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小さな男の子の伝言(9)






それからは、大路さんとご主人の質問タイムが続いた。

生まれたときは手のひらに乗るほど小さかった蹴人くん。もちろん、大路さんご夫婦は、蹴人くんが目を開いたところも見られなかったわけで、その蹴人くんが、今、どんな顔をしているのかが気になっていたらしい。

笑った顔はお父さんに、話し方や雰囲気はお母さんに似てると答えると、ふたりともとても嬉しそうだった。


大路さんは、蹴人くんの声はどんな感じかとも訊いた。

子供らしい高くて弾んだ声だと言ったわたしに、郁弥さんは具体的なアニメのキャラクターを出して答えた。

言われてみれば、確かにちょっと似てるかもしれない。

郁弥さんがそんなアニメをよく知っていたなと驚く反面、営業の仕事柄、流行はチェックしているのだろうと、こっそり感心していた。


蹴人くんもときどき会話に参加してきて、お祖母ちゃんやお祖父ちゃんのこと、おもちゃのこと、お供えのお菓子のこと、お母さんの鼻歌や独り言を聞いたこと、頬っぺをつねるジンクスを見かけたこと、お父さんが入れ物に入った蹴人くんと一緒に時々散歩してること、いろんなことをおしゃべりしてくれた。



そしてその中で、大路さんが通っていたクリニックが、わたし達の会社と同じビルの中にあることを知ったのだった。


大路さんは蹴人くんとお別れしたあと、今度はご自身の病気治療にあたり、その際、少しの間意識不明になったことがあるらしい。病院で聞かせてくれた実体験は、その時のものだったのだ。

そして、その治療の結果、大路さんは日常生活を取り戻せたものの、もう、子供を産むことができなくなってしまったのだという―――――それは残酷すぎる話で、わたしは、いや、わたしだけじゃなく郁弥さんも、相槌すら口にできない状態になった。


ところが当の大路さんは「いやだ、そのことはもう大丈夫よ」と、乾いたテンションを見せてくれたのだった。


「もちろん子供は欲しかったけど、私が死んじゃったら、この人、ひとりぼっちになっちゃうもの。それが回避できただけでも良しとしなきゃ。それに、わたし達には、蹴人っていう息子もいるもの」


大路さんは力強く言った。


望んでいるのに子供を産めなくなるというのは、わたしなんかが想像もできないほどの辛さだったのだろうけど、本人が『もう大丈夫』と言ってるのに、こちらが過剰に沈んだ雰囲気になるのは失礼だと思う。

わたしは、ぎこちない表情で微笑んでみせた。


けれど現実問題として、大路さんはご自身の治療後、クリニックに残してあった受精卵の行方を、医師と相談しなければならなかったそうだ。

そして相談のため何度か通院していたときに、蹴人くんも一緒について来てたのだった。

蹴人くんからそれを教えられたわたしは、


「それであの朝駅にいたり、会社に現れたりしたんだ?」


謎が解けたとばかりに、大きな声を出してしまった。

すると郁弥さんの通訳を聞き終えた大路さんが、懐かしそうに目を細めた。


「……そうだったのね。蹴人も、そばにいてくれてたのね。……そのとき先生から言われたことは、よく覚えてるわ」


言いながら、大路さんは、入れ物に入った蹴人くんを見つめた。


「あの、……何て言われたんですか?」


いつもならこんなとき、絶対にしゃしゃり出るタイプではないのだけど、なぜだか今日は、考えて躊躇うよりも先にそう訊いていた。

大路さんは気を悪くした様子もなく、くるりとこちらに振り返った。


「とてもいい先生でね、私が産めなくても他の方法を考えてくださったりしたの。でもどうしてもそこまでの気持ちになれなくて、だからと言って、受精卵も私にとっては大切な命で、簡単に処分なんかできるわけもなくて、そんなこと考えたらそのとき急に、ああ、私はもう子供を産むことはできないんだな……て実感しちゃって、つい、先生の前で泣いちゃったの。そうしたら―――――


――――僕は長い間不妊治療に携わっているけど、中には、何年も治療してやっとの思いで授かった子供なのに、育児に悩んでノイローゼになって、不妊治療なんかしなければよかったと後悔を口にする人もいる。中には、子育てのことで夫婦の間に溝ができてしまって離婚に至ったケースもある。でも中には、子供が授からないまま治療を卒業して、その後の人生を二人で謳歌してる夫婦もいる。養子を迎えたりペットを飼ったりして賑やかに楽しく暮らしてる家族もいる。つまり、今、あなたの ”妊娠して子供を産む” という願いは叶わなかったけれど、今、その願いが叶ってたとしても、その先の未来に必ず幸せがあるとは限らない。今は辛いけれど、この先、今の辛さがなかったら叶わない願いごとが出てくるかもしれない。もちろんノイローゼになった人も、離婚した人も、その先にはまた別の幸せが待ってるかもしれない。これはなにも不妊治療についてだけじゃないんだよ?若い人で言えば ”受験”や”就職”。あなたに近い年齢で言えば ”結婚”や”妊娠”、”家のこと” ”経済的なこと”、もっと歳を重ねれば、”健康のこと””老後のこと”。いつまでも人は願いが叶ったり、叶わなかったりだ。その度に人は傷付き、悔しい思いをしたり悲しむね。そしてその悲しみの辛さは、その人にしか分からないものだ。だから、僕が今どんなに美しい言葉であなたを慰めても労わっても、あなたの心が癒されるわけではないと思う。ただ、僕が今言えることは、僕は、あなたとあなたのご家族の幸せを、心から祈ってます―――――――


そんな風なことを言われたのよ」



素敵でしょ?


大路さんはそう自慢するように教えてくれた。



「……いい先生ですね」


「本当に、患者さんのことを思ってらっしゃる先生だったんですね」


わたしと郁弥さんは思ったままに返していた。

ところが、大路さんはフフッと笑い息を吐くと、


「素敵な先生であることに間違いはないんだけど、でも先生の言葉通り、私の心が先生の言葉で癒されたわけじゃないのよ?」


いたずらっぽく言った。


「そう……ですか」


わたしは詰まりながら相槌を返した。


子供を失うという辛さは、ちょっとやそっとでは癒されるはずない。

それは強く思うけれど、でも、この先も生きていく大路さんが、その辛さからずっと立ち直れずにいるのは、悲しすぎる。


そう感じたわたしは、無意識に沈んだ顔になっていたのだろう、大路さんが急いで手を振ってきた。


「ごめんなさい、そういう意味じゃないのよ。言ったでしょ?私はもう大丈夫。私、分かったの。蹴人を失った悲しみを癒すことなんて絶対にできっこないんだって。一時的に立ち直っても、しばらくしてテレビで赤ちゃんを見たりしたらまた悲しくなっちゃうし、道に転がってるサッカーボールを見かけただけですぐ蹴人を連想しちゃうんだもの。もうこの痛みからは一生逃れられないんだなって悟ったの。そうしたら、もう、この悲しみとうまく付き合っていくしかないんだな……ってね」


「悲しみと、うまく付き合う………」


「そうよ?どうせ悲しい気持ちが消えてくれないなら、慣れていくしかないのよ。これって、さっき蹴人が話してくれた、『悲しみと仲良くできる』ってことかもしれないわね。……なんてかっこいいこと言っちゃったけど、本当は慣れるどころか、さっき蹴人に言われるまで、自分は蹴人の命を奪った張本人なんだから簡単に悲しむべきじゃない、泣いちゃいけない……なんてうじうじ言ってたんだけどね。結局私ってば、全然悲しみとうまく付き合えてなかったわけよね」



大阪出身のせいだろうか、大路さんは、自分の話にオチみたいな自虐を置いていく。

それが場の雰囲気を良くしてくれるのだけど、その裏には深い傷があるのではと、悲しい想像をしてしまう。

けれど、そんなわたしの心配は杞憂だと跳ね除けるように、大路さんはきっぱりと告げた。


「それでも、この悲しみとうまく付き合っていかなくちゃいけないのは、事実だもの。幸せになるとかの前に、悲しみとのうまい付き合い方を身に付けなくちゃと思いながら、この数年は泣くのを我慢してきたの。でも……」


大路さんはふわりと、淡く笑みを見せて。


「でもこれからは、泣きたかったら泣いて、そのあとでまた笑うようにするわ。そうしたら、もっとうまく付き合えるのかもしれない。蹴人は、そう教えてくれたのね」



すると、それまでおとなしく聞いていた蹴人くんが大路さんとご主人を交互に見上げて、


「ぼくは、笑ってるお母さんとお父さんが好きや。でも、泣いててもうじうじ言ってても、大好きなお父さんとお母さんには違わへん。ネガちゃんなお母さんもポジちゃんなお母さんも、ほっぺたつねってるお母さんも、ぼくを落としそうになるお父さんも、ぼくとサッカーしたかったなって落ち込むお父さんも、ぜんぶぜんぶ大好きや!だからぼくも、病院の先生に負けへんほど、お父さんとお母さんの幸せを、いっぱい、めちゃくちゃいっぱい、これでもかって言うくらいい―――っぱい、祈ってるからな…………」




最後に凛々しく、そう告げたのだった。









二話同時更新いたしました。

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