それは誰かの願いごと
「みゆき―――っ、オレの冬服が入った段ボール見なかった?」
ある晴れた日曜日の午後、寝室から出てくるなり訊いてきた郁弥さんに、わたしは手をとめて振り向いた。
「衣服系は全部寝室に運んでもらったけど、なかった?」
「それが見当たらないんだ。すぐ着ない分はひとまずウォークインクローゼットの奥に入れておこうと思ったんだけど」
デニムに薄手のアーガイルニットを合わせている郁弥さんは、今日もモデルみたいにかっこいい。
こんな素敵な人がわたしの恋人だなんて、いまだに信じられないときがあるけれど、ちょっとでもそれを顔に出そうものなら容赦ない制裁が下されるので、わたしは魅力的な恋人に見惚れる、くらいでとどめておいた。
ちなみに容赦ない制裁とは、恋人の濃厚な時間に関することなので、今は割愛しておく。
「アウター、インナー関係なく、着替え類は全部寝室に入れたはずだよ?どこかに混ざっちゃってるのかな」
わたしは見渡す限りに広がっている段ボールの海を眺めながら言った。
そして、まさに今開封しようとしていた ”食器・調理器具” と書かれた段ボールをトン、と小さく叩いて立ち上がると、迷子になってる郁弥さんの冬服の行方を推理してみる。
「一番可能性がありそうなのは………寝具のところかな」
「寝具?和室の押し入れだっけ?」
「うん、そこになかったら、タオル関係に混ざって洗面所か、それとも全然違うところに持っていかれちゃったか……。わたしは運んだ覚えがないから、たぶん、業者さんが間違えちゃったのね」
わたしは、今朝の行動を呼び起こしながら答えていた。
今日は、わたしと郁弥さんの引っ越しだったのだ。
郁弥さんと気持ちが通じあってから数ヵ月、偶然二人のマンションの更新時期が重なったので、自然の流れで、同じ部屋に引っ越したらどうかということになった。
どことなく、数ヵ月前に聞いた白河さんと戸倉さんの件に似てるなとは思ったけれど、マンションの更新時期が重なったのは事実なので、郁弥さんは、戸倉さんみたいに色々企てたわけではなさそうだ。
……おそらく、たぶん。
「……寝具のとこには、なさそうだな」
リビングから続いている和室で段ボールを物色した郁弥さんが、どこに行ったんだ?と不思議声で言う。
「冬服って、何箱あったの?」
「数えたわけじゃないけど、今寝室にあるのは二箱だけなんだ。だから、あと何箱かはあるはずなんだけど」
「行方不明は一箱だけじゃないんだ……」
一箱ならうっかり迷子もありうるけれど、複数個となると、本格的な間違いかもしれない。
「みゆきにも心当たりがないなら、捜索は後回しにした方が賢明かな」
郁弥さんはぐるりと辺りを見回した。
困ったような言い方だけど、顔は笑っている。楽しそうに。
「……どうして笑ってるの?」
探し物が見つからないにもかかわらず、にこやかに笑っている郁弥さんに、わたしはストレートにぶつけた。
すると郁弥さんはさらに笑うのだ。たれ目の端に、細かい笑い皺が浮かぶ。それがちょっと色っぽい。
「だって、みゆきがいるから」
甘く言ってくる郁弥さんに、それまで凪いでいた心が、急に波打ちはじめた。
郁弥さんと付き合いはじめてから結構時間も経っているのに、いまだに、こういうセリフを落ち着いて受け取ることができない。
そろそろ慣れてもいいはずなのに。
頬を通って耳たぶまで熱くなったわたしは、ぷいっと顔を逸らし、ついでに話題も逸らした。
「なんか、のど渇いちゃった。お水もらっていい?」
誤魔化すようにキッチンに向かい、冷蔵庫を開くわたしを、郁弥さんは相変わらず笑ったまま眺めている。
一緒に住むにあたり、新しく大型に買い替えた冷蔵庫はシンプルなガラスパネルで、ホワイトにするかダーク系の色にするかで散々悩んだものだ。結局、二人で選んだのはホワイトだったけれど、正解だったなと満足しながら、両開きの右側を開いた。
ドアポケットに数本並んでいるミネラルウォーターを取ったところで、奥の中段にまとめて置かれている紙パックのオレンジジュースを見つけ、ふと、郁弥さんへのちょっとした意趣返しを思いつく。
「……ところで郁弥さん」
突然声色を変えたわたしに、郁弥さんは何?という仕草で歩み寄ってくる。
わたしはミネラルウォーターを持つ手と反対の手でオレンジジュースを握ると、冷蔵庫の扉をパタンと閉じた。
「郁弥さんの ”オレンジジュースのジンクス” だけど、あれって、きっかけはわたしだったんだ?」
「え…」
わたしから一、二歩離れたところで足を止めた郁弥さんは、少々戸惑った表情をしていた。
そのことに気をよくしたわたしは、さらに意趣返しを推進させる。
「わたしの真似をして、好きでもないオレンジジュースを買った…って、本当?」
するとそこで郁弥さんの顔つきがパッと変わる。
「………もしかして、蹴人くんか?」
思い当たるふしがあったのだろう、郁弥さんは微苦笑を浮かべて訊いてきた。
郁弥さんの推測は当たっていて、あの日、蹴人くんと最後に会ったとき、蹴人くんがナイショ話で教えてくれたのだ。
郁弥さんのお願いを聞きに会いに行った蹴人くんが、なんとなくオレンジジュースのことを尋ねた際、本人から直接教えられたのだという。
入社式の帰り、派手に転んで絆創膏を買いにコンビニに立ち寄ったわたしは、絆創膏だけを購入するのが恥ずかしくて、悔し紛れに適当に飲み物を一緒にレジに持っていったのだけど、それが、紙パックのオレンジジュースだったらしい。
そんなこと、当の本人であるわたしでさえ覚えていないのに、郁弥さんはあの日、わたしがオレンジジュースを買ったのもしっかり見ていて、きっちり記憶にとどめていたというわけだ。
「さあ?でも、自分は飲めないのに、わたしが買ってるのを見かけたからって真似して買っちゃうなんて、なんだか中学生の恋愛みたい。よっぽど、わたしのこと好きなんですね」
からかうように言うと、郁弥さんは開き直ったみたいに、「悪い?」と言ってのける。
「オレがみゆきにずっと片想いしてたのは、みゆきも知ってるじゃないか。片想い相手と同じものを欲しがるなんて、至極まっとうな感情だと思うけど?それにしても、今さらそんなこと訊いてくるなんて、オレがどれだけみゆきのことを好きか、みゆきはまだ分かってないんだ?」
意趣返しの意趣返しなのか、流水のように滑らかに反論を繰り出す郁弥さんは、後半は雰囲気を一変させてきた。囁くような、ひそめた声で。
この先の展開はおおよそ予測できるもので、その通りならば、このまま濃厚な………
いやいや、今はそれどころではないんだから!
恋人の甘い時間は、この段ボールの海を片付けたあとにしなくては。
「それよりも片付け!じゃなきゃ、今晩ゆっくり寝られないから!」
わたしはにわかに流されそうになりながらも、どうにか踏み堪えた。
けれど郁弥さんは少しも怯むことなく、
「片付けたところで、ゆっくり眠れるかは分からないと思うけど?同棲一日目なんだから」
なんとも含みを持たせた発言をして、あっけなくわたしを動揺させたのだった。
「そんなの知りません!」
わたしは負け惜しみのセリフを吐いて、ミネラルウォーターを手荒にガラスコップに注いだ。
乱暴にしたせいで、跳ね返った水滴がコップの周りに模様をつくる。
郁弥さんはそんなわたしをクスクス笑いで見ていたけれど、やおら腕を伸ばすと、こめかみに唇を当ててきた。
甘い言葉にはまだ慣れないけれど、こういったさり気ない愛情表現は、身構える隙もなく与えられるせいか、自然体で受け入れられた。
「楽しみにしてるよ。さて、オレも寝室の片付けに戻ろうかな。冬服の荷物が見つかったら教えてくれる?」
郁弥さんはそう言って、寝室に戻っていったのだった。
「もう……」
そしてわたしは、そんな郁弥さんを、クレーム調の呟きひとつしながら見送るのだ。
あの諏訪さんにクレームだなんて、片想いしていた頃のわたしなら、絶対に考えられないことだった。
郁弥さんと付き合いはじめてから、少しずつ、けれどたくさんの変化が起こっていた。
わたしの態度や言葉遣いもそうだし、甘い言葉以外の愛情表現に慣れてきたことも然りだ。
わたしはガラスコップの水をゴクゴク喉に流し入れながら、この数ヵ月で自分自身に訪れた変化について、不思議な感覚で思い返していた。
あれほど頑ななマイナス思考、ネガティブな性格、考えすぎる悪癖があったというのに、今は、わたしの中では彼らは脇役に降格してしまったようなのだ。
もちろん、そういったものがまったくなくなったわけではない。でも、いくら彼らが自己主張をしてきたとしても、「はいはい、また来たのね」と、適当に迎えて見送ることができるようになったのだ。
その原因のひとつは、きっと、郁弥さんの存在だろう。
考えすぎるのは悪いことじゃない―――――そう言ってくれる郁弥さんのそばにいると、なんだかそんな気にもなってきて、あれこれ考えて悩むことも、必ずしも欠点ではないのだと、自分の受け捉え方に変化があったのだ。
そしてもう一つ。蹴人くんとの出会いが、間違いなくわたしを変えた。
蹴人くんが教えてくれたプラマイ0の法則も、頬っぺたをつねるおまじないも、わたしに話してくれたたくさんの言葉も、それから、最後のナイショ話も………そのひとつひとつが、わたしの中に変化をもたらせてくれたのだから。
わたしは、半分ほどにまで減ってしまったコップの水を見ても、もう、頭を悩ませることはなかった。
「さ、わたしも片付け再開。……でも、郁弥さんの冬服を先に探した方がいいのかな。その方が郁弥さんの片付けはスムーズに進むわよね」
コップから周りに鎮座している段ボール箱達に目を移し、ひとり言をこぼしたわたしは、ふと、なぜだか分からないけれど、冷蔵庫とキッチンカウンターの間に重ねて置かれている段ボール箱の、下から二番目のものに目がとまった。
そして引き寄せられるように、その上に乗っていた箱をどけてみる。
すると、
「あった!」
その箱には、[冬服、寝室]と黒い太文字で書かれていたのだった。
「こんなとこに混ざってたなんて。これを見つけるのはちょっと難しいわよね……。でも、すぐに見つかってよかった」
誰に聞かせるでもなく、一人でそう言ったとき、例の、”いいことの後の悪いこと” が頭に浮かんできた。
探し物がすぐに見つかるなんて、”いいこと” 以外のなにものでもないもの。
―――――けれど、わたしはもうそんな不安に惑わされることはしない。
なぜなら、蹴人くんが最後にくれた言葉があるから。
『………あとそれからもう一個。お姉ちゃん、何かええことあっても後で悪いことあるんちゃうかって不安になるって言うてたけど、もしかしたらそれって、お姉ちゃんのために他の人が祈ったりお願いしてくれたおかげかもしれへんよ?ぼくのお母さんがお姉ちゃん達の幸せ願ったみたいに、全然知らん人が、お姉ちゃんのために願ってくれたのかもしれへん。せやから、お姉ちゃんに何かええことあっても、その代わりの悪いことは起こらへんよ!』
郁弥さんのオレンジジュースのジンクスについて教えてくれたあと、蹴人くんは、思い出したようにそう言ったのだ。
蹴人くんに ”いいことの後の悪いこと” について話したのは、出会ってすぐの頃だった気がするけれど、もしかしたら蹴人くんは、ずっとそのことを気にしてくれていたのかもしれない。
あんな小さな男の子なのに、本当に大人顔負けの、優しくて、なんでもお見通しの、不思議な子供だったな………
その出会いに感謝して、その思い出を大切に心にしまいながら、わたしは寝室で作業している郁弥さんに呼びかけた。
「郁弥さーん!冬服あったよ―――」
そのとき、ふと、ピチャン、と水の跳ねる音が聞こえた気がした。
ハッとして振り返ると、コップの中の水面が、やわらかな波を立てていた。
意識して見ると、その量が、ほんの少し増えているような気が、しないでもなかった。
「…………蹴人くん?」
こんな芸当ができるのは蹴人くんしかいない。
けれどその名を呼んでみても、返事はなくて。
「もしかして、蹴人くんが来てくれたのかな?」
あれ以来、一度も蹴人くんには会えていないけれど、もしかしたら、わたしに見えないだけで、蹴人くんは、今もわたし達を見守ってくれてるのかもしれない。
真実は分からないけれど、自分がそう思うなら、それでいいのだと思う。
だってそう思うことで、わたしはネガティブの鎧を外せるのだから。
人は、ちょっとした考え方ひとつで、プラスにもマイナスにも変わることができるのだ。
だからわたしは、もし、わたしと同じようにネガティブで考えすぎて、何かいいことがあってもその後に悪いことが起こるんじゃないかと不安になってしまう人に出会ったら、こう言ってあげようと心に決めている。
「それは、誰かの願いごとだったのかもしれませんよ」と。
それは誰かの願いごと(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




