◆ 取って食われて ◆
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協定の条
イビトは、ヒトのなかで生活する。極力ヒトであろうとすることを原則とする。
是を知るヒトは、イビトを補助する。
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「い、いいにくいこと、なんだけど……」
少年は言葉を濁した。最後まで聞かずとも何をいわれるのか想像がついたが、マサキは神妙な顔でうなずく。
「安心しろ。だれにもいわねえよ」
「ほ、本当だよ? お母さんやお父さんにも、ダメだよ?」
「わかってる、わかってる」
高校生にもなって、お母さんやお父さんにナイショという念の押し方もどうか──そうは思ったが、マサキの役割は、ひたすらに彼らの味方であることだった。
「落ち着けよ。ほら、ガムでも噛んでさ。これ、オレのオススメ」
「あ、ありがとう」
マサキが銀色の包みを差し出すと、少年は面食らいながらもそれを受け取る。
「甘いのと、こう、顎を動かすってのが、なんかいいらしいぞ」
適当な知識を披露する。それでも多少は落ち着いたのか、少年は苦笑した。
マサキは伸びをして、わざと少年から距離を置いた。
親身になったようなふりをして、かつなんでもないことのように、やんわりと促す。
「何があったんだ?」
それは、絶妙の間だった。答えずにはいられないというぐらいの。
ベッドの上に座る少年は、小さな声で切り出した。
「……実は、藤ノ宮さんに…………──」
もぞもぞと声は小さくなり、後半はほとんど聞こえなかった。
だがもう、それは聞き返す意味などなかった。
マサキは大仰に驚いてみせ、適当なことをいって彼をなだめ、ショルダーバッグを抱えて早々に部屋を出る。長居は無用だ。まだ数件、残っている。
学校を欠席している面々の家へ、マサキは片っ端から突撃していた。アオから渡されたリストを元に、公共交通機関を駆使して、これでもう十件目になる。
転校してまだ一週間のマサキが家にまで押しかければ、ほとんど例外なく、誰もが目を白黒させた。とはいえ、持ち前の明るさと、良くも悪くも裏表のないその性格、そして当たり障りのないいいわけがプラスされれば、追い返されるようなこともなかった。
知らない相手の場合は、やはり見舞いという名目で家まで行くものの、その家族にそれとなく話を聞くだけだ。制服姿でノートやプリントの類を差し出せば、大抵は深く追求されない。高校生って素晴らしい、と密かにマサキは思う。
外は暗くなり始めていた。七月のこの時期、薄暗くなるということは、もう午後七時を回っているだろう。
「続きは、明日か……」
空を仰いだ。これで終わりというわけではなく、『回収』も残っているのだ。これはアオに頼むこともできるとはいえ、気が遠くなる。
「や、ちょっと待てよ」
ふと思いつき、学生服のポケットから携帯電話を取り出した。あらかじめ転送しておいた、リストの一覧をチェックする。十数人の欠席者の情報が並ぶ最後に、数行分を空けて、記された二つの名があった。
福崎すみれ。
藤ノ宮美久。
住所は同じ町内で、ここから歩いていける距離だ。
「……予定にはなかったけど。まあ、ついでか」
すみれについては自分の担当ではないが、美久に会いに行くのは問題ないはずだ。すみれにしても、近くにいるのだから、接触しておくのは悪いことではないだろう──そう、結論づけた。
元来、彼は動くことが嫌いではない。それに、憔悴した十人と顔を合わせ、苛立ちのようなものを感じてもいた。
「虎穴に入らずんば、っていうしな」
つぶやいて、足を速めた。
藤ノ宮美久は不在だった。
本人のみならず、家族の姿もなし。そのまま帰るのももったいないという思いから、マサキはその足で福崎すみれの家へ向かった。
若干の逡巡ののち、インターホンを鳴らす。どちらかというと質素な市営アパートだった藤ノ宮家に比べて、福崎家は小さいながらも一軒家だ。
「……出てこない、か?」
きっちり一分待って、マサキはつぶやく。携帯電話を開き、まぶしさに目を細めた。もう八時になろうとしている。
いるとしても、すみれ本人だけのはずだ。父親とはずいぶん前に縁を切っており、母親は明け方まで仕事──データなら、しっかり頭に入っている。記憶力は悪い方ではない。
二階のカーテンの向こう側から、灯りが漏れている。光が少し大きくなって、誰かがこちらを覗いたのがわかった。しかしマサキは気づかないふりをして、そのまま、静かに待つ。
しばらくして、扉が開いた。遠慮がちに、小さく。
「どうも、ええと……福崎、さん?」
資料で顔は知っているものの、初対面には違いなかったので、マサキは問いの形を取った。どう挨拶したものか一瞬悩んで、結局明確な言葉を避ける。家まで押し掛けておいて、初めましてというのもおかしい。
「だれ?」
「榊マサキです。福崎さんと同じクラスの。先週転校してきたんで、会うのはこれが初めてだけど」
「…………」
福崎すみれは答えなかった。ただ、不機嫌そうに眉をひそめた。
マサキが転入する以前から、約一ヶ月間、彼女は高校に来ていない。体調不良による欠席、というのがあながち嘘ではないと思えるぐらい、不健康そのものの風体をしていた。荒れた肌に、人を寄せ付けない目。顔色も悪く、痩せ型、というよりはやつれている。
「……美久に用?」
胡散臭そうに目を細め、すみれは意外な言葉を口にした。
マサキは、彼女の言葉に目を見開く。福崎すみれの家に藤ノ宮美久がいる――特に不思議なことでもないが、予想していないことだった。
しかし、それ以上を考えるのは、マサキの役割ではなかった。彼は記憶力には自信があるものの、それを活かす術に関してはそもそも手を出す気がない。
「藤ノ宮さん、いるの? 仲いいんだ」
あたりさわりなく返すと、すみれは敵意をむき出しにした。
「白々しいよ。美久に会いに来たんでしょう。そうじゃなかったら、あたしのとこに来るわけないじゃない」
「いや……――現社の先生が、福崎さんに渡す資料を忘れてたって。オレんちここの近所だから、持ってきたんだけど」
いくつか用意している口実のうち、もっとも的確と思われるものを口にする。しかし、すみれは納得していないようだった。黙って、値踏みするように、じろじろとマサキを見る。きっと何をいっても同じなのだろうと、マサキは肩をすくめた。
もう一押しが必要だと、とっさに思った。このまま帰ってしまってもいい。だがこの状況で、ただ帰るのは癪に障った。
やる気のない家主の顔が、ちらりと脳をよぎる。
手ぶらで帰るわけにはいかない──悩んだのは、一瞬だった。
「藤ノ宮さんがいるなら、ちょっと会っときたいかな」
その言葉に、すみれの表情がより険しくなった。
いってしまってから、ほんのりと後悔する。
しかし、今更だった。すみれは扉を大きく押し開けると、ごくぶっきらぼうに、それでもマサキを通した。
「入れば」
それこそ、帰るわけにはいかない。マサキは覚悟を決めた。
「おじゃまします」
玄関でスニーカーを脱ぎ、少なからず緊張しつつ、丁寧に揃える。いるわけがないとわかっていながらも、しんとした一階に注意を払った。灯りすら落とされ、物音もない。
黙って先を行くすみれに、少し遅れながらもついていく。階段の下には雑誌の類が積み重ねられ、掃除はされているものの、どこか乱雑な雰囲気が漂っていた。
「ご両親は? こんな時間だし、女の子の家に男の子、なわけだし……一応、挨拶とか」
「いないよ、仕事」
普通なら出てくるであろうセリフを口にしたが、すみれは振り返りもせず、冷淡に答える。ハーフパンツにティーシャツというラフなうしろ姿に、世間話のようなものを投げようとして、マサキは口を閉ざした。まるで目に見えない鎧を着ているかのように、隙がなかった。話しかけるな、と背中がいっている。
「ここ」
扉の前で、すみれは止まった。一歩横にずれ、自分では開けず、マサキを促す。ここまできて遠慮するわけにもいかず、マサキはノブに手をかけ、そっと押し開けた。
飾り気のない、質素な部屋だった。
目についたのは、勉強机とベッド、床に転がった大きなクッション。ほとんどそれだけで、ポスターやぬいぐるみのような、娯楽を匂わせるものは一切ない。閉められた青いカーテンは、エアコンから送られる冷たい風に揺らめいている。
クッションの上には、制服姿の藤ノ宮美久がいた。
彼女は、マサキを見て、明らかに狼狽した。身を強ばらせ、それから目を逸らす。
マサキにしてみても、ばつの悪い思いがあった。昼間の保健室でのできごとが蘇る。熱さや匂いや、それらすべてを伴って。
「会いたかったんでしょ?」
乱暴に、すみれは戸を閉めた。ガチャリ、と鍵をかける。
背中から聞こえた問いに、マサキはどう答えるべきかと黙ってしまう。けれど、問われたのは美久の方だった。美久は、首を左右に振った。
「わたしは……」
「会いたかったんでしょ。あんた、こいつと仲良くしたいっていってたじゃない。榊マサキって、あんたがいってた転校生でしょ」
まるで恨みでもあるかのように、すみれはひどく高圧的ないいかたをした。仲良くしたい、のいい回しが気になったが、それよりも態度そのものが感に障り、マサキは眉間に皺を寄せる。ほとんど本来の目的を忘れ、説教の一つでもするつもりで、すみれに向き直った。
「福崎、おまえさ──」
しかし、言葉に詰まってしまった。
すみれは、痛みをこらえるような顔をしていた。肩で息をし、唇を噛むようにして、小さく震えている。下で見たときよりも、よりやつれている印象すら受ける。
思わず、だいじょうぶかと、聞きそうになった。
その戸惑いが、マサキに隙を生んだ。
「ごめん、榊くん」
声は、うしろから聞こえた。昼に聞いたときとは別人のような、控えめな声。
何が、と聞くことはかなわなかった。
痺れるような衝撃がはしる。首筋に小さな痛み。急速に、視界がぼやけていく。
すみれが、薄く笑うのが見えた。
「…………っ」
声は出なかった。
マサキは、意識を手放した。
*
ゆらゆらと、世界が揺れていた。
冷たい風と、あたたかいぬくもり。揺れているのは世界ではなく、自分自身なのだと知る。
落とした視線に、現れては消える皮の靴。頬には柔らかい髪が触れ、鼻先には香水とアルコールの入り交じった匂い、そして慣れ親しんだ香り。少し先を、青い小さなネコが行く。
この世界で一番安心できる場所にいるのだとわかると、マサキはもう一度目を閉じた。それならこのまま預けていようと、まどろみのなかで意識に別れを告げる。
しかし、心底から呆れきった声が、意識を引き戻した。
「馬鹿だねえ」
条件反射のように、反論したくなる。しかし、ことのいきさつを思い出してしまった。ぐうの音も出ない。
「……おまえがいるってことは、深夜とか、明け方?」
代わりに、聞いた。大きな背中が、丸ごと肩をすくめるような仕草をする。
「深夜十二時。アオ君に聞いて飛んできたよ。客が減ったらどうしてくれんの」
「放っとけばいいだろ、稼いでろよ。このままじゃ次の牛肉は遠いぞ」
わざとそんないい方をして、マサキは自分の声を初めて認識した。
目で確かめるまでもなかった。もうあれから四時間経っているというのだから、尚更だ。
思い出したように、頭痛が襲う。
「そんな姿で、公園に転がしておくわけにもいかないでしょうよ」
俊介の言葉に、状況を正確に理解した。
「公園かよ」
目眩がする。どこの公園に転がっていたというのか。女子高生二人の力なら、それほど遠くにも運べなかっただろう。人目につくわけにもいかない。
「まったく、ろくに考えずにすぐ突っ走るクセをどうにかしてもらえないかな。何のために俺がホストなんかやってんだか。心臓がいくつあっても足りないよ」
心配してくれているというのはわかったが、それでも黙って聞いているのは性に合わなかった。気の利いたことを返そうとして、頭痛のなか、脳を動かす。
「仕方ねえだろ、そういうタンパク質でできてんだから」
「なるほど。それは仕方がないね」
意外なほど効果絶大だった。俊介の背中の上で、マサキは思わず笑う。
「悪かったよ」
笑った勢いで、そうつぶやいた。
背中が黙ってしまって、唇を尖らせる。
「……なんだよ」
「いや、気味が悪くて」
「正直すぎるだろうよ!」
足をばたつかせるが、攻撃力は皆無だ。背中が上下して、ため息をつかれたのだとわかる。
「いいよ。君の行為は無駄じゃない。少なくとも、俺のモチベーションが急上昇だ」
とてもそうは思えない淡々とした声が続いて、マサキはばかばかしくなった。
「酒臭ぇから、下ろせよ」
「いまの君を? 笑えない冗談だよ。オヒメサマ抱っこでもいいけどね」
「それこそ笑えねえ」
ずっと先の空に、月が見えた。丸なのかそうでないのかわからない形をしたそれは、まるでそこで彼らを待っているかのように、何にも脅かされず、ただ浮かんでいた。
マサキは、思い出していた。
俊介と出会ったころのこと。
「君は、優しいからね」
何をいおうというのか、謎かけのように、俊介がいう。
優しくない、という代わりに、マサキは苦笑した。
「俺が自分の足で、動いた結果だ」
確かな反省を滲ませ、誓いを新たにするように、言葉を舌に乗せる。
黙って先を進んでいたアオが、しびれを切らしたように振り返った。
「起きたのなら、薬を飲んだらどうですか。それでご自分で歩けばいいと、思うのですがね」
不機嫌そのものの声。
「余計なことを。薬なんて飲まれたら、おんぶしてもしょうがないじゃないか」
「じゃ、飲むか」
異を唱える俊介にあえて逆らって、マサキはポケットを探った。