◆ 誘惑少女 ◆
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協定の条
イビトは、特性を持つヒトである。よって、ヒトであり、ヒトでない。
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「道が限られていると感じるのは、君が優しいからだよ」
乾ききった世界で、その言葉は唯一、彼女の芯へと届いた。
けれど、と彼女は首を振った。
けれど、どうすればいいのかわからないの、と。
「あるのは選択肢じゃない、世界だ。道を選び取るんじゃない、進むんだ──君が、自分の足で」
彼は手を差し伸べた。
ただ膝を抱え、見えない道を必死に模索してきた彼女にとって、それは、光そのものに見えた。
抱いたのは、安堵と興奮──同時に、覚悟。
決めるのは、自分だ。
彼女は、その手を、取った。
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「ねえ、イイコトしようか」
セーラー服の美少女が、目前に迫っていた。
榊マサキは、彼女の名前を知っていた。一年二組──つまり同じクラスの、藤ノ宮美久。筒賀高校のマドンナ的存在というやつだ。二年に美少女転校生がやってくるまでは、ダントツでミス筒賀の座に君臨していたのだという。憧れている男子は多く、ファンクラブまであるらしい。いわく、清楚で可憐なお嬢様らしさがたまらない、云々。
マサキは息を呑んだ。
詐欺だ。
「いや……まずいだろ、藤ノ宮さん。ここどこか知ってる?」
できるだけやんわりと、拒絶を口にする。意志とは裏腹、というわけでは決してない。マサキには誓って、そのつもりはなかった。
真剣に頭痛を感じて、ただ薬をもらえればと、保健室にやってきたのだ。誰もいないので、せめて寝かせてもらおうと、ベッドに横になった。それがまさか、こんな誘惑が待ちかまえているとは。
いやに静まりかえった保健室に、校庭から笛の音が聞こえてくる。体育の授業でもやっているのだろう。届くものならばタスケテと叫びたい心境で、マサキは冷や汗を垂らした。
「もう名前覚えてくれてるの? 嬉しい」
美久は、妖艶な笑みを浮かべた。とても高校生とは思えない、大人びた表情。胸元のホックをはずし、逃げ場のないマサキに迫る。
マサキは、自分の容姿がモテる類のものではないという自覚があった。よくいえば中性的、悪くいえば男らしくない――ついでに、背も低い。
だからこそ余計に、この状況に納得がいかなかった。美久は午後から授業に出ていなかったはずだ。授業を抜け出してまでここで誰かを待っていたのだとして、それが自分とは到底思えない。
「有名だもんよ、藤ノ宮さん。清楚で可憐なお嬢様だって、転校初日から散々吹き込まれた。なんかちょっと、違うみたいだけど」
「わたし、そんなふうにいわれてるの? 榊君も有名よ。勉強できるのに、授業をサボってばっかりだって」
楽しそうに唇の端をあげる。白い、というよりもむしろ青白い顔に、赤い唇が自己を強調していた。夏仕様のセーラー服は、着ているだけでもそれなりの破壊力だというのに、胸元をはだけさせ、馬乗りに迫られればなおさらだった。ごくりと、マサキはツバを呑む。
「ね、せっかくなんだから──いいよね?」
染めていない長い黒髪が、マサキの頬をくすぐった。
限界だった。
マサキは、両手を前に突き出した。
「よくない! オレ以外のだれかで、ぜひ! なんなら適当に連れて──来る? 来ようか? いますぐ、校庭とかから!」
熱く提案する。美久は狐につままれたような顔をして、数秒の沈黙のあと、首を左右に振った。
「じゃあ、そういうことで!」
いまだとばかりに、マサキはベッドから抜け出した。はつらつと告げ、そのまま帰るつもりで持ってきていた巨大なショルダーバッグをひっつかみ、戸を開け放って駆け出す。脱兎のごとく。
残された美久がどんな顔をしているのかなど、知りたくもなかった。それは本来なら、彼に与えられた役割に反することかもしれなかったが、そんなことはどうでもよかった。
まだ、心臓が跳ねている。冷や汗だって止まらない。
こんな類の危機は、初めてだった。
「ぐわ──!」
青春の叫びを青空にぶつけて、マサキはひたすら走った。
不平不満を『彼』にぶつけるのが、なによりも先決と思われた。
「こら俊介──!」
地下鉄の駅までダッシュ、止まっていたのは電車に揺られている間だけで、降りたらまた全力疾走。ほとんど鬼気迫る勢いで家に駆け込み、二階まで上って扉を開け放つと、マサキはまだベッドでごろついているに違いない人物に鞄を投げつけた。
ぐぇ、と情けない声。マサキは止まることなくベッドの主に足を下ろし、膝に手をかけて彼を見下ろした。
「起きろ、この万年低血圧……!」
彼は冷房をきかせた部屋で、冬用の布団にくるまっていた。眠そうな目をマサキに向け、すぐにまた閉じてしまう。
マサキは舌打ちした。布団を干せと何度いったかわからないが、こと生活能力に関しては欠陥品としかいいようのないこの家主は、そういうことをする気配をかけらも見せない。
随分長い間暖房としてつけっぱなしだったエアコンも、送風と除湿を経て、ごく最近冷房デビュー。怠惰を絵に描いたような、やる気のない男。
それが、榊マサキの同居人であり、奇しくも彼の保護者という地位にいる、鬼頭俊介という人物だった。
「……起きてるよ、マサキちゃん。せっかく大学が休みなんだから、仕事の時間まではゆっくりさせてよ」
俊介はマサキの足をつかむと、やんわりと腹の上から下ろす。いかにもやる気のない態度で、ゆるゆると上半身を起こした。
「だれがマサキちゃんだ。起きてるなんて百も承知だばーか、ばーか!」
「え、なにかあったの」
幼稚な暴言を二度繰り返したマサキに、俊介は多少興味のありそうな表情を見せる。しかしそれすら長続きしなかった。
「……うわあ、まだ二時なんだけど。なに早退しちゃってんの」
再び、もぞもぞとベッドに戻っていく。
「俺には荷が重いよ……」
「なんの荷だよ。どうせ寝られねえんだからシャキっとしろ」
「だから、なにがあったの」
改めて問われてしまえば、マサキは返答に窮してしまった。保健室での出来事を思い出し、思わず頬を染める。
その様子に、俊介が身を乗り出した。
「え、甘いイベント?」
あからさまに食いついてくる。マサキは目をそらし、いわないでいるわけにもいかず、いっそきっぱりと告げた。
「藤ノ宮美久に迫られた、肉体的な意味で」
俊介は目を見開いた。
具合の悪い沈黙。どうやら様々な可能性を考えているらしく、形のいい眉をひそめ、まじまじとマサキを見る。
「……いやーん」
あろうことか、思考の末導き出した一言が、それだった。
「つっこむか笑い飛ばすかしてもらった方が、気が楽なんだけどよ」
「そ、そそれで、どうだったの」
「どもんなよ! 逃げたっつーの! よりによって藤ノ宮美久だぞ!」
俊介は今度こそ身体を起こした。ふむ、などと鼻を鳴らして、ベッドの上にあぐらをかく。どうやら汗ばんでいるらしいシャツをまくりあげ、腹をかいた。
「だからこそ、いっそ取って食われとくってのもありだったんじゃないの。活発に動いてる方だし、だいじょうぶでしょう。それとも、福崎すみれの方が良かった? いやいや、俺はだいじょうぶ、妬いたりしないから」
「寝言は寝ていえよ、おっさん」
「おっさん……!」
マサキの冷徹な一言に、俊介が大げさによろめく。あぐらをかいた状態で、そのままぽてりとベッドに転がった。
「ナンバーフォーホストで、永遠の二十三歳である俺を、おっさん呼ばわり……! 世界中の研究室から引く手数多の天才学者に、その仕打ち……!」
「うぇ、ナンバーフォー? ホストのバイト、まだ一週間だろ。いつの間にそんなことになってんだよ。世の中適当だな」
昼は大学院生、それ以外はあらゆるバイトをこなすさすらいのアルバイターである彼が、次はホストをやるといいだしたときには鼻で笑ったものだった。どれほどの規模の店なのかマサキには知るよしもなかったが、ナンバーフォーというのだから上から四番目にはちがいない。
可能なら彼の客たちに、生活能力皆無だとか、無気力だとか、万年低血圧だとか、そういった事実を伝えて差し上げたい。この男を一人で放っておいたら、あっという間に餓死するだろう──邸宅の家事全般を引き受けるマサキには、確信があった。
「うぅ、騙されないぞ。いま巧みに話題変えようとしただろ、マサキ。取って食われちゃえばよかった、についてはどうなの」
腹筋を利用して起き上がりこぼしのように復帰すると、俊介は急に真剣な顔になった。ずい、と鼻先をマサキに寄せる。
マサキは身を引いた。あからさまに嫌そうな顔。
「勘弁しろ、相手の特性だってわかってないだろ。まちがったら死んでるぞ、オレ」
「特性、ね。まあ、死んじゃうほどなら、すでにおおごとになってるだろうけど。──じゃあ相手が無関係だったなら、食べられちゃっても?」
「……いやゴメンナサイ、それもイヤです」
マサキは素直に平伏した。笑いをこらえるようにして、俊介がベッドから足を下ろす。洋服ダンスからアイロンのかけられたシャツと、夏用のスーツを取り出した。バイトのために新調したのだという、どこかのブランドのロゴのついた逸品だ。
「まあたしかに、未知の状態で危険を冒すのもね。そのあたり、伝令からの追加情報を待ちたいところだけど──自分たちでなんとかしろってことかな」
緩慢な動きでシャツとスラックスを脱ぎ、ベッドに放り投げると、俊介はのんびりとスーツを着始めた。これで表情さえしゃんとしていれば、ナンバーフォーではなく、スリーかツーぐらいには上り詰められるかもしれない──ぼんやりとそんなことを考えながら、マサキは見入ってしまった。すらりとした体躯に、色素の薄い茶の髪。色も白く、どこか日本人離れしている。
どうして頭も見目も悪くないのに、残念な印象が漂うのだろう、と哀れみのような感情を抱く。
「そんなにじっと見られたら、俺のなかのタンパク質が照れちゃうよ」
「出たな、タンパク質」
マサキは唇を曲げた。彼のタンパク質論はもう聞き飽きている。彼の研究分野であり、恐らく彼がもっとも愛を注いでいるものだ。
「そんなにタンパク質を嫌うものじゃないよ、マサキ。まあ、その気持ちはわからないでもないんだけど」
「別に好きでも嫌いでもねぇよ。そんなことより、俺はこのまま学業に励まなくちゃなんねえのかよ。高一の授業とか、ほんとタルいぞ。頭痛もひどいし、やっぱりムチャだったんじゃねえの」
唇をとがらせてそう抗議をすると、俊介は肩をすくめてみせた。
「頭痛についても、伝令にいってもらえないかな。俺の特製で良ければよく効く薬があるけどね?」
「うっさんくせえ」
マサキがぼやくのと、窓からそれが入ってきたのはほぼ同時だった。軽い身のこなしでトンと降り立ち、マサキと俊介を観察すると、大きな目を細める。鮮やかな青色の、小さなネコ。
「……というわけで、アオどの、頭痛を改善していただきたいのですが」
慇懃無礼にマサキが告げると、青ネコはのどを鳴らした。どこか嬉しそうに尾を揺らし、マサキに飛びつく。口を開けた中には、密閉された小さな袋。
「うわあ、受け取りたくねえ。追加とかいうんじゃねえだろうな」
「お仕事の一環ですよ、マサキさん」
アオ、と呼ばれたネコから飛び出したのは、ひどく落ち着いた男性の声だった。袋をマサキの手のひらに吐き出すと、前足で髭を撫でる。
「ここ一ヶ月間の、筒賀高校欠席者リストです。片っ端からどうぞ。方法については言及致しませんので。応援しております」
「……簡単にいってくれるけどよ」
顔をしかめて、マサキがぼやく。アオはしなやかな肢体を伸ばして床に降り立つと、マサキに向かって一礼し、そのまま窓から出て行こうとした。そこを、すかさず俊介が捕まえる。
「待て待て、俺には何かないの。まず家主の俺に挨拶するのが礼儀でしょうが」
アオは、あからさまに顔をしかめた。寄るな、とばかりに、近づいてきた俊介の顔を手で制する。
「貴方はあくせく金銭を稼いでいれば良いのですよ。ホストになったのだとか? 実にお似合いです。罪のない女性をたらし込んで、せいぜい仕事に励みなさい。そういった地を這うような努力が、我らの協会に潤いをもたらすのです」
冷たい声で、嫌味たっぷりにそう告げた。俊介が唇を曲げる。
「アオくんさあ……いやそもそも、俺は俺の稼ぎをそっちに流す気はないんだけど」
「ぼくをアオと呼んでいいのもマサキさんだけですよ。自重なさい。──では、マサキさん、新薬を手に入れたらまた会いに来ますね。仕事が一段落したら、デートしましょう」
アオはわざとらしく小さな手で投げキッスを披露した。器用にもウィンクつきだ。かわいらしさをアピールするかのように、ニャアと鳴く。
「いいから薬持ってこいよ」
「もう二度と来ないでくれる」
マサキと俊介の意見は、微妙なラインですれ違った。