最後のお願いと、約束
その後、夕食も一緒にと誘ってくれた二人だったけれど、蹴人くんが「これからお天気がめっちゃ悪くなってきそうな気がするから、お姉ちゃんとお兄ちゃん、早よ帰った方がええよ」と言うので、わたし達は食事はまたの機会にして、夕方の時間帯になる前には、おいとますることにしたのだった。
「蹴人はお天気も分かるのね」
感心して、どこにいるのか見えない蹴人くんに声をかけた大路さん。
でもその時にはもう、蹴人くんは「じゃ、ぼく行きたいとこあるから、雨降る前に先に行くわ」と言い残し、お得意の突然消えるという技を披露した後だった。
「あの、蹴人くん、もうどこかに行っちゃったみたいです……」
わたしが申し訳なさそうに伝えると、ご主人が素朴な疑問を投げかけた。
「蹴人は、自分はずっとここにいるわけではないと言っていましたが、ここにいない時はどこに行ってるんでしょうか?」
「それは……」
わたしは答えに詰まる。
だって、いくら蹴人くんのことが見えて、声が聞こえたとしても、根本的なことは何一つ知らないのだから。
蹴人くん本人にさえ、分かっていないのだろうし。
すると大路さんがおかしそうに笑いながら言った。
「きっとお祖母ちゃんの家とか、自分の行きたいところに行ってるんじゃないかしら。だって、みゆきさんと諏訪さんにいろいろ聞いて思ったんだけど、あの子、ものすごく好奇心旺盛な子供じゃない?私はそんな風に感じたの。だから、きっと蹴人、雨が降る前にどこか興味のあるとこに遊びに行っちゃったのね」
「でも今日は降水確率0パーセントやったんちゃう?」
「あれ?そうやった?」
二人の関西弁が、なんだかほんわかとして、いいなと思った。
わたしはまだ郁弥さんに対して敬語が抜けないけれど、いつか、この二人のようにあたたかな雰囲気をまとう関係になれたらいいな……
そんなことを願いながら、わたし達は大路さんご夫婦、そして蹴人くんの家を、退出したのだった。
※※※※※
「こんなに晴れてるのに、雨なんか降るんですね。蹴人くんに教えてもらってなかったら、全然予想もできませんよね」
パーキングに戻る途中、わたしは、雲一つない快晴の空を見上げながら郁弥さんに話しかけた。
てっきり郁弥さんからは同意の返事があるかと思いきや、
「………雨は、降らないんじゃないかな」
ぽそりと、郁弥さんは意外なことを告げたのだ。
「え?でも蹴人くんが……」
そう言ってましたよ?というセリフは、風のように舞い降りてきた蹴人くん本人の声に掻き消されてしまった。
「さすがやなぁ、お兄ちゃん」
「――――え?………蹴人くん?」
わたしの真横に、いつの間にか蹴人くんがちょこんと立っていたのだ。
「やっぱりお兄ちゃんは騙せへんかったか」
その表情には、苦々しい笑みが乗りかぶさっている。
郁弥さんは蹴人くんが現れることをいくらか予測していたようで、驚いた様子はなかった。
蹴人くんの神出鬼没に慣れていたわたしでも、今の登場にはびっくりしてしまったけれど、それよりも驚いたのは、郁弥さんの次のセリフだった。
「蹴人くん、もしかしてきみは、もうすぐオレ達とは会えなくなるんじゃないのかい?」
郁弥さんの質問に、蹴人くんは大きくて深いため息を吐いた。
「郁弥さん?それ、どういう意味ですか?」
「………さっき、蹴人くんが、『何を話すのか忘れた』と言葉を濁したことがあっただろ?それまでそんなこと一度もなかったから違和感を覚えたんだ。だから、もしかしたら、何か蹴人くんの気持ち的に引っ掛かることがあって、それで言葉を濁さざるをえなかったのかもしれないと考えた。蹴人くんの気持ち的なこと、それが何かを想像していったら、」
「ぼく、たぶん、もうすぐおらんようになるねん」
郁弥さんが言い終わらないうちに、蹴人くんが断言した。
「おらんように……って、いなくなる、ってこと?」
関西弁の微妙なニュアンスがあるので、受け取り方を間違えてる可能性だってある。
わたしは念には念をの思いで確認した。
頭の片隅では、”そうじゃないよ” と笑い飛ばされるのを期待しながら。
けれど、蹴人くんはコクン、と頷いたのだ。
「どうして?どうしてそんなことが分かるの?蹴人くん、さっきお父さんとお母さんに『わからない』って言ってたじゃない」
責めるつもりはなかったけれど、追い立てるように訊いてしまう。
それほど、寝耳に水だったのだ。
そしてそんなわたしに、蹴人くんは至って穏やかに答えた。
「それは、お父さんとお母さんをがっかりさせへんためや」
「あ………」
簡潔な返事の中に、蹴人くんのすべての想いが込められているようで、わたしは即座に納得するしかなかった。
けれど、なぜ蹴人くんは自分がもうすぐいなくなりそうだと感じるのか、その理由が知りたい。
わたし達には気付かない変化が、蹴人くんには起こっているのだろうか?
「うん、そうやねん」
蹴人くんは、またしてもわたしの心を読んで、先回りして答えてくれた。
「……蹴人くん、またわたしの心の中を見たのね?」
わたしがほんのりと睨んでみせると、蹴人くんは「へへへ」と笑って誤魔化した。
「お姉さんは今心の中で何て言ったんだい?」
郁弥さんはわたしではなく、蹴人くんに尋ねた。
「お姉ちゃん達には気付かへん変化が、今ぼくに起こってるんかな?って言ってた」
「そうか………。それで、蹴人くん、本当に、今きみの中で、何か変化が起こっているのかい?」
郁弥さんがゆっくり、丁寧に問いかけると、蹴人くんは、大きく頭を上下に揺らしたのだった。
「変化って、どんな変化があるの?」
急いたわたしは、二人の1.5倍ほどのスピードで訊いた。
なのにマイペースな蹴人くんは気楽な感じで、
「んーと……」
と、考えを空中に預けるように、たっぷりと間を取った。
そして、
「なんかな、四人の中で最後のお姉ちゃんのお願いをかなえてから、ちょっとずつ、体が軽くなってきてるねん」
自分でもそんなに自信はないような、頼りない温度で告げた。
「体が軽くなってると感じるのかい?」
「うん。なんていうか、あ、ほら、アイスクリームが溶けてなくなる感じ。ぼく、お母さんが出してくれるバニラのアイスクリーム、大好きやねん!せやからそれをずっと見てたんやけど、あれって、ぼくが食べへんでもいつの間にかなくなってるやろ?お母さんがよく『アイスクリームが溶けちゃったわ』って言ってるから、溶けるっていうのは、なくなるってことやろ?」
ちょっと違うけれど、わたしも郁弥さんも細かな指摘はこの際どうでもよかった。
「………じゃあ、アイスみたいに蹴人くんが溶けちゃったら、蹴人くんはそのあとどこに行っちゃうの?」
その答えを知りたいという気持ちと、それに対する恐怖みたいな感情が、わたしの心を完全に支配していた。
郁弥さんも息をつめて蹴人くんの回答を待っているようだった。
「それはな………」
「それは……?」
「それは………………、わっからんわ!」
じゅうぶんに勿体ぶってから、蹴人くんは風船が弾けるようにパッと答えたのだった。




