小さな男の子のこと(6)
「電車の中よ。蹴人がお腹の中にいたとき、電車の中で、諏訪さんに席を譲ってもらったことがあるの。マタニティマークを付けてたら時々そういう機会もあったんだけど、諏訪さんがびっくりするくらいイケメンさんだったし、あの時は諏訪さん以外にも何人もの人がいっぺんに席を譲ってくれたから、すごく印象に残ってるのよ」
大路さんのその説明に、わたしの記憶のページは一気に遡っていった。
やがて、郁弥さんへの想いの出発点まで戻ったところで――――――
「ああっ!」
その出来事を、思い出したのだ。
わたしが、郁弥さんに、恋をした瞬間のことを。
妊婦さんに席を譲るという、ささいな行動でさえ、いろいろ考えすぎてしまうせいで躊躇いがちだったわたしの前で、颯爽と、ごくごくさり気なく、まるで呼吸するかのように自然にやってのけた郁弥さん。
そんな郁弥さんに憧れを抱いて、目が合ったその瞬間、恋心が芽吹いていた。
つまり、あのときの妊婦さんが、大路さんだった………?
あまりの偶然に、わたしは郁弥さんの手を取って握り締めていた。
見上げると、郁弥さんも驚きを隠せないようだった。
「……あのときのことは、私も覚えています。確かに私は、妊娠されてる女性に座席をお譲りしました」
ゆっくりと、その光景を目の前に描いているかのように一語一語をクリアな発音で踏みしめて、郁弥さんは答えた。
「私がこうしてしっかりと覚えているのは、あのとき、同じ車両に、みゆきがいたからです。当時私はみゆきに片想い中でして、それで、もちろんマタニティマークを付けてる方に席を譲るのは当然のことなんですが、心のどこかで、彼女にいいところを見せたいという気持ちがなかったわけではありませんから」
郁弥さんから笑いがこぼれ出すと、大路さんも、蹴人くんも笑っていた。
わたしだけは、わたしに片想い中だったと言われたことに恥ずかしさを隠せず、照れ笑いになってしまったけれど。
「あのとき、諏訪さんだけでなく、みゆきさんも私に席を譲ってくれようとしてたわよね?」
大路さんは、郁弥さんとつながっているわたしの手を見やって言った。
わたしは反射的に郁弥さんの手を離した。
「そうです……。でも、一瞬ためらってしまって、その間に郁弥さんが先に妊婦さんに声をかけて……」
「でも、わたしと目が合ったわ」
「……はい、大路さんはわたしにも頭を下げてお礼してくれました」
「あら、覚えててくれたんだ?」
嬉しそうな大路さんに、蹴人くんもニコニコ顔だ。
すると大路さんが、「だからきっと、そういうことなのよね…」と、感慨深げに呟いた。
「そういうことって?」
訊いたのはご主人だ。
「だから、蹴人が、親である私やあなたには見えないのに、みゆきさんや諏訪さんには見えたり、お願いを叶えてくれると言ったりしたことよ」
大路さんはすらすらと答えたが、ご主人にはいまひとつピンときていないらしい。
そういうわたしもご主人と同じで、大路さんの言わんとすることが掴めないでいた。
だって、蹴人くんはわたしと郁弥さんだけじゃなく、水間さんや安立さんにも見えたわけだし、わたし達四人に共通点なんかなかったわけだし………
そう考えを巡らせたとき、ふと頭をよぎるものがあった。
「あ……」
わたしはその考えが正しいのか分からず、戸惑いながら郁弥さんを見上げると、郁弥さんはもうすでに正解に辿り着いていたかのような様子で、ゆっくりと頷いてみせた。
そして二人で大路さんに、……いや、蹴人くんに答え合わせを求めたのだった。
「もしかして、蹴人くんが姿を見せたのは、あのとき大路さん…お母さんに、席を譲ろうとした人?」
恐る恐る、大路さんと蹴人くんに向かって尋ねた。
大路さんは静かに微笑んでいて、蹴人くんは上機嫌で体を右左に揺らしながら答えを勿体ぶってみせる。
「私はそう思ったんだけど、……蹴人は、なんて言ってるの?」
わたしの質問が蹴人くんに向けられたものだと受け取った大路さんは、そのまま蹴人くんに答えを委ねるつもりなのだろう。
蹴人くんがどうしてわたし達四人の前に現れたのかなんて、蹴人くん本人にしかその理由は分かるはずもないのだから。
けれど、どこか大路さんには、大いなる確信があるような言い方だったのだ。
「なにも言ってません。嬉しそうに体を揺らしてわたし達を見ています。あ、今は大路さんの方を向きました。………え?」
蹴人くんが小声でなにかを言ったので、わたしは訊き返した。
「せやから、あのときお母さんがぼくに話しかけたこと、お姉ちゃんとお兄ちゃんに教えたってよ。……ほら、お姉ちゃん、今ぼくが言ったこと、早くお母さんに伝えてや」
蹴人くんにせっつかれて、わたしは「ああ、うん」と言われるがままに大路さんに伝えた。
「あのとき?…大路さんが蹴人くんに話しかけたこと、わたしや郁弥さんに教えてあげてと、そう言ってます」
わたしの通訳に、大路さんは、ああやっぱり?という風に納得顔になった。
「じゃあやっぱり、私の推測は当たってるのね。……あの日電車で席を譲ってもらったときね、私、ものすごく幸せな気持ちがいっぱいだったの。だからお腹の中の赤ちゃんに向かって、『今席を譲ってもらったのは、私のためだけじゃなくて、あなたのためでもあるのよ。あなたは見ず知らずの人からもこんなに優しくしてもらえて幸せね。でもあなたの幸せは、私の幸せでもあるのよ?誰かの幸せが自分の幸せにも感じられるような、そんな人になってね』みたいなことを心の中で話しかけたのよ。それから、『私だけがこんなに幸せでなんだか申し訳ない。今席を譲ろうとしてくれた人達にも、なにか幸せが訪れますように…』そんなことも思ったの。蹴人が言ってるのは、きっと、このことよね?」
大路さんの問いかけに、蹴人くんはニコニコ顔だ。
「それであってるみたいです」
わたしの返事を待ってから、大路さんは続けた。
「もちろん、あのとき何人の人が私に席を譲りかけてくれたのかなんて知らないし、どんな人だったのかまでは覚えてないわ。でも、そのうち一人の女の子が、思いつめたような緊張いっぱいしてる顔で私と目が合ったのは覚えてるし、実際に席を譲ってくれた男の人が背が高くて芸能人顔負けの男前だったことも覚えてる。その人が降りていった駅もね。あの駅は私が通ってたクリニックがあるところだったから、もし二人目を考えるなら、また通うわけだし、そうしたらまたあの男の人を見かけるかもしれない、そのときはちゃんとお礼を伝えたい…………そう思ってたんだけど、そのあと、里帰り出産をするつもりで実家に戻ってから、……………死産、というかたちになってしまって、」
いっきに話してくれていた大路さんだけど、そこから先には、進めなかった。
唇を噛んだのか、震わせているのか、大路さんの姿は痛々しくて、それを直視できないほどに、わたしにも胸に込み上げるものがあった。
けれど蹴人くんが黙って大路さんの膝のあたりに手をやると、見えていないはずなのに大路さんはそこをじっと見つめていた。
ご主人は大路さんの背中を撫でながら、わたしと郁弥さんに向けて「すみません……」とだけ言った。
そのやり取りの中には、夫婦二人にしか分かり合えない深いものがあって、どれほどのものを二人で乗り越えてきたのか、他人のわたし達には測り知ることすらできないのだと強く感じた。
家族を、それも、我が子を失うなんて、どれほどの痛みなのか、わたしには想像すらできない。
”お気の毒” とか、そんな安易な憐憫を口にすることさえ憚られてしまって、わたしも郁弥さんもなにも言葉は返せず、ただ、黙って、二人と蹴人くんのことを眺めていた。
やがて、沈んだ時間を溶かしたのは、蹴人くんのひと言だった。
「せやから、ぼくはお姉ちゃん達に会いに行ったんや」
自分の母親を慰めるように、蹴人くんは大路さんの前に立って、優しく触れている……ように見える。
リアルには触れられないけれど、確かに触れているように見えるのだ。
「……だからぼくはお姉ちゃん達に会いに行ったと、蹴人くんが言ってます」
感情の波に飲み込まれそうになったわたしを庇うように、郁弥さんが大路さんご夫婦に伝えてくれた。
「じゃあ、あのとき病院にいた人達も、私に席を譲ろうとしてくれた人達だったのね」
ぜひお礼を伝えたいわ。
そう言った大路さんの表情には、まだ痛々しい色は残っていたけれど、穏やかな笑みも混ざっていた。
「水間さんとも安立さんとも連絡先を交換しましたから、いつでも会えますよ。二人とも、蹴人くんに会いたがってましたし、今日も一緒に来たがってました」
大路さんが蹴人くんのお母さんという確証がなかったから、とりあえず今日はわたしと郁弥さんの二人でお邪魔したのだけど、蹴人くんにも会えるなら、水間さんと安立さんにも同行してもらえばよかった。
わたしの口から残り二人のことを聞いた大路さんは、ちょと安心したようだった。
その変化に後押しされたように、わたしはさらに続けた。
「誰かの幸せが自分の幸せ……。そう思える人になってほしいって、大路さんは言いましたよね。蹴人くん、きっと、そういう思いやりのある男の子になってますよ。だって蹴人くん、わたし達に、”自分以外の人の願いごと” を叶えてくれると言ったんです」
「自分以外の人の願いごと?」
「そうなんです。蹴人くんは『お礼になんでもお願いかなえてあげる』と言ってくれたんですけど、たったひとつの条件が、”自分以外の人の願いごと” だったんです。それでわたしは、郁弥さんの幸せをお願いしました」
「私は、みゆきの幸せを……」
「あらあら、二人してお互いにお互いの幸せを願うなんて、それこそ幸せな話ね」
大路さんは冷やかすのではなく、ちょっとした物語を読み終えた感想のように言った。
それから、
「でもそれじゃあ、蹴人は、わたしの代わりに、みゆきさんや諏訪さんにお礼をしてくれたのね……」
見えてるはずないのに、横にいる蹴人くんに笑いかけたのだ。
蹴人くんは驚いたように後ろに一歩下がり、お母さんの顔をじっと見上げている。
自分のことが見えてるのかと、焦っているようにも見える。
けれどしばらくして、そんなわけないか、という風に息を吐くと、
「なあお姉ちゃん、今度はお母さんにぼくの言葉伝えてくれる?」
と訊いたのだった。
「うん、もちろん、どうぞ。……あの、蹴人くんがお母さんにもお話があるそうです」
蹴人くんに返事してから、わたしは大路さんに説明した。
大路さんは「わかったわ」と頷きつつも、頬のあたりには緊張が走ったような気がした。
二話同時更新いたしました。




