◇ ともだち ◇
*
協定の条
イビトは、自らの一部を与えることで、ヒトを属イビトとすることができる。私利私欲のために是を為してはならない。
*
それはたしかに、愛と呼べる何かだった。
けれどいつからか、違ってしまった。
ひどく乾くのだ。
足りない、足りない、足りない。
得ることを知った。
同時に、欲望を知った。
乾いた。
もう少しと、欲した。
より、欲しくなった。
まだ、本当の自分ではない。
本当の自分は、こんなものではない。
「すみれ、すみれ? あんた、いるの?」
ドアがノックされ、福崎すみれは顔を上げた。机に突っ伏したまま、いつのまにか寝てしまっていたようだ。形ばかりの参考書が皺になっている。
汗ばんだ髪がうなじに張りつき、すみれは苛立ちながら、髪を頭のうしろでくくりつけた。湿度の高いこの季節、まとまることなく広がるばかりの自分の髪が、すみれは大嫌いだった。いっそ切ってしまいたいが、ある程度の長さがないともっとひどいのだ。
「いるんでしょ、すみれ?」
声は、母親のものだった。嫌な気持ちで、時計を見る。午後三時──うかつだった、とすみれは唇を噛んだ。無用なやりとりを避けるため、母親が動く時刻には、家を空けるようにしていたのに。
ここのところ、時間の流れがいままでと異なっている。恐ろしく早くて、ひどく遅い。まるで、何も知らない愚かな人間が、自分を指差し、笑っているかのように。
笑っているがいい。笑っていられるのもいまのうちだ──すみれは薄く笑った。
幼いころから、ずっとそうだ。
自分は蔑まれる。
美しくもない。勉強ができるわけでもない。
平凡だった。
ずっと……いままでは。
「美久ちゃんが来てるわよ。お母さん仕事だから、もう行くけど、いい?」
すみれは返事をしなかった。いい、といわれたところで、どう答えればいいのかわからない。もし嫌といえば、彼女はここに留まるとでもいうのだろうか──考えてもしようのないことを考える。そもそも、ひとりぼっちは寂しいというような子どもではもうない。
美久、という名にも、神経が波立った。
どうしてこんな時間に来るのだろう。三時半以降に来い、とあれほどいっているのに。
「ああ、そうそう、うちの新しい子にね、山大の院生だって子がいるのよ。今度勉強見てって頼んであるから、楽しみにしててね」
新しい子──ということは、ホストだ。山大といえば難関中の難関といわれるエリート大学だが、どうしてそんなところの院生がホストなどやっているのだろう……ちらりとすみれは考えたが、どうでもいいことだった。
女だてらにホストクラブを経営している母親の神経も、そこで女を餌に金を得る男たちのことも、どちらもすみれにはわかりたくもないものだ。
放っておくのなら、中途半端にかまうのではなく、丸ごと放り出して欲しかった。
母親のように口達者でも、友人のように綺麗でもない自分など、どうせ物音一つ立てずにいれば、だれも気づかないのだから。
「すみれ、聞いてる?」
「遅れるよ、お母さん」
仕方がないので、声を出した。すみれは耳をすます。あら大変、という甲高い声と、走り去る音。続いて、遠くで扉が閉まる音。それから、まるでオヒメサマが歩くみたいな、品のいい小さな足音。
足音は、すみれの部屋の前で止まった。
「すみれちゃん、入るよ?」
控えめな声は、それが美しくあればあるだけ、すみれの心中をかき乱した。
「ダメ、っていったら、入んないの?」
「ううん、ごめん、入れて」
突き放すような言葉に、声はすぐに答える。それからドアが開き、見慣れた幼なじみが入ってきた。藤ノ宮美久。夏だというのに、長い黒髪はまっすぐ垂らしたままで、汗をかいている様子もない。
座れば、とすみれがいうと、美久は笑顔になった。床に置かれたクッションの上に座り、カバンを下ろす。中から数枚の紙を取り出した。
「これ、今日配られたプリント。授業は、わたしもちゃんと出てなくて、わかんないけど」
「そんなのはいい。それより、今日は何人?」
すみれはプリントを突き返す。自分もクッションの上に腰を下ろし、それ以外には用はないとばかりに、単刀直入に聞いた。
美久は、少し困ったように、曖昧に首を傾けた。その仕草が気に入らず、すみれは眉根を寄せる。このまま衝動に任せて、胸の内のすべてをぶつけてしまいたかった。
「何人なの?」
それでも、辛抱強くくり返す。
「女の子が二人、と……男の子は、ゼロ。転校生の子、あと少しだったんだけど……うまく、いかなくて」
「はん」
すみれは意地悪く目を細めた。うまくいかないわけがないということを、すみれはよく知っていた。
「この期に及んで、自分の評判落としたくないとか、思ってるの」
「まさか、そんなこと。すみれちゃん、わたしは──」
「そうよね。あんたはあたしのいいなりだもん」
すみれがそういうと、美久は口を閉ざしてしまう。
「そうでしょう。あたしは特別なの。あんたとは、違うの。あんたはただの人間だもんね? あたしのおかげで、あんただって特別みたいな顔をしてるけど……あんたとあたしは、違うもの」
美久は答えない。
すみれは薄く笑ったままで、何でもないことのように促した。
「出しなよ」
美久は、うなずいた。白い手を持ち上げる。
ためらわず、美久は自分の手を口のなかに入れた。深く、深く。手首までがすっぽりと飲み込まれる。端正な顔を苦痛に顔を歪め、身体をくの字に曲げた。
すみれは興奮に似た感情を覚えていた。
美しく、何をやらせてもそつがなく、常に上を行くこの少女が、自分の言葉一つで醜態を晒していることは、彼女にとって悦びだった。
ぞくぞくした。
汚らしい、と思う。
そう思うことで、愛しいという感情も芽生えた。
この美しい少女は、すみれのいいなりだった。自分にはその力があるのだと気づいたのは、ごく最近になってからだ。
他ならぬ、美久がきっかけだった。
彼女が教えてくれたといってもいい。
どうしてもっと早くに気づかなかったのだろう──悔しさはあったが、それは過ぎた望みというものだった。
特別だという思いが、すみれを恍惚とさせていた。
そう思えば、日々を過ごすことができた。
もうすぐ訪れるはずの、素晴らしいその日のために。
「…………っ」
大量の液体を吐き出して、げぇ、と美久が呻く。
抜き出した手はよだれにまみれ、拳には二つの小さな塊が握られていた。
ビー玉のような丸いそれは、まるで実態を持たないかのように、曖昧な光を放っていた。
「すてきよ、美久」
心から、すみれはつぶやく。
塊を受け取り、うっとりと眺めた。角度を変えると色を変え、まるで話しかけてくるようだった。
引き出しから小瓶を取り出すと、一つだけをなかに入れる。そこには、すでに複数の球体が入っていた。愛でるように栓をして、元の場所に戻す。
残ったもう一つを、見つめた。ごくりと喉が鳴る。
「たまらない」
夢見るようにつぶやいて、口に入れた。
とたんに、乾きが癒えた。身体中の細胞が歓喜しているのがわかった。急いで鏡を見る。
ただただ醜かったはずの自分が、輝いていた。
髪は艶を得て、頬はほんのりと赤みを差している。
もっと──欲望が生まれた。
もっともっともっと、すべてを飲み干してしまいたい。
しかし、すみれは堪えた。
少しずつの変化では、もう満足できないのだ。一つ程度では、すぐに消えてしまう効果だということも、わかっていた。
「ご褒美をあげなくちゃね」
すみれは、自身の右手を、ゆっくりと口元に運んだ。ぎり、と指先を噛む。感覚を麻痺させるかのように、強く、強く。
やがて、血が滲んだ。
それを美久に突きつける。
「どうぞ?」
言葉だけは優しく、笑顔すら浮かべて、そう告げる。
美久は一度瞳を閉じ、意を決したように、すみれの指先を口に含んだ。
すみれは唇の両端を上げた。
なんて醜いのだろう、と肩を震わせる。
だからこそ、愛しい。
やっと、心から、愛しいと思えるようになった。
幼いころから、姉妹のように一緒だった、大切な大切なともだち。
「さあ、もっともっと持ってきて、あたしのために。綺麗な女だけじゃだめ、ちゃんと男も相手にするの。そうやって、堕ちていくあんたを見たいの。──あたしたち、ともだちだものね」
ひどく優しい気持ちでそう囁くと、美久は弱々しく、それでも幸せそうに、微笑んだ。