最後のお願いと、約束(3)
「………郁弥さん?」
駆け出そうとして止めたわたしは、郁弥さんの声に、もしかして怒っているのかと不安になりながらそっと振り向いた。すると、そこには怒りの表情ではなく、困ったような、見ようによっては何かを堪えているような、なんとも言いがたい顔をした郁弥さんがいた。
「郁弥さん、どうして?どうして止めるんですか?早く知らせなきゃ、大路さんはもう蹴人くんと会えなくなっちゃうんですよ?」
郁弥さんの複雑な顔色に、わたしの今にも駆け出したい勢いは負けてしまったけれど、納得いかないものは納得いかない。
すると蹴人くんまでもが、「お姉ちゃん、行かんでええよ」と言ってきたのだ。
「なに言ってるの?蹴人くんいなくなっちゃうんでしょ?お母さんとお父さんに最後のサヨナラ伝えなくていいの?」
わたしの質問に、蹴人くんは薄く微笑んで首を振った。
「ええねん。これが最後ってわかったら、お父さんもお母さんも、きっとまた辛い気持ちになる。それやったら、これからも、目には見えへんけど近くにぼくがおるかもしれへん、そうやって曖昧にしといた方がええねん」
「そんな………」
蹴人くんの言いたいことは理解できる。でも、後になって、あのときが最後だっただなんて知ったら、いろんな後悔が爆発してしまうかもしれない。
それでも蹴人くんは、お母さんとお父さんに黙って行ってしまうつもりなの?
すると郁弥さんはわたしの背中にそっと触れて、
「蹴人くんがこう言うのなら、オレ達はそれに従おう。これは蹴人くんが考えた、蹴人くんなりの親孝行なんだから」
少しタレ目の、その瞳の中に静かな悲しみを宿しながら、諭すように言った。
わたしは郁弥さんのことは全面的に信頼しているけれど、それでも、はいそうですね、とは受け入れられなかった。
困惑しながら蹴人くんに視線を移すと、その小さな体は、さっきまでよりほんの少し色が白みがかっているように見えた。
「蹴人くん?!」
思わず叫んだわたしに、蹴人くんはにっこりと笑ってみせる。
「今日はええ天気やなあ―――――っ」
急に空を見上げて声を張り上げる蹴人くん。
う―――ん、と背伸びをしたかと思えば、パッと両腕をおろし、今度はわたしを見上げてきた。
「あんな、お母さんは今日みたいなお天気の日が大好きやねん。いっつも洗濯しながら歌ってる。お父さんも今日みたいな天気の日は、よく散歩に行ってるねん。まあ、それはおいといて、お姉ちゃんに、いっこお願いしてもいい?」
あっちこっちに飛び回る蹴人くんの話を微塵も聞き漏らすまいと、わたしはその目をじっと見つめていた。
「お願いって?」
「もしも、もしもな、お母さんとお父さんがそのうちお姉ちゃんにぼくのこと訊いてきたら、ぼくがいなくなったことは教えへんでええから、そのかわりに、伝えてほしいことがあるねん」
わたしは蹴人くんと視線の高さを合わせるように屈んだ。
もうここまでくれば、その ”お願い” を断ることの方が不自然だ。
「……わかった。なんて伝えればいい?」
わたしの返事に、蹴人くんは「ありがとう!」と破顔する。
けれどその笑顔は、さらに薄くなっている。
もう、あとどれくらいの時間が残っているのかは見当もつかなかった。
「あんな、お父さんとお母さんは、今日みたいな晴れた日が好きやねん。でもな、雨の日かって、ええところはあると思わへん?ずっと晴れでも、ずっと雨でもあかん。交代交代にくるからええねん。それでも、この日は晴れてほしい!って思う日もあるやろ?でな、もし、お母さんやお父さんが、晴れて欲しいなあ…って思った日にうまいこと晴れたら、それは、ぼくが、どこかで、お母さんとお父さんのためにそう願ったからかもしれへんよ、って伝えてほしい。天気だけちゃう。この先、お父さんとお母さんに起こる嬉しいこと、楽しいこと、良いことは、全部、ぼくがどこかで、お父さんとお母さんの幸せを願ったからかもしれへん。せやから、お父さんとお母さんが、毎日に起こるちょっとした良いことを見つけたら、ぼくのお願いがかなったんやな、って思ってほしい。ぼくはいつでも、どこにいても、たとえ姿が見えなくても、お父さんとお母さんの幸せを願ってるから………って、伝えてくれる?」
そうお願いしてきた蹴人くんは、今の晴れた青空のように、どこまでも晴れやかだった。
徐々に色味がなくなってきて、いつ消えてしまうかもしれないというのに、まるでこれから誕生日パーティーをはじめる子供のような、はちきれんばかりの幸せ顔をしているのだ。
わたしはそんな蹴人くんに辛くなって、そんな蹴人くんに何かをしてあげたくなって、その小さな体をおもいきり抱きしめた。
「蹴人くん!誕生日パーティーしよう!ね?いいでしょ?誕生日パーティー。蹴人くんのお誕生日って、いつかな?」
「へ?」
わたしの腕の中、またさらに透けてきた蹴人くんは、きょとんとした可愛らしい声をあげた。
「だから誕生日だよ。蹴人くんにも誕生日あるでしょ?今蹴人くんがいなくなって、もう会えなくなったとしても、誕生日はずっとなくならないもの。ね?誕生日パーティーしようよ」
抱きしめる力を弱め、なぜだか必死にそんな提案をした。
このままサヨナラなんて、あまりにも嫌だったから。
すると郁弥さんも、
「それいいね。そのときは水間さんと安立さんも誘って、四人で、蹴人くんのお父さんとお母さんに会いに行こう」
わたしの提案に乗ってくれた。
蹴人くんはわたしの真ん前、額と額がくっつくほどの距離で、その目をキラキラさせていた。
「誕生日パーティー、おもしろそう!ぼくの誕生日はぼくの命日やから、みんな悲しそうな顔してるねんもん。誕生日パーティーで楽しくしてた方がいいに決まってる」
「それじゃあ、約束ね」
わたしは指切りをしようと小指を立てた。
けれど、蹴人くんは指切りを知らなかったみたいで、「じゃあ、お礼に、お姉ちゃんにええこと教えてあげる」と言うと、こそっと、わたしの耳にナイショ話をしたのだった。
「……………え?」
突然触れてきた声にピクリと反応してしまったけれど、その内容は、意外なことで、でもわたしが驚くよりも先に、蹴人くんはスッと体を離してしまった。
そして、
「ん――――、めっちゃええ天気やな。雨なんかいっこも降りそうにないわ。ほら、お姉ちゃんとお兄ちゃんも空見てみて!気持ちいいから」
両手を空に突き上げて、目一杯の背伸びをした。
その光景は、蹴人くんの言葉通り、あまりにも気持ちよさそうで、わたしも郁弥さんも、蹴人くんに誘われるまま青空を振り仰いだ。
そのときだ、
お姉ちゃん、お兄ちゃん、ほんまに、ありがとう――――――――
蹴人くんの声が、周りのありとあらゆるものに反響し、リバーブの波となって聞こえてきたのだ。
「蹴人くん?!」
「蹴人くん!」
わたしと郁弥さんが咄嗟に蹴人くんがいた方を振り向いたけれど、時すでに遅しだった。
すぐそばにいたはずの蹴人くんは、姿形、影も気配も、なにもかもを消し去っていたのだった。
「そんな、蹴人くん………」
へなへなと力が抜けてその場に膝をついてしまうわたしを、郁弥さんも屈んで支えてくれる。
「みゆき……」
「……蹴人くん、行っちゃったの?」
蹴人くんが忽然と姿を消すのなんて、もう何度も経験しているのに、わたしは、本当に、もう二度と蹴人くんと会えなくなるのかと、自分でも信じられないほどの寂寥感に囚われた。
「……みゆき、蹴人くん、笑ってたよね?だから大丈夫だよ」
郁弥さんの優しい慰めに、それまで溜まっていたものが一気に溢れかえったのか、わたしは、左から、右から、また右から、次々に滴り落ちる涙を止めることができなかった。
蹴人くん…………
あの小さな男の子は、わたしに、たくさんの、本当にたくさんのものを残して、去っていったのだった。




