最後のお願いと、約束(2)
「分からないのかい?」
ケラケラと笑っている蹴人くんに、郁弥さんは怖いほど冷静に確認した。
蹴人くんは笑ったまま、「うん。わからん。でもほら……」と言って、わたし達に向かって両手のひらを広げて見せてきた。
わたしと郁弥さんは腰を曲げて小さな蹴人くんに近寄ってみたものの、その手のひらには、なんらおかしなところは見受けられない。
「……手に、なにかあるの?」
蹴人くんの意図が読めず、そう尋ねるしかできないわたしに反して、郁弥さんは何か気付いたように「爪……」と呟いた。
「爪、ですか?」
郁弥さんの呟きに敏感に反応したわたしは、蹴人くんの小さな爪に注目した。
すると、パッと見では分からなかったけれど、指と指の間をしっかり開いた可愛らしい手のひらは血色がよく、やわらかに赤みが広がっているのに、その指先の爪は、それこそアイスクリームが溶けるように、輪郭が薄くなり、空中に溶けかかっているようだった。
「―――――っ!」
わたしが驚いた顔をすると、蹴人くんはパパッと手のひらを下げてしまう。
「な?ちゃんと見えた?ぼく、アイスクリームみたいになってるやろ?」
笑い顔を維持したまま、なんなら嬉しそうに、蹴人くんは体をスイングさせながら言った。
「たぶんな、たぶんやけど……、ぼくがお母さんのお腹から出てくるとき、お母さんの心の中で思ってることが聞こえてきて、それが、お姉ちゃんやお兄ちゃん達のことやってん。『こんなことになって、この子のために親切にしてくれた人達にも申し訳ない。できることなら、席を譲ってくれたあの男の人にお礼を言いたかったのに………』って思ってるお母さんの声が聞こえてきたから、ぼく、その ”お願い” をかなえてあげたいなぁ……て思いながら、お母さんのお腹から出てきてん。せやから、ぼくのこと、お姉ちゃん達には見えたし、話しもできたんやと思うねん。ほんで、あのときのお礼ができたから、ぼくは、もうここにおる理由がなくなったんやと思う」
ここに来て、またもや初めての情報を披露してくる蹴人くん。
その推測は、それ以外に正解がないような、どこもかしこもが納得できるものだった。
「じゃあ蹴人くんは、わたし達四人の願いごとを叶えたからもういなくなっちゃうの?」
心が口から飛び出しそうなほどの焦りと動揺で、わたしは、到底子供相手ではない口調で問いただしていた。
でも頭の隅では、蹴人くんの返事をもらうまでもなく、蹴人くんとのさよならが近付いていることを予感していた。
だってこれまでも、蹴人くんの言ったことは間違いがなかったから。
さっきは静かに蹴人くんに推論を投げかけた郁弥さんも、わたしの問いかけが正答だと感じたのか、顔色は平常を保ててはいなかった。
「蹴人くん、それはいつ頃になるか分かるかい?」
崩れはじめた顔色を取り繕うように、セリフはごくごく普通の温度である郁弥さん。
社内で女性社員相手にクールを装っていた彼は、内心を誤魔化すのも慣れているのだろうか。
蹴人くんは自分の指先を空にかざしながら、「うーんとな………」と考えを巡らせた。
「………たぶんやけど、もうすぐ違うかなぁ」
「え?!もうすぐ?!」
「もう時間はないのかい?」
「うん。たぶんな。なんかようわからんけど、さっきお母さんとお父さんに会ってから、また軽くなってる感じやもん」
そんなことを感じてたにもかかわらず、まだ楽しそうに笑い続けている蹴人くんに、わたしは、どうしようもない切ない気持ちに体全部を締め上げられるようだった。
「そんな………。わたし、蹴人くんのお母さんと約束したんだよ?またいつでも蹴人くんの通訳しますって。それなのに、蹴人くんは…………」
その感情を蹴人くんにぶつけるのは間違っている。そう分かっているのに、わたしは、誰よりも切ない立場にいるはずの蹴人くんに、吐露して訴えずにはいられない。
だって、まさかもう蹴人くんと会えないだなんて。
そうと知っていれば、大路さんやご主人にももっと違う…………
そう考えたわたしはハッとし、くるりと踵を返した。
「みゆき?」
「お姉ちゃん、どこ行くん?」
「大路さんにこのこと伝えなきゃ!だってもう蹴人くんと会えなくなるかもしれないんでしょ?」
二人がどうして平気な顔してられるのか分からない。
これが最後だと知っていれば、最後に相応しい会話だってあるはずだ。
なのにこのまま黙って蹴人くんとお別れなんて、まるで大路さんとご主人を騙したみたいだもの。
わたしはすぐに全力で駆け出そうとしたが、
「みゆき、その必要はないよ」
郁弥さんの研ぎ澄まされた制止に、ビクリと体が硬直してしまったのだった。




