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イビト協定  作者: 光太朗
6/8

◇ 夢見た日 ◇

 *


 協定の条

 イビトは、ヒトの世界において、特性の行使に常に危険が伴うことを、充分に意識すべきである。


 *




 すみれは、セーラー服に袖を通した。

 これを着るのはひどく久しぶりだった。こうして着る日を、心待ちにしていた。

 とうとう、決意した。

 あの家庭教師から話を聞いたことは、すみれにとってプラスに働いていた。

 たしかに変われるのだと、背中を押してもらった気分だった。

 小瓶のふたを開ける。溢れんばかりの球体を、一気に口に流し込んだ。

 とたんに、胸が高鳴った。

 幼い日のように、どきどきした。まだ自分には無限の可能性があるのだと、愚かにも信じていたあのころ。あの気持ちを、また味わえるとは思っていなかった。

 鏡を見た。

 笑いが止まらない。

 それは、思い描いていた理想の姿だった。

 長い髪はさらさらとうしろに流れ、肌は赤子のように弾力を得て艶めいていた。瞳は大きく光を宿し、生まれ変わった自分自身を映している。

 うっとりとした。

 まるで自分ではないようで、しかしたしかに自分自身だ。

 カバンを手にして、家を出る。美久がどこか心配そうな顔をして、すみれを待っていた。

「行きましょう、美久」

 いままでで一番優しい気持ちで、声をかける。美久が嬉しそうに微笑んで、それだけがすみれの癪に障ったが、けれど小さなことだった。

 いまなら、許すことができた。

 ひとはこんなにも寛大になれるのだと、知る。愚かでかわいそうな友人を、愛しいと思う。

 すみれは胸を張り、夏の日差しを浴びて、堂々と歩き出した。



 筒賀高校に近づくにつれ、視線を感じた。

 噂されているのがわかる。だれもが振り返り、褒め称えている。

 美久でさえ引き立て役に過ぎないのだと、すみれは確信していた。

 輝いている自分に、この上ない自信を抱く。

「すみれちゃん。教室に行くの?」

 黙って歩いていた美久が、おずおずと口を開いた。すみれは蔑むような視線を送る。

「あんたバカなの。教室に行かなくて、どこに行くの」

「うん、そう、だけど……」

 何かをいおうとして、口を閉ざす。すみれは、それ以上は聞かなかった。ダメな女、と胸中で笑う。

 きっとあの気持ちを味わっているんだ、とすみれは思った。

 あの、みじめな気持ち。

 自分はずっと陰にいるのだと、決して注目されることはないのだと、沈んでいく気持ち。重くてどろどろとしていて、それを抱えていることが嫌で、かといって手放すこともできなかった。

 次はあたしの番ね──心のなかで、すみれは美久に笑いかける。

 だから、もっと悔しそうな顔をしなさいよ。

「あ、ゴメン!」

 道路を渡ってきた男子生徒が、すみれにぶつかった。前を見ていなかったのだろう。同じクラスの男子だ。すみれは舌打ちしそうになり、それでもにっこりと微笑んでみせる。

「気をつけてね、鈴木くん」

 声すら、自分のものではないかのようだった。弾むような、まるで女神の声。

 彼は、すみれを見て目を見開いた。すぐに頬を染める。それから美久に気づき、あれ、と声をもらした。

「え、もしかして……」

 満足な反応だった。すみれはできるだけ優しい表情を作る。自分で名乗るようなことはしたくなかった。ちらりと美久を見る。

 察して、美久がすみれを呼んだ。

「すみれちゃん」

「ふ、福崎すみれ?」

 彼は、大声でフルネームを叫んだ。なにごとかと、視線が集中する。すみれは笑い出したいのをこらえながら、手を振って、高校の門をくぐった。

 わざとゆっくりと歩いた。

 もっと見て──声に出さずにつぶやく。

 もっと驚いて。

 もっと褒めて。

 もっともっともっと。

「ねえ、すみれちゃん。やっぱり、行くのやめよう」

 革靴を脱ぎ、スリッパを履いた時点で、美久がそんなことをいってきた。すみれの胸に怒りがちらつく。なんて醜い女だろう、と美久を睨んだ。

「嫉妬? 怖いの? そういうのってよくないんじゃないの、美久」

 とはいえ、哀れみのような気持ちもあった。

 かわいそうな女──いままでずっとちやほやされてきたのが、急に取って代わられるのだ。そう思えば、やはり怒りも消えていった。

「だいじょうぶよ。ね、一緒に行きましょう?」

 幼いころのように、手を繋ぐ。

 廊下を進んで、一年二組の教室へ足を踏み入れた。

 とたんに、興奮した声が飛んできた。

「来た! 福崎すみれ!」

 叫んだのは、先ほどぶつかった男子生徒だった。すみれより先に来ていたらしい彼は、まるで芸能人か何かのようにすみれを迎えた。

 すでに教室に来ていた十数人が、ざわめく。だれもが、すみれを見る。

 美久のことなど、見ていない。

 すみれはいまにも笑い出しそうだった。

 おはよう、と声をかけようとした。

 しかし、様子がおかしいことに気づいた。

 クラスメイトたちは、笑っていた。

 弧を描いたような、複数の目。くすくすと、声が聞こえる。

「──整形?」

 蔑むような声で、だれかがつぶやいた。

 その瞬間、すみれの時が止まった。

 何をいわれたのか、とっさにはわからなかった。

「いっただろ、別人だって。すげえ偉そうな顔してんの」

「ね、それいくらかかったの?」

「なんか怖ぇよ。執念だよなあ」

 頭の中が、真っ白になる。

 思い描いていたものと、あまりにも、違う。

「……すみれちゃん。ね、帰ろう?」

 美久が、手を引いてくる。

 すみれは気づいた。

 陥れられたのだ。

 邪気のないこの幼なじみに。天使のような顔をした、この醜い悪魔に。笑いものになるように、しむけられたのだ。

「あんたが……!」

 かっと怒りが湧く。平手を振り下ろそうとして、しかし、視線に気づいた。ここで罵倒しようものなら、思うつぼだ。

 教室中の目が、浮き上がって見えた。

 だれもが見ている。

 自分を見ている。

 理想だったはずだ。

 夢だったはずだ。

 けれど、違っていた。

 こんなはずでは、ない。

「────っ!」

 すみれは美久の手を強く引き、走り出した。教室から背を向けて。

「お、逃げた」

 どっと、笑い声。


 たどりついたのは、屋上だった。ここなら、昼休みぐらいにしか生徒は来ないはずだった。授業が始まってしまえば見回りがあるので、エスケープ目的の生徒もいない。

 重い扉を開けて、飛び込む。力任せに美久の手を引き、フェンスに叩きつけるようにして離すと、そのままの勢いで右手を振り上げた。

 乾いた音がした。

 したたかに頬をぶたれ、それでも美久は、黙っていた。唇を噛むようにして、悔しそうに。

「あんた、知ってたんでしょ。こうなるって、わかってたんでしょ。あたしを見て、笑ってたの? せいぜいバカにされればいいって」

「ちが──」

「こんなはずじゃなかったのに!」

 美久は泣きそうな顔をしていた。その瞳に映る自らの姿に、すみれは余計にみじめな気持ちになる。こんなに美しいのに。だれよりも美しくなったのに。

 満たされない。

 渇いている。

 足りない、足りない、足りない。

「すみれちゃん……」

 美久の目が、哀れみを帯びた。

 かっと脳髄が熱くなる。すみれは美久の長い髪をつかみ、頭を持ち上げた。鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、睨みつける。

「きっと足りないんだ」

 つぶやいた声は、自分のものではないかのようだった。

「もっと食べないと、もっと飲み込まないと、もっと、もっと……!」

「いいよ」

 震える声で、それでもたしかに、美久はいった。

「わたしを食べちゃっていいよ。ぜんぶ食べちゃっていいよ。だからもう、やめようよ」

 泣きそうな目で、それでもすみれをまっすぐに見ている。

 すみれは沸き上がる感情に、戦慄した。

 爆発しそうな、負の感情。

 怒りであり、憎しみであり、嫉妬であり――もしかしたら、それ以外の何かかもしれなかった。

「あんたの、そういうところが、大嫌いなの」

 消えそうな声で、つぶやく。声を大にしてしまっては、まるでそれがすべてだといってしまうようで、抑え、こらえ、絞り出す。

「大嫌いなのよ」

 言葉のほとんどを飲み込んだ。吐き出す代わりに、口を開ける。

 美久の白い首を見た。食らいつけばいい。それだけのことだった。

 きっかけはなんだったろう──美久がいい出したことだ。特別な人間なのだと教えてくれた。きっと、あのときからすべて、この女の策略だったのだ。笑っていたのだ。従順なふりをして、いいなりになるふりをして。

 ならば、ためらう理由など、なかった。

 そうすれば、きっと、満たされる。

 覚悟を決めたように、美久は目を閉じた。透き通る液体が、こぼれ落ちる。

 涙。

 なぜ、涙。

 考えることはもう、できなかった。すみれは美久の首に噛みついた。

「――んっ」

 美久の顔が苦痛に歪む。

 心臓が波打つ。

 血液を、生気を、命を、何もかもを吸い込もうと、力を込める。

「やめとけよ」

 怒気を含んだ静かな声が、背後から聞こえた。

 すみれは驚かなかった。

 何かが来るような予感があった。あるいは、人としての感覚が麻痺しているのかもしれなかった。

 美久から手を離し、彼女が地面に崩れ落ちるのもかまわず、振り返る。

 少女が立っていた。

 セーラー服を着た、ポニーテールの少女。意志の強い瞳が、怒りを帯びている。

 すぐに、昨日の光景がよみがえった。あの家庭教師と一緒にいた女だ。

 嫌いだ――憎悪に似た感情に支配される。

 こういう女は、嫌いだ。

 苦労も不幸も知らないで、ちやほやされてきたであろう、美しい少女。

「あなたもエサになりたいの?」

 自分の口から流れ出たのは、まるで歌うような美しい声だった。たまらない快楽を感じながら、少女に近づいていく。

「それなら、食べてあげる――!」

「忠告のつもりもあったんだけどなあ」

 もう一つの声が聞こえるのと同時に、すみれは身動きがとれなくなった。

 いつのまにか、腕を掴まれていた。透明な糸のようなものであっという間にしばりあげられる。

「家庭、教師」

 立ち尽くした状態で、すみれは彼を見た。鬼頭俊介。ホストであり院生であり、すみれの家庭教師でもある男。

 忠告、という言葉に脳が混乱する。

 だって背中を押してくれたじゃないか。

 変われるのだと、そういう特別な人間もいるのだと、教えてくれたじゃないか。

「どうして……」

「こうは考えなかったかな。特性を持つ存在は、世界中にたくさんいるって。彼らは彼らでコミュニティを作って、秩序を守るために動いてるって――ね?」

 すみれは首を左右に振った。何をいっているのかわからなかった。

 わからないことばかりだ。

 どうしてこんな扱いを受けるのかわからない。どういうことかわからない。どうなっているのかわからない。

 なぜだれも褒めないのだろう。

 なぜだれも讃えないのだろう。

 こんなにも、こうして、精一杯、ここにいるのに。

「あたし、まちがってない」

 つぶやく。

 だって、だれも見てくれなかった。

 だれも気づいてくれなかった。

 どこまで行っても暗闇で、もがいても叫んでも明かりは見えなくて、どんどんがんじがらめになっていった。

 それなら、自分で、変わるしかないじゃないか。

 特別な、人間なのだから。

「まちがってないまちがってないまちがってない!」

「まあ、たとえば、まちがってないとしてさ……」

 スーツのポケットからハンドミラーを取り出し、こんな場面だというのにのらりくらりと、俊介はそれを差し出した。

 すみれの姿が映る。

 目も鼻も頬も口も、何もかもが完璧で、これ以上ないぐらいに美しい姿。

 理想の姿。

 感情のこもらない、淡々とした声で、俊介は続けた。

「これで、満足なの?」

 あたりまえだ、と返そうとした。

 けれど、声が出ない。

 満足だ。望んだ姿なのだから。ずっと夢見ていたのだから。

 美しく、なりたかったのだから。

「おまえらみたいな甘ったれ見てると、吐き気がするんだよ」

 ポニーテールの少女が、乱暴な口調で言葉を投げた。頭に手をやり、かなぐり捨てるように長い髪を地面に放る。奔放なショートカットが露わになり、すみれははっとした。

 見覚えがあった。

 中性的な、整った顔立ち。

「行使するには、現場を押さえなきゃなんなくてね――本当は、オレが釣ろうとしたんだ。わざわざ両方の姿で転校してきてさ。でも、まさか共食いとはな」

 両方の姿、という言葉が、脳に響く。けれど、わかったのはそれだけだった。それ以外のことは、依然として、すみれに届かない。

「おまえさ、藤ノ宮美久を操ってるつもりでいたんだろ。血でも飲ませたか? たしかに、イビトのなかには、そうすることで操れる特性もある。けどな――」

「やめて」

 地面に転がったままの美久が、うめくような声をあげた。しかし、少女――マサキに、止まる気配はなかった。すみれに詰め寄り、正面から見据える。

「おまえはただの人間だよ、福崎すみれ」







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