秘密のオレンジジュース
蹴人くんと不可解な別れ方をしてから数日経ったある日、わたしは社外で取材立ち会いをした帰りに、偶然、諏訪さんを見かけて、思わず足を止めた。
会社近くのコンビニに入っていく諏訪さんは、相変わらず背が高くて、頭のてっぺんから足先までもがイケメンだった。
いつもなら、こうして偶然見かけただけで喜んで、それから、”良いことのあとの悪いこと” を心配してしまうところだけど、今日は、ちょっと事情が違った。
諏訪さんは、一人ではなかったのだ。
長身のスーツ姿の隣には、セミロングの髪の裾をゆるく巻いた、きれいな女の人がいたから。
浅香 夏希さん――――諏訪さんの同期で、同じく営業部の人だ。大学も同じで、わたしが入社した時、二人はすでに付き合ってる…という噂があった。
それも無理はない。二人並んだ姿は誰が見てもお似合いだったし、とにかく仲が良さそうだったから。
二人の他にももう一人、同期で仲が良い男性社員がいて、三人で一緒にいるのをよく見かけていたけれど、最近その人に彼女ができたので、余った二人の噂が加速していたのだ。
ズキ…と心臓が音をたてて痛む気がするのは、”良いことのあとの悪いこと” なのだろうか。
それとも、ただの片想いの副作用だろうか。
わたしは二人の姿を視界から消したくて、顔を背けた。
今日は良いことと悪いことがいっぺんに来たから、プラマイ0よね。
そんなこと考えながら社に戻ろうとしたそのとき、
「こんにちは」
ふいに、声をかけられたのだ。
思わぬことに驚いて振り返ると、諏訪さんが目の前に立っていた。
「この前、駅で……」
諏訪さんが、わたしに話しかけている。
つい最近までは声を聞くことすら滅多になかったのにと、驚きを越えてちょっとした感動もおぼえた。
「あ、はい。あの時はどうも……」
ぎこちないながらも、挨拶を返した。
すると、
「和泉さん、だよね?」
諏訪さんがわたしの名前を口にしたのだ。
……どうしてわたしの名前を諏訪さんが知ってるの?
急激に、ぎこちなさが緊張に変わるのが分かった。
諏訪さんの方も幾分緊張した顔つきで、けれどそれが凛々しさをより引き立たせているようにも見えてしまう。
本気のイケメンは、どんな表情も整っていた。
「和泉さん?」
もう一度呼ばれて、わたしはやっと返事をすることができた。
「はい…」
すると諏訪さんは安堵したように緊張を和らげた。
「よかった、名前を間違えて覚えてたのかと思った」
「あ、いえ、和泉であってます。間違いないです」
わたしは慌てて答えてから、
「あの、どうして、わたしの名前を…?」
おずおずと、訊いてみた。
「オレ達、同じ会社だよ。オレは営業の諏訪といいます。和泉さんの同期に営業部の白河がいるだろ?白河と一緒にいるところをよく見かけてたから、なんとなく和泉さんの名前は知ってた」
白河さんは、確かにわたしの同期だ。特別親しいわけではないけれど、社内で見かければ声をかけたりはしていた。そして白河さんは、最近、諏訪さんの同期で同じく営業部の戸倉さんという男の人と付き合いはじめたのだ。社内で人気を二分していた諏訪さんと戸倉さんのうち、賑やかなタイプの戸倉さんが社内で彼女をつくったと、それはすごい特大ニュース扱いで噂が走り回っていた。
そのことを考えれば、諏訪さんが、自分の友人でもある戸倉さんの彼女の同期であるわたしを知っていても、不思議ではないのかもしれない。
「そうなんですか……。この前駅でお会いしたときはそんなこと仰ってなかったので、てっきり、わたしのことなんてご存じないんだと思ってました」
だってあの日、諏訪さんはわたしを知ってるような素振りは一つもなかった。むしろ全然知られていないことが端々に感じられて、ちょっと落ち込んだくらいで。
わたしの言ったことに、諏訪さんは「違うんだ」と返してきた。
「あの時はまだ和泉さんのことをオレが一方的に知ってるだけだったから、いきなり名前を呼ぶのは失礼かなと思ったんだ。あの時は急いでて名乗る余裕もなかったから」
「……そう、だったんですか」
諏訪さんの説明に、わたしは内心では焦りまくりだった。
だって、諏訪さんがわたしを知ってただなんて。
あの朝、蹴人くんと会った時、諏訪さんは、わたしが同じ会社の人間だと知ってたんだ。
それがなんだか、妙な恥ずかしさを芽生えさせた。
諏訪さんは、どこかホッとしたように言った。
「でもその言い方だと、和泉さんもオレのことを知ってくれてたのかな」
「もちろんです。諏訪さんは入社したときから有名人でしたから」
わずかに食いぎみに答えると、諏訪さんは「有名って、変な噂されてないといいんだけど…」と、困ったように笑った。
「全然です。そんな、変な噂なんて一つもありません」
慌てて否定したわたしに、諏訪さんはまた笑う。
「だったらよかった」
「わたしも、あの時は、きっと諏訪さんはわたしのことなんかご存じないだろうと思ってました」
「お互い知ってたのに知らないフリをしてたわけか」
諏訪さんはビジネスバッグを持ってない方の手で前髪をくしゃりとさせた。
”笑ったときの顔がかわいい” という噂は、本当だった。
わたしは、もうこの笑顔を見られただけで、今日一日の幸運を使い果たしてしまったような気分だった。