小さな男の子のこと(5)
それから郁弥さんは、あの朝駅で蹴人くんと会ったことや、そのとき蹴人くんがお願いを叶えてくれると言ったこと、自分の前に再度蹴人くんが現れたときのことを話して聞かせた。
その後わたしが、あの朝郁弥さんがいなくなってからの出来事、蹴人くんが何度もわたしに会いに来たこと、病院で呼びかけたら来てくれて、郁弥さんを助けてくれたことなどを話した。
その中で、蹴人くんが ”前に命がけで好きになった人がいた” という話もした。大切に想ってる人がいたけど、その人には自分が大切に想ってることを伝えられなかったと。
そしてわたしは、それを聞いたとき、蹴人くんみたいな小さな子供が ”命がけ” という言葉を容易く使うなんてと、つい笑ってしまったことを、今更ながら、申し訳ない気持ちで思い出していた。
「命がけ……」
大路さんもご主人も静かに話を聞いていたけれど、その言葉にはひどく狼狽えていた。
何か思い当たることがあるのかもしれない。
でも、わたしはひとまず蹴人くんのことで記憶してる小さなディテイルをすべて伝えたかった。
「蹴人くんは…」
言いながら、ふと蹴人くんを見やると、蹴人くんはお父さんの足の間に入り込んでいた。
それは、父親に甘える男の子にしか見えなかった。
ただ、父親は、甘えてくる息子には気付かないで、わたしの方に意識が向いているけれど。
「……蹴人くんは、玉子サンドをよく作ってもらってると言ってました。それから、コーヒーは飲めないとも。それでわたしは玉子サンドをコンビニに買いに行って、水間さん…病院で一緒にいた女性で、看護師の水間さんのお母様ですが、その水間さんが持っていたコーヒーを蹴人くんに渡そうとしたら、蹴人くんがコーヒーが飲めないというので、郁弥さんがたまたま持っていた紙パックのオレンジジュースを渡したんです。病院でもう一人いた男の人は安立さんといって、安立さんは蹴人くんにのど飴をあげたそうです。大人が口にするような飴でしたが、蹴人くんはそれも美味しかったと言ってました」
思い出せる限りを隙間なく告げていったせいで、文章としてはおかしなところもあったけれど、とにかくわたしは、”伝える” ことに精いっぱいだった。
「あ、それから、食べ物関係で言えば、蹴人くんはりんごジュースの紙パックを持っていたこともありました。本当はオレンジの方が好きだけど、これはお父さんがくれたからと言って飲んでました。そうだよね?」
わたしは蹴人くんに確認を求めた。
「うん。お姉ちゃん、よう覚えてるなあ。でも、ホンマのこと言ったら、お父さんがくれたのとはちょっと違うんやけど、まあ、それはまた後で話すわ」
蹴人くんは笑いながら言った。
すると蹴人くんのお父さんが「それはよく覚えてます」と頷いたのだ。
「たまたま会社で差し入れにもらったジュースが鞄に入ってあったので、蹴人に供えたんです。……そうですか、蹴人は、りんごよりもオレンジの方が好きなんですね」
「そうみたいですね」
息子の好みを知って、その表情には嬉しさが染み入っていくように見えた。
「ねえねえ、私は?私のことはなにか言ってなかった?」
今度は大路さんが訊いてきた。期待に満ちたテンションだ。
「はい、もちろんお母さんのことも話してましたよ。わたしが自分のことをネガティブだと言ったら、『ぼくのお母さんもネガちゃんや』って言ってました。でも、星占いが悪かったりしたら自分の頬っぺたをつねって、自発的に悪いことをつくることを教えてもらいました」
「やだ、そんなことも見られてたのね」
大路さんは照れくさそうに返した。
蹴人くんもにこにこしながら、お父さんの膝の間から、大路さんのいるパーソナルチェアに移動した。
そして肘おきの横に立ち、大路さんの腕にそっと手をまわす。
「蹴人くん、今度はお母さんの左となりにいます。お母さんと手をつなぎたいみたいです」
郁弥さんが言うと、大路さんは「まあ」と嬉々として左手を上向きにして肘おきに乗せた。
そこに、蹴人くんの小さな手のひらが重なる。
蹴人くんもとても嬉しそうだ。
「今、蹴人くんの手が大路さんの手に重なってます」
わたしの説明に、大路さんはゆっくりと指を曲げていく。
まるで、手を握るように。
幸せそうな大路さん。
けれどその様子とは反対に、「ごめんなさい。私にはなにも感じられないみたい」と肩をすくめた。
「そうですか……」
「仕方ありませんよ。蹴人くんのことは、私達にしか見えないみたいですから」
がっかりしたわたしを庇うように、郁弥さんが大路さんに優しく声をかけた。
「でもお前は信じてるんだろう?」
ご主人が穏やかに問う。
「ええ、もちろん。最初は半信半疑だったけど、……諏訪さん、でしたよね?あなたのお顔を見た瞬間、蹴人が私とあなた方を引き合わせてくれたことが分かりましたから」
「私、ですか?」
さっき郁弥さんを見るなり、大路さんの態度が急に変わったこととつながりがあるのだろうか。
大路さんは左手の上に自分の右手を蓋のようにして乗せ、蹴人くんの小さな手を閉じ込めたような形にしながら話しはじめたのだった。
「きっと、病院で諏訪さんにはじめてお会いしたときは、メガネを掛けてらしたので、きちんとお顔を把握することができなかったんですね。でも今日はメガネをしてらっしゃらないから、すぐに気が付きました。だってこんなにかっこいい男の人、一度見たら簡単には忘れられませんからね」
冗談風に言葉を運ぶ大路さんは、病院の手洗い場でわたしに話しかけてきたときと同じ軽やかなテンポだった。
「でしたら、私は以前、大路さんとお会いしたことが?」
そんな記憶はなさそうな温度で、郁弥さんは尋ねた。
いつもなら ”かっこいい” と評されたことに苦笑でも浮かべそうなところだけど、今日は綺麗に聞き過ごしたようだった。
「そうなんです。でも諏訪さんが覚えてなくてもおかしくはないんです。だってそのときは一瞬しか目が合いませんでしたし。それに、そのとき私は、諏訪さんだけじゃなく、みゆきさんにも会ってるんですよ」
「え?あの病院で会う前に、ですか?」
意外な話の流れに、思わず変な声をあげそうになってしまった。
わたしの反応が面白かったのか、蹴人くんがククククッと笑い出した。
この様子では、蹴人くんもなにか知っているのかもしれない。
「そうよ?思い出せない?」
クイズの出題者のように、ちょっと優越感のある表情をこしらえてみせる大路さん。
けれど本気で思い当たらないわたしと郁弥さんは、すぐに白旗をあげた。
「申し訳ありません、本当に覚えがなくて……」
「わたしと郁弥さんも同時に、ってことですよね?そんなタイミング、全然記憶にないんです……」
蹴人くんと出会った朝まで、わたしと郁弥さんが交わるポイントなんてなかったのだから。
するとわたし達の降参を受けた大路さんが、楽しそうに教えてくれたのだった。




