反応だった。すみれはできるだけ優しい表情を作る。自分で名乗るようなことはしたくなかった。ちらりと美久を見る。
察して、美久がすみれを呼んだ。
「すみれちゃん」
「ふ、福崎すみれ?」
彼は、大声でフルネームを叫んだ。なにごとかと、視線が集中する。すみれは笑い出したいのをこらえながら、手を振って、高校の門をくぐった。
わざとゆっくりと歩いた。
もっと見て──声に出さずにつぶやく。
もっと驚いて。
もっと褒めて。
もっともっともっと。
「ねえ、すみれちゃん。やっぱり、行くのやめよう」
革靴を脱ぎ、スリッパを履いた時点で、美久がそんなことをいってきた。すみれの胸に怒りがちらつく。なんて醜い女だろう、と美久を睨んだ。
「嫉妬? 怖いの? そういうのってよくないんじゃないの、美久」
とはいえ、哀れみのような気持ちもあった。
かわいそうな女──いままでずっとちやほやされてきたのが、急に取って代わられるのだ。そう思えば、やはり怒りも消えていった。
「だいじょうぶよ。ね、一緒に行きましょう?」
幼いころのように、手を繋ぐ。
廊下を進んで、一年二組の教室へ足を踏み入れた。
とたんに、興奮した声が飛んできた。
「来た! 福崎すみれ!」
叫んだのは、先ほどぶつかった男子生徒だった。すみれより先に来ていたらしい彼は、まるで芸能人か何かのようにすみれを迎えた。
すでに教室に来ていた十数人が、ざわめく。だれもが、すみれを見る。
美久のことなど、見ていない。
すみれはいまにも笑い出しそうだった。
おはよう、と声をかけようとした。
しかし、様子がおかしいことに気づいた。
クラスメイトたちは、笑っていた。
弧を描いたような、複数の目。くすくすと、声が聞こえる。
「──整形?」
蔑むような声で、だれかがつぶやいた。
その瞬間、すみれの時が止まった。
何をいわれたのか、とっさにはわからなかった。
「いっただろ、別人だって。すげえ偉そうな顔してんの」
「ね、それいくらかかったの?」
「なんか怖ぇよ。執念だよなあ」
頭の中が、真っ白になる。
思い描いていたものと、あまりにも、違う。
「……すみれちゃん。ね、帰ろう?」
美久が、手を引いてくる。
すみれは気づいた。
陥れられたのだ。
邪気のないこの幼なじみに。天使のような顔をした、この醜い悪魔に。笑いものになるように、しむけられたのだ。
「あんたが……!」
かっと怒りが湧く。平手を振り下ろそうとして、しかし、視線に気づいた。ここで罵倒しようものなら、思うつぼだ。
教室中の目が、浮き上がって見えた。
だれもが見ている。
自分を見ている。
理想だったはずだ。
夢だったはずだ。
けれど、違っていた。
こんなはずでは、ない。
「────っ!」
すみれは美久の手を強く引き、走り出した。教室から背を向けて。
「お、逃げた」
どっと、笑い声。
たどりついたのは、屋上だった。ここなら、昼休みぐらいにしか生徒は来ないはずだった。授業が始まってしまえば見回りがあるので、エスケープ目的の生徒もいない。
重い扉を開けて、飛び込む。力任せに美久の手を引き、フェンスに叩きつけるようにして離すと、そのままの勢いで右手を振り上げた。
乾いた音がした。
したたかに頬をぶたれ、それでも美久は、黙っていた。唇を噛むようにして、悔しそうに。
「あんた、知ってたんでしょ。こうなるって、わかってたんでしょ。あたしを見て、笑ってたの? せいぜいバカにされればいいって」
「ちが──」
「こんなはずじゃなかったのに!」
美久は泣きそうな顔をしていた。その瞳に映る自らの姿に、すみれは余計にみじめな気持ちになる。こんなに美しいのに。だれよりも美しくなったのに。
満たされない。
渇いている。
足りない、足りない、足りない。
「すみれちゃん……」
美久の目が、哀れみを帯びた。
かっと脳髄が熱くなる。すみれは美久の長い髪をつかみ、頭を持ち上げた。鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、睨みつける。
「きっと足りないんだ」
つぶやいた声は、自分のものではないかのようだった。
「もっと食べないと、もっと飲み込まないと、もっと、もっと……!」
「いいよ」
震える声で、それでもたしかに、美久はいった。
「わたしを食べちゃっていいよ。ぜんぶ食べちゃっていいよ。だからもう、やめようよ」
泣きそうな目で、それでもすみれをまっすぐに見ている。
すみれは沸き上がる感情に、戦慄した。
爆発しそうな、負の感情。
怒りであり、憎しみであり、嫉妬であり――もしかしたら、それ以外の何かかもしれなかった。
「あんたの、そういうところが、大嫌いなの」
消えそうな声で、つぶやく。声を大にしてしまっては、まるでそれがすべてだといってしまうようで、抑え、こらえ、絞り出す。
「大嫌いなのよ」
言葉のほとんどを飲み込んだ。吐き出す代わりに、口を開ける。
美久の白い首を見た。食らいつけばいい。それだけのことだった。
きっかけはなんだったろう──美久がいい出したことだ。特別な人間なのだと教えてくれた。きっと、あのときからすべて、この女の策略だったのだ。笑っていたのだ。従順なふりをして、いいなりになるふりをして。
ならば、ためらう理由など、なかった。
そうすれば、きっと、満たされる。
覚悟を決めたように、美久は目を閉じた。透き通る液体が、こぼれ落ちる。
涙。
なぜ、涙。
考えることはもう、できなかった。すみれは美久の首に噛みついた。
「――んっ」
美久の顔が苦痛に歪む。
心臓が波打つ。
血液を、生気を、命を、何もかもを吸い込もうと、力を込める。
「やめとけよ」
怒気を含んだ静かな声が、背後から聞こえた。
すみれは驚かなかった。
何かが来るような予感があった。あるいは、人としての感覚が麻痺しているのかもしれなかった。
美久から手を離し、彼女が地面に崩れ落ちるのもかまわず、振り返る。
少女が立っていた。
セーラー服を着た、ポニーテールの少女。意志の強い瞳が、怒りを帯びている。
すぐに、昨日の光景がよみがえった。あの家庭教師と一緒にいた女だ。
嫌いだ――憎悪に似た感情に支配される。
こういう女は、嫌いだ。
苦労も不幸も知らないで、ちやほやされてきたであろう、美しい少女。
「あなたもエサになりたいの?」
自分の口から流れ出たのは、まるで歌うような美しい声だった。たまらない快楽を感じながら、少女に近づいていく。
「それなら、食べてあげる――!」
「忠告のつもりもあったんだけどなあ」
もう一つの声が聞こえるのと同時に、すみれは身動きがとれなくなった。
いつのまにか、腕を掴まれていた。透明な糸のようなものであっという間にしばりあげられる。
「家庭、教師」
立ち尽くした状態で、すみれは彼を見た。鬼頭俊介。ホストであり院生であり、すみれの家庭教師でもある男。
忠告、という言葉に脳が混乱する。
だって背中を押してくれたじゃないか。
変われるのだと、そういう特別な人間もいるのだと、教えてくれたじゃないか。
「どうして……」
「こうは考えなかったかな。特性を持つ存在は、世界中にたくさんいるって。彼らは彼らでコミュニティを作って、秩序を守るために動いてるって――ね?」
すみれは首を左右に振った。何をいっているのかわからなかった。
わからないことばかりだ。
どうしてこんな扱いを受けるのかわからない。どういうことかわからない。どうなっているのかわからない。
なぜだれも褒めないのだろう。
なぜだれも讃えないのだろう。
こんなにも、こうして、精一杯、ここにいるのに。
「あたし、まちがってない」
つぶやく。
だって、だれも見てくれなかった。
だれも気づいてくれなかった。
どこまで行っても暗闇で、もがいても叫んでも明かりは見えなくて、どんどんがんじがらめになっていった。
それなら、自分で、変わるしかないじゃないか。
特別な、人間なのだから。
「まちがってないまちがってないまちがってない!」
「まあ、たとえば、まちがってないとしてさ……」
スーツのポケットからハンドミラーを取り出し、こんな場面だというのにのらりくらりと、俊介はそれを差し出した。
すみれの姿が映る。
目も鼻も頬も口も、何もかもが完璧で、これ以上ないぐらいに美しい姿。
理想の姿。
感情のこもらない、淡々とした声で、俊介は続けた。
「これで、満足なの?」
あたりまえだ、と返そうとした。
けれど、声が出ない。
満足だ。望んだ姿なのだから。ずっと夢見ていたのだから。
美しく、なりたかったのだから。
「おまえらみたいな甘ったれ見てると、吐き気がするんだよ」
ポニーテールの少女が、乱暴な口調で言葉を投げた。頭に手をやり、かなぐり捨てるように長い髪を地面に放る。奔放なショートカットが露わになり、すみれははっとした。
見覚えがあった。
中性的な、整った顔立ち。
「行使するには、現場を押さえなきゃなんなくてね――本当は、オレが釣ろうとしたんだ。わざわざ両方の姿で転校してきてさ。でも、まさか共食いとはな」
両方の姿、という言葉が、脳に響く。けれど、わかったのはそれだけだった。それ以外のことは、依然として、すみれに届かない。
「おまえさ、藤ノ宮美久を操ってるつもりでいたんだろ。血でも飲ませたか? たしかに、イビトのなかには、そうすることで操れる特性もある。けどな――」
「やめて」
地面に転がったままの美久が、うめくような声をあげた。しかし、少女――マサキに、止まる気配はなかった。すみれに詰め寄り、正面から見据える。
「おまえはただの人間だよ、福崎すみれ」