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イビト協定  作者: 光太朗
4/8

◇ 家庭教師 ◇



 *


 協定の条

 イビト及び属イビトは、ヒトの活力を得ることで、己の特性を補充し、快楽を得る。これには中毒性が伴う。場合によってはヒトを死に至らしめる。原則として、是を為してはならない。


 *




「──こうすると、この答えになる。わかる?」

 淡泊な、けれどどこか甘い声で丁寧に解説され、すみれは思わずうなずいてしまった。

 本当なら、少し見てもらった時点で、わかりにくいだの自分には合わないだのと難癖をつけて、出て行ってもらうつもりだった。

 けれど、できなくなってしまった。

 スーツ姿で現れた、鬼頭俊介という名の家庭教師──山大の院生であり、ホストでもあるという謎の男だ──は、インターホンを押したかと思うと、のらりくらりとすみれの部屋に入り込んでしまった。帰って、といえない空気をまとっていて、主導権を握られたままに一時間。いつのまにか、熱心に勉強してしまったことに、すみれ自身が驚いていた。

 日はまだ高い。

 午後二時という時刻に家庭教師を呼んだところを見ると、すみれが学校を無断欠席し続けていることなど、あの母親はお見通しだったのだろう。うまく隠し通しているつもりだっただけに、それ自体、すみれには意外なことだった。

「うん、おりこう。お母さんからデキル子だって聞いてたけど、本当だね。これならすぐに追いつく」

 おりこう、などといわれたのは何年ぶりだろう。すみれは妙に気恥ずかしくなった。

「デキル子、なんて……いうわけないじゃん、あの母親が」

「いってたよ、たぶん」

 多分なのか、とすみれは呆れる。この男こそ、できるのかできないのかわからない。

 俊介は、整っているとはいえない茶の頭を掻くと、学生然としたよれよれのカバンを開けた。どこに入れたっけ、などとつぶやきながら、レシートや紙切れ、使いかけのティッシュやしわのついたハンカチ、さらには本や手帳など、次々と床に出していく。

 そのだらしなさと、ホストという肩書きがどうしても結びつかず、すみれは彼の顔をまじまじと見る。整った顔をしているが、ホストというのは女性をエスコートする能力、そして話術が大切だと母親がいってたはずだ。とても、ホスト向きには見えない。

「なんでホストなんかやってるの」

 思わず尋ねると、俊介は顔を上げた。すみれと目が合う。

 その状態で、あろうことか、彼は笑った。ふやけたような、人畜無害の笑顔。

「ホストっていうのは口実で、本当は、君に会うのが目的だったんだ──っていったら、信じる? ついでに、古武術なんかをたしなんでる武闘派で、永遠の二十三歳。趣味はダラダラすること。彼女ナシ」

「…………」

 先の思考を撤回した。ホストというのもうなずける。女性全員をこうして口説いているに違いない。そのなかに自分すら入ることは、意外ではあったが。

「ああ、あったあった。休憩にしよう。はい、これ、頭の良くなるガム」

 カバン大捜索の末に取り出したのは、銀色のケースだった。やはり銀の紙で一つ一つ包まれた小さな塊を、すみれに差し出す。

 見るからに胡散臭かった。頭の良くなるガム、などと。

 それが伝わったのか、俊介は眉を上げ、まず自らが口に入れた。

「冗談だよ、単に俺の好きなガム。いる?」

「……もらいます」

 断る理由もなく、すみれは手を伸ばす。ストロベリーの味がした。特に美味しいわけでも、もちろん頭が良くなりそうな何かがあるというわけでもない。平凡な味。

 会話をしてみよう、という気になった。

 この男には、なんだか興味があった。

「山大の院生で、ホストで、家庭教師って、どうしてそんなことしてる……んですか。何がしたいわけ」

「いいよ、デスマスじゃなくても」

 とってつけたような口調に、俊介が苦笑する。すみれは少し恥ずかしくなったが、そういわれても友人のように話すわけにもいかなかった。

「山大の研究室にいる方が、本業だよ。タンパク質を研究してるんだ。来る日も来る日もね」

「タンパク質?」

「タンパク質」

 思わず聞き返したが、俊介がごく真剣な顔をしていて、冗談ではないのだとわかる。すみれは、いままでに培った知識を掘り起こした。けれど、タンパク質、とわれて浮かぶのは、肉や魚、たまご──そのあたりがせいぜいのところだった。

 その様子に気づいたのか、またはこういった反応には慣れているのか、俊介は優しく笑った。

「遺伝子の研究っていった方が、雰囲気があるかな。知ってる、遺伝子?」

「少しだけ」

「DNAは?」

「……少しだけ」

 それは本当に、聞いたことがある程度だった。俊介は自分のノートをめくると、手にしたシャープペンシルで、すらすらと図を描きはじめる。新体操の選手がリボンを回したような、くるくると円を描くらせんの模様。お世辞にも、上手とはいえなかった。

「これが、DNAの二重らせん。ヒトの細胞はね、それぞれが、対になった二三本の染色体──つまり、合計で四六本の染色体を持っている。それが、卵子に半分、精子に半分ずつあって、合体して四六の一人前になる。そうやって、子は、両親の持ち物を受け継いでいくんだ……──こんな話は、退屈かな?」

 すみれは、首を左右に振った。

 その話は、映画か何かで見たことがあった。流行したサスペンス小説の映画版だったろうか。その知識が手伝って、素直に聞き入ってしまう。

「そう、よかった。──そうやって受け継がれたDNAには、設計図が記されていてね。遺伝子っていうのは、その設計図のことなんだ」

「設計図……その人間が、どんな人生を歩むか、っていう?」

「おもしろいことをいうね」

 俊介は目を細めた。いままでの柔らかい雰囲気から、急に妖艶な空気をまとったようで、すみれはどきりとする。馬鹿みたいな質問だっただろうかと思う。

 もし、肯定されたのなら、反論するつもりだった。そんなことはあってはならない。遺伝子というもので人生が決まってしまうのだとしたら、変われないことになってしまう。

 進めないことになってしまう。

 みじめな自分のまま、永遠に。

 しかし、俊介は手を伸ばすと、すみれの頭を撫でた。小さな子どもにするように。

「単純に、設計図だよ。具体的には、タンパク質の設計図。一つの細胞は、約八〇億個のタンパク質を持っている。しかもあるだけじゃなくて、常に分解と生成をくり返しているんだ。こうして会話している間にも、俺たちの身体に約六〇兆個ある細胞のなかで、どんどんタンパク質が作られている──気が遠くなるだろう?」

「六〇兆個の細胞……それぞれに、八〇億のタンパク質?」

「そう、よく数字を記憶したね。やっぱり、頭がいい。でも、言葉だけではきっとわからないね」

 すみれはうなずいた。億や兆といわれても、なんだかとてつもなく多いということしかわからなかった。

 話に乗ってきているのが嬉しいのか、俊介は頬をほころばせる。明らかに上機嫌で、続けた。

「種類にもよるけどね、細胞のサイズを一つ直径一〇ミクロン──これは一ミリの百分の一──だと仮定して、身体全体の細胞を一列に並べたら、どれぐらいの長さになると思う? まあ、単純計算できるんだけど……数字じゃなくて、想像してごらん」

 心のどこかにあったはずの、バカバカしい、という類の感情は、いつのまにか消えていた。すみれは、懸命に想像しようとする。一ミリ、ならばすぐに浮かぶ。それを十に分け、さらに十に分けたうちの一つが、一〇ミクロン──頭の中で、細胞の大きさをイメージした。

 そこまでは、どうにかなった。だが、それを六〇兆個といわれると、想像が止まってしまう。

 俊介は、満足そうにうなずいた。すみれの考えていることが、手に取るようにわかっているのだろう。

「数字なら、答えは約六〇万キロ。地球と月との距離が約三八万キロだっていえば、そのすごさがわかるかな。ヒトひとりの細胞から、宇宙の話にまで発展しちゃうわけだ。それだけの細胞のぜんぶに、八〇億のタンパク質。つまりヒトは、タンパク質に支配されている」

 つまり、で結論づけてしまうのは違うのではないかと、すみれは思った。人間の身体のなかに、想像もできないほどのタンパク質があるというのはわかるものの、それは極論なのではないだろうか。

 そこまで考えて、やっと理解する。タンパク質の研究というのは、つまりそういうことなのだろう。

「このタンパク質っていうのが、厄介で、かつ魅力的なんだ。ヒトの中にあるタンパク質の正確な数は愚か、性質や役割についても、すべてが解明されているわけではない。しかも──タンパク質は、常に作り出されている。それは絶対的なものではなく、ちょっとしたストレスで、変異する。一部のタンパク質がおかしくなるだけで、ヒトは簡単に病気になるんだ。逆も然り。タンパク質の持つ可能性は無限大だよ。俺はそれに、取り憑かれている」

 俊介は、その魅力に、といういい方はしなかった。深く没頭する何かについて語る様子とはどこか異なるような気がして、すみれは違和感を覚える。取り憑かれている、というのは、マイナスな意味を込めた表現にも聞こえた。

「無限大って、たとえば?」

 これ以上専門的なことをいわれてもわかるはずもなかったが、それでもすみれは問いを投げた。研究分野というからには、きっと何かがあるのだろう。それともそういうものはいってはいけないものなのだろうかと、聞いてしまってから思う。

 俊介は、身を屈めた。ローテーブルに身を乗り出し、すみれに顔を近づける。

「──たとえば、体内の大部分のタンパク質が一気に変化するとしたら、どうだい? そういった遺伝子が、存在するとしたら。ストレスを受けて、性別が変わったり、ネコがしゃべり出したり……ね? 特性を持つタンパク質が安定すれば、不老長寿というのも、有り得る」

 笑い飛ばそうとして、けれどその真剣な目に、すみれは声を飲み込んでしまった。

 夢物語だ、アニメや漫画の世界だ──そういってしまうのは簡単だった。

 けれど、すみれは知っていた。

 世の中には、そういうことが、起こり得るのだ。

 特別な人間というのが、たしかに存在するのだ──自分のように。

「おっと、話し込んじゃったね」

 俊介が時計を見た。すみれもはっとして彼に倣う。まさかタンパク質を教えるために来たわけではないだろうが、休憩といってからすでに三十分が経過していた。

 ふたたび荒れたカバンをまさぐると、俊介は銀色の包装紙のようなものを取り出した。噛んでいたガムを吐き出す。慣れた手つきでくるんで、すみれにも紙を差し出した。

「どうぞ」

 すみれも、とっくに味のなくなったガムを出す。部屋の端のゴミ箱に投げ入れた。

「あ、俺のも捨てていい? あと、このいつのかわかんないレシートとか、なんかのゴミとか、いろいろ」

「なんでカバンにゴミが……いいけど」

 さすがに、紙くずを目の前にして持って帰れともいえない。俊介はへらりと笑うと、ゴミ箱に次々とゴミを投入していった。あっという間にいっぱいになる。

「初回は顔合わせってことで、この程度で。また来るよ、すみれちゃん。復習、適当にやっといてね」

 そんなことをいい残し、俊介は緩慢な手つきで持参の参考書の類をカバンに押し込むと、あっさりと帰っていった。勉強をしていた時間よりも、明らかにタンパク質論の時間の方が濃い。これからもこの調子なのだろうかと、すみれはふと不安になる。

 それならば、家庭教師を断る口実として充分だ。自分の研究分野の話ばかりをする教師など、優秀とは思えない。

 けれど、また来るのかと思うと、嬉しくもあった。他人と過ごした時間を悪くないと思ったのは、ひどく久しぶりだ。ホストというのは気遣うことに長けているのだろうかと、ちらりと思う。波長を合わせてくれているかのようだった。無理なく、同じ空間にいられるように。

 すみれはそれでも、玄関まで送るようなことはしなかった。足音が遠ざかり、続いたインターホンの音で、入れ違いに客がやってきたのだと知る。来客が誰なのかはわかっていたが、窓から外を覗いた。

 門の前にいるのは、藤ノ宮美久だった。いつものように、どこか沈んだ様子で立っている。苛立って、すみれは歯噛みする。このまま黙っていれば、勝手に入ってくるはずだ。

 ほとんど同時に、鬼頭俊介が出て行くのが見えた。美久とお互いに会釈して、すれ違う。

 もう、見ている必要もなかった。すみれは窓から離れようとして──ふと、その先にいた人物と、目が合った。

 息を飲んだ。

 セーラー服の少女だった。筒賀高校のそれに見える。長い黒髪をポニーテールにした、美久とは違うタイプの美少女だ。意志の強そうな大きな目は、たしかに、まっすぐに、すみれを見ていた。

 敵意を感じた。

 地面の上から、わざわざ二階の窓を、じっと見ている。燃えるような瞳。

「……だれ?」

 印象に残る風貌なのに、すみれの記憶にはない。同じ高校ではないという可能性もあるが、どうやら向こうはこちらのことを知っているようだった。そうでなければ、あんな目で見られることもないだろう。

 身を隠すようにして様子をうかがっていると、少女は鬼頭俊介と合流した。気の置けない様子で会話をしているのが見える。もちろん、内容までは聞こえない。

 心が、ざわついた。

 きっと、彼女は、なんでも持っている。

 すみれが欲しているものを、なにもかも──あの子のように。

「あの女……」

 すみれは、指先を強く噛んだ。







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