よっつめ、労い
「”ありがとう” の大安売りだったな……」
俺はバイトに向かう車の中で、呟いていた。
一人きりのこともあって、やや大きめな声だった。
祖母は、一緒に住んでるくせに、昔から余計なことは言ってこない控えめな人だった。
俺も口数が多い方ではなかったから、祖母と過ごす時間は、それほど苦でもなくて、大学生になった今でも、ときどき一緒に出かけたりもしていたほどだ。
”ばあちゃんっ子” ではないと思うけど、もしかしたら、本当はそうなのかもしれない。
その祖母が、さっき、おかしなことを言い出した。いや、言ってること自体はおかしくもないのだが、”ありがとう” を連発してきたのだ。
雨のように ”ありがとう” を降らされて、俺は、妙な気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。
ちょっとしたことで ”ありがとう” を言ったり言われたりなんて日常茶飯事だけれど、さっきみたいに改めて、しかもまとめて告げられると、さらりと受け取ることが出来なくなる。
俺の性格的なものなのか、日本人にありがちな特性なのか……。
とにかく、俺はドリンクホルダーのオレンジジュースが視界に入るたびに、妙にこそばゆい感じがしていたのだ。
でも気持ち的にはなんだか晴れていて、今日はバイトも順調にいけそうな予感がしていた。
ところが、大通りから一方通行の抜け道に入ったところで、順調な予感はポキッと折られてしまうのだった。
宅配業者のトラックが、決して広くはない道を塞いでいたのだ。
「ったく、もうちょっと端に寄ってくれたら通れるのに…」
俺は苦々しく言って、クラクションを鳴らそうかとも思った。
けれど、荷台から降りてきた宅配業者の制服を着た男は、俺の車を見るなり、相当焦ったのだろう、抱えていた荷物を地面に落としてしまったのだ。
ドンッ――――
重たい音がして、慌てて男が段ボールを持ち上げるも、今度は底が抜けてバラバラと本やら帽子やらがアスファルトにこぼれ落ちていった。
「おいおい、大丈夫かよ…」
さすがに気の毒になって、俺は車から降りて拾うのを手伝うことにした。
「あ……、す、すみません」
男は俺と同年代に見えた。
額や首筋には、ものすごい汗だ。
そのせいか、ちょっとオドオドしていて、頼りなさそうにも見えてしまう。
まあ俺が無愛想で太々しいだけかもしれないけど。
「あ、車、ですよね。すみません、すぐにどけますから」
焦りが焦りを生むだけの男に、俺は「そんなのいいですよ」と返した。
そして、すぐにでもトラックを動かそうとした男を制した。
「それ、ここのマンションに配送するんですよね?だったら、先に配送してきてください。幸いここは俺の車以外来てないし。それくらい待ってますから。でも、なるべく早めにお願いしますね」
そこまで気温が高くもないのにこれだけ汗をかいてるんだから、かなり精神的に疲れているのかもしれない。
そんな人間をこれ以上焦らすのは、さすがに気が引けたのだ。
「す、すみません!ありがとうございます、急いで行ってきます」
言うなり、男は荷物を抱えなおして駆け足で行ってしまった。
けれどその走り方さえ、なんだかオドオドしてるように見えてしまう。
俺は思わず苦笑いをこぼしながら、自分の車に戻った。
「悪い人間じゃなさそうなんだけどな」
呟きながら、運転席におさまった俺は、ふと、ドリンクホルダーのオレンジジュースに目が止まった。
そして、祖母の言ってた話を思い出した。
「あー……、ばあちゃんも、その方が喜んでくれるよな?」
俺がオレンジジュースを手に取ったのと、男が配送先のマンションから飛び出てきたのは、ほとんど同じタイミングだった。
「ちょっと待ってください!」
俺は今にもトラックに乗り込もうとしていた男を呼び止めた。
「す、すみません、今すぐ動かしますから…」
「いやそうじゃなくて。……これ、よかったらどうぞ」
配送業者の男は、俺が差し出したオレンジジュースを不思議そうに見た。
「え……?」
「嫌いだったらすみません。でも、すごい汗だから」
「あ、これ、俺に、ですか?」
男は、オレンジジュースが自分に向けられたものだと、やっと理解したようだった。
「そうですよ。これ、うちの祖母がくれたんです。だから遠慮せずにもらってください」
「でも、そんな……」
遠慮しようとする男に、俺は祖母から聞いた話をかいつまんで伝えた。
「実は今日、祖母がある男の子から親切にしてもらったらしくて、そのお返しの代わりに、別の誰かに親切にしなくちゃいけないってルールなんだそうです。それで俺にこれをくれたんです。だから俺は、祖母からもらった親切をまた別の誰かに回さなくちゃいけない。それで、偶然会ったあなたに親切にすることにしました。このジュースはそのオマケです。どうぞ受け取ってください。でもその代わり、あなたはまた別の誰かに親切にしてくださいね」
早口で言った俺に、俺自身が驚いたかもしれない。無愛想な俺はどうしたんだと突っ込みたくもなるけれど、言われた男も驚いたようだった。
でも、次の瞬間には、パッと明かりが灯ったような表情が広がった。
「ありがとうございます。おかげで、ちょっと元気出ました」
「そうですか、それはよかった」
俺がそう言い終わったところで、俺の車の後ろに一台の乗用車が止まって、プップーとクラクションで呼ばれた。
「じゃあ、頑張ってください」
「ありがとうございます!」
そう言い合って、俺達は別れたのだった。
もしかしたら、もう二度と会うことはない人かもしれないけど、俺は、あのオドオドした彼が最後に見せた表情が、瞼に張り付いたのが分かった。
今日バイトから帰ったら、ばあちゃんに聞かせてやろう。
そう思いながら、バイトへの道を急いだのだった。




