小さな男の子の伝言(3)
「私とこの人が結婚してから、子作りは自然にまかせてたの。子供がいたらいいな、とは思ってたんだけど、周りにはお子さんのいらっしゃらないご夫婦も多くて、あまり焦りとかはなかったわ。でも、数年経ってもその気配がなかったから、ちょっとずつ気にはなっていったの。で、二人で相談して、一応チェックだけはしてもらおうか、ってことになったの。でもその時点でも、『もしどちらかに原因が見つかったとしたら、夫婦二人で楽しく暮らそう』って言い合ってたくらい、楽観的だったのよ。検査の結果は、どちらにも異常なしだったわ。でも逆に、じゃあどうして授からないんだって、今度は変に悩みだしちゃったの」
大路さんの話に、わたしは以前どこかで読んだ記事を思い出した。
子供を授からずに相談に行った結果、身体的には何も問題ない人が意外と多いのだと。
けれど問題がないというのは、どうアプローチしたらいいのかがクリアにならず、かえって相談者を悩ませることもあるのだという。
大路さんご夫婦は、まさにこれに当てはまってしまったのだろう。
「でもね、検査してくださったクリニックの先生が前向きなアドバイスをくださって、しばらくしてから、不妊治療を開始したの。ああもちろん、夫婦二人で話し合って決めたのよ?はじめは不安も大きかったんだけど、そこで坂井さんと知り合って、お互いに励まし合って、二年半…三年くらいした頃かしら、やっと、蹴人を授かったの」
自分の名前を呼ばれた反応か、蹴人くんはお母さんにニコッと笑いかけた。
「蹴人くん、お母さんに笑いかけてます」
郁弥さんが伝えると、大路さんとご主人は蹴人くんがいる辺りに向いて、表情を和らげた。
「……高齢妊娠だったから、流産の恐れが常に付きまとっていたけど、順調に安定期を迎えられたの。でもその頃には、坂井さんとの連絡は途絶えがちになっていたわ。一足先に蹴人を授かったことで、坂井さんとの接し方に戸惑いが生まれていたのね。あ、坂井さんはものすごく喜んでくれたのよ?温かくしてねって、ニットソックスをプレゼントしてくれたり、本当に、一緒に喜んでくれたの。でも、私の方が気にしちゃったのねぇ……。私が実家に戻ってからは、疎遠になっちゃった。それで、その後のことね、蹴人に病気が見つかったのは。通ってた病院でお腹の赤ちゃんに気になる点が見つかったと言われて、大阪の専門の病院で診てもらったの。その結果………」
蹴人くんは、お母さんに笑いかけていた顔を、そっと俯かせた。
きっと、その先のセリフがわかっているのだろう。
「………蹴人に、病気が見つかったの。念のため、その専門の病院でもっと詳しく調べてもらったんだけど、やっぱり間違いなくて………。『この状況で、お腹の中で元気に足を蹴ってるのは、かなり珍しいケースです』……だったかしら、検査してくださった先生にそう言われたわ。そして、『残念ながら、出産まで辿り着ける可能性は極めて低い、ほぼ不可能だと思います』とも言われたの」
「そんな……」
絶望への入口に、わたしは足がすくんでしまう。
下を向いてる蹴人くんの表情は見えないけれど、となりのお父さん…大路さんのご主人は、グッと体に力をこめているようだった。
もしも郁弥さんが一緒にいなければ、わたしはその先を聞くことから逃げ出していたかもしれない。
郁弥さんは、そっと、触れるか触れないかの感じで寄り添ってくれていた。
大路さんの声は、淡々としているようで、でも、少しずつ弱々しくなっていくようで、だから余計に、わたしは、しっかり聞かなくてはいけないのだと、気持ちを立て直した。
「周りは、諦めるようにわたしを説得したわ。でも、わたしはどうしても決断できなかった。そうこうしてるうちに、今度はわたしに病気が見つかったの。妊娠を継続させながら治療する方法もなかったわけじゃないけど、それは健康な赤ちゃんの場合で……。……蹴人の場合は、わたしの治療にも影響がでてくると言われたの。要するに、わたしの治療か、蹴人の命かを、選択しなくちゃいけなかったのよ」
「べつにお母さんが決めへんでも、どっちにしてもぼくは元気に生まれてこられへんかったのに」
大路さんのセリフに被るようにして、蹴人くんが呟く。
わたしと郁弥さんにしか聞こえてなかったけれど、二人して蹴人くんに目を向けたものだから、大路さんとご主人にも、蹴人くんが何かを言ったのだということは感付かれたようだった。
「もしかして、今、蹴人が何か言った?」
大路さんの鋭い問いに、わたしは蹴人くんを見つめて彼の意見を求めた。
すると蹴人くんはまたお母さんを見上げて、さっきの呟きと同じこと口にした。
今度は、自分の母親に伝えるように、しっかりと。
「お母さんが自分かぼくかを選んでも、選ばへんかっても、どっちにしても、ぼくは、元気に生まれてこられへんかったんやで?せやから、お母さんがそんな風に悲しむことないねん。ぼくの病気は、お母さんやお父さんのせいちゃうねんからな」
わたしはすぐに、蹴人くんの言ったことをそのまま大路さんに伝えた。
大路さんは困ったように眉を動かして、蹴人くんがいる辺りに視線を投げた。
「そうね……。蹴人の言う通りなのかもしれないわね。蹴人の病気は深刻だったから、もしかしたら私が決断しなくても、次の日には最悪の事態になっていたかもしれない。……でも、結局、私は、自分の息子ではなく、自分の命をとったのよ」
「お前だけじゃないだろ。俺はもちろん、親も、病院の先生だってそれを強くすすめただろ?」
「でも最終的に決めたのはわたしよ?」
「お前一人で決めたわけじゃない」
「違う。誰が決めたんでもない。ぼくはそういう運命やったんや。どうせほっといても、ぼくは生まれてはこられへんかってんから」
大路さん夫婦の間に、蹴人くんが割って入る。
自分の身に起こった悲劇を ”運命” と簡単に言いまとめる蹴人くんは、やっぱり幼い子供には思えない。
他人事なのに、わたしはどうしようもないほどに辛かった。
そしてわたしと郁弥さんの様子を見逃さなかった大路さんは、ご主人への反論をぴたりと止めた。
「……蹴人は、なんて?」
「その…………お二人の言ってることに対して、『違う』と……。誰が決めたわけでもなくて、自分はそういう運命だったのだと。『どうせほっておいても、ぼくは生まれてこられへんかった』と言ってます」
わたしの通訳に、大路さんもご主人も、互いに投げ合ってた言葉を飲み込んだようだった。




