小さな男の子の伝言(5)
数秒、完全に大路さんを取り巻く時間は止まっていたように見えた。
けれどそのあと、思わずわたしがビクッとしてしまうほどの、大きな息つぎが聞こえたと思ったら、続けざまに震える嗚咽が聞こえてきたのだった。
「……っ、ふ………っ、っ……くっ……」
それは、声にもならない、文字にも示せない感情が溢れかえったむせび泣きだった。
俯いたまま激しく肩を上下に揺らしている大路さんに、ご主人は立ち上がってそばに寄り、片腕で抱えるようにして支えた。
わたしはよかれと思って蹴人くんの言葉そのままを伝えたのだけれど、それがかえって大路さんの心を乱してしまったのかと、不安に思えてきた。
するとその戸惑いを察してくれたのか、郁弥さんがわたしの腕をトントンとつつき、”大丈夫だから、気にするな” という表情をくれた。
そのおかげで、また悪癖が出てくるのは、どうにか阻止することができた。
蹴人くんは大路さんの正面で、じっとその姿を目に焼き付けるように見つめている。
わたしには背を向けるかたちなので、その顔色まではハッキリと分からない。
でもしばらくして、ふとこちらに振り返った。
「お姉ちゃん、またお母さんとお父さんに伝えてくれる?」
そう言ってきた蹴人くんにも、少しだけ涙の残像が浮かんでいるような気がした。
わたしもうっかり大路さんの泣き声に引きずられそうにもなったけれど、通訳もしくはメッセンジャーであるわたしまでが感情にのまれてはいけないと、自分を窘めながら、蹴人くんに頷いた。
「あの……蹴人くんが、まだお話があるそうです」
わたしの呼びかけに、大路さんの泣き声はピタリと収まった。
やがて鼻をすする音が数回して、ご主人がティッシュを渡すと、かろうじて冷静の欠片を取り戻した大路さんがこちらに顔を上げた。
「ごめんなさい、蹴人の優しい言葉を聞いたら、つい………」
恥ずかしそうに言う大路さんに、わたしは大きく首を振った。
「いえ……」
「蹴人も、ごめんね。でも、お母さん今いっぱい泣いたから、いっぱい蹴人に『大好き』って言ったのと同じなのよね?」
大路さんは自分の膝の上辺りに視線を定めて言う。
そこには蹴人くんがいて、見えていないはずなのに、お互いに見つめ合ってるような感じがした。
蹴人くんは、えへへ、と子供らしい笑い顔を見せていた。
それから、
「お母さん、お父さん、今、ぼくが見えてる?」
ふいに口にした蹴人くん。
わたしはすぐに二人に伝えた。
「『お母さん、お父さん、今ぼくが見えてる?』」
二人は同時に首を振る。
「ごめんなさい、見えてないのよ」
「お父さんもだ」
蹴人くんはその答えには特に期待もしていなかったようで、「そうやんな」と軽く流した。
「じゃあ、今、ぼくがお父さんとお母さんの目の前におるっていうのは、信じる?」
「『じゃあ、ぼくが今お父さんとお母さんの目の前におるのは、信じる?』」
今度も二人は即答した。
「もちろんよ」
「ああ、最初は信じられなかったけど、今はお父さんも信じてるよ」
二人の肯定に、蹴人くんは嬉しそうに体を揺らした。
「じゃあ、お父さんもお母さんも、目には見えてへんものの存在を認めてるねんな?」
「『じゃあお父さんとお母さんは、目に見えてへんものの存在を認めてるねんな?』」
またもや二人同時に頷いた。
蹴人くんは満足そうに続けた。
「あんな、この世の中には、目に見えてへんけど、ちゃんとそこに存在してるものがいっぱいあるねん。”幸せ” とか、”運命” とか、”好き”って気持ちとか。お母さんが我慢してた ”悲しい”って気持ちも、ちゃんと存在してるねん。ほんで、そういうのは、目に見えへんからって、カタチがないわけちゃうねんで?優しく扱ってあげなあかん。見えへんからって無視したり見逃したりしてたら、知らん間に踏んづけて壊してしもたりするねん。せやけど、ちゃんとそこにおるって分かってたら、きっと仲良うできるんや」
わたしは一文章ごとに、蹴人くんの話し方を違えず、大路さんとご主人に伝えた。
まるで同時通訳のように。
聞き終わると、大路さんは涙が乾ききってない瞳で微笑みながら「そうだね……」と言った。
蹴人くんは、お母さんの微笑みにニコッと返した。
それからしばらくして、ご主人は、落ち着いてきた大路さんに安心して余裕が出てきたのだろう、自分から蹴人くんに話しかけたのだった。
「ところで、蹴人はこれからも、姿は見えないけれどお父さん達の近くにいてくれるのかい?」
すると、今の今まで上機嫌だった蹴人くんが、その一言に、態度がありありと沈んでいった。
二話同時更新しております。




