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小さな男の子のこと(2)






303号室。大路さんの、つまりは、蹴人くんの家だ。

深く息を吸って、吐いてから、わたしはインターフォンを鳴らした。

おそらく、わたしだけでなく、郁弥さんも、もしかしたら蹴人くんも、胸が騒がしくなっていることだろう。

数秒後、


「はーい」


とダイレクトに聞こえてきた大路さんの声に、わたしは心臓の早鐘を打たれているように緊張感がマックスになっていった。


カチャ、カチャリと、複数の鍵を開く音がしたと思ったら、すぐに扉が手前に動き出して、わたしは鼓動の暴走を収める間もなく、中から出てきた大路さんと目と目が合ってしまった。


「みゆきさん!いらっしゃい。せっかくのお休みに呼び立てたりしてごめんなさいね。ここはすぐに分かった?迷わなかった?」


軽い挨拶だけではなく、朗らかな大路さんはマイペースに会話を運んでくる。


「はい、ナビがあったので……」


わたしが答えるや否や、


「まあ!素敵なガーベラ!」


わたしの後ろにいた郁弥さんが持つガーベラのアレンジメントに、感嘆の声をあげた大路さん。


「はい、あの、これ、蹴人くんにと思って……」


郁弥さん、というよりもガーベラに場所を譲るつもりで、わたしは少し後ろにさがった。

そして大路さんの正面に郁弥さんが立つかたちになり、胸の高さで抱えていたアレンジを大路さんに手渡しながら、郁弥さんが「こんにちは」と声をかけたときだ、



「―――っ!」



郁弥さんの顔を見上げた大路さんが、信じられないほどに大きく目を見開き、受け取ろうとしていたアレンジから手をひいてしまったのだった。



思わぬ反応に、郁弥さんも、わたしも、わけが分からず「え?」と声に出していた。

郁弥さんは慌ててまたアレンジを抱え直したたけれど、いったい何があったのかと、困惑の横顔をしている。

けれど大路さんは両手で口を塞ぎ、郁弥さんを見つめ返すばかりなのだ。


「あの…?」


ガーベラ越しに問いかけた郁弥さんに、大路さんは黙ったまま、ゆっくりと、首を横に振った。

なにも言葉にできない、そんな様子だ。

わたしもどうしたらいいのか困り、横目で蹴人くんの反応をうかがってみた。

すると蹴人くんは、ちょっとした苦笑いのような表情を浮かべていたのだ。

やがて、大路さんは呼吸を整えて、でも唇を震わせながら言った。



「あなただったんですね。あのときの………」



その一言で、わたしはさらに戸惑いが大きくなってしまった。

それが意味するものが思い当たらなかったからだ。

郁弥さんには何か心当たりがあるのだろうかと顔色を確かめてみても、それらしい様子は見られない。

だいたい、大路さんは、郁弥さんにはこの前病院の待合で会ってるはずなのに。

あのときは郁弥さんの顔を見てもなんの反応も示さなかったのに、なぜ今日はこんなに取り乱してしまうのだろうか。



「どうかしたか?」


なかなか大路さんが戻らなかったからか、部屋の奥から男の人が心配そうに玄関にやってくる。

まだ紹介は受けてないけれど、この人がご主人だろう。


ということは、蹴人くんのお父さん……


その顔を認めたとき、わたしと郁弥さんは、さっきの大路さんほどではないにしても、ハッと息を飲んだ。

知らず、蹴人くんとつながってる手に意識が向かう。

蹴人くんはじっと、自分の父親を見ていた。


「おい、大丈夫か?」


そう言った蹴人くんのお父さんは、蹴人くんとよく似ていたから。

大路さんより少し年上のように見えて、でもそれは、大路さんが若く見えるせいでそう感じるのかもしれない。

目じりのシワ以外は特に年齢を感じさせるものはなく、デニムパンツにVネックの薄手のニットというシンプルな服装なのに若々しい印象さえする。

そしてわたしと郁弥さんに向くと、


「どうもはじめまして。大路です」


と頭を下げた。

素朴で、優しそうな男性だ。

わたしと郁弥さんも返すように会釈したけれど、蹴人くんと大路さんのことが気になって、名乗ることまではできなかった。


「どうしたんだ?早く中に入っていただいたら…」


「それじゃあ、あのときの女の子はみゆきさんだったのね」


ご主人の話を遮って、大路さんは今度はわたしに投げかけた。


「え?」


本気でわけが分からない。

ただただ戸惑うわたしと郁弥さんに、大路さんは目を潤ませているのだから。



「私………、信じるわ」


「なんのことだ?」


いつもと様子が違う大路さんに、ご主人も不思議顔だ。

大路さんは顔だけを後ろ向かせ、ハッキリした口調で告げた。


「あなたにも話したでしょ?みゆきさん達が、蹴人と会ったことがあると言ってたこと」


「それは、まあ……」


ご主人はちらっとわたし達を見た。

たぶん、いや、きっと、彼はわたし達のことを疑っているのだろう。

でもそれは当然のことだと思う。

わたしだって、大路さんとご主人がまったく蹴人くんの存在に気付いてないのを目の当たりにするまでは、まだどこかで信じられない自分もいたのだから。

今こうして、蹴人くんと手をつないでるというのに。


だいたい、蹴人くんの手のひらにはちゃんと体温もあって、わたしから見る限りでは、いたって普通の男の子なのに……

けれど、あのおしゃべりな蹴人くんが、じっと黙って大人達のやり取りを聞いているのも、なんだか切ない気もして、せめてわたしは、蹴人くんの存在を信じ切ってあげなくちゃと思った。


でもそれは余計なお世話だったようで、大路さんはくるっと向き直ると、わたし、郁弥さん、そしてまたわたしの順でじっくりと目と目を合わせながら言ったのだ。



「蹴人が、あなた達に、会いに行ったのね」



一語一語を噛み締めるように、大路さんの気持ちが詰められたようなセリフに聞こえた。


そしてそれはわたしの隣にいる蹴人くんにも聞こえていて、


「お母さん……」


ぽつりと、こっそりと、小さな声が返事した。

わたしは思わず蹴人くんの方に目をやってしまい、それを見逃さなかった大路さんが食い気味に訊いてきた。


「もしかしてそこに蹴人はいるの?」


「おい、お前なに言ってるんだ?」


縋るようにわたしの視線の先を見つめる大路さん。

そんな大路さんの肩に手を置いて、ご主人は宥めるように声をかけた。



「ねえ、みゆきさん、教えて?……そこに、蹴人がいるの?」


眉を下げて、今にも泣き出しそうな表情で問われて、わたしは誤魔化す自信がなくなりそうだ。

でも自分一人の一存では答えられなくて、郁弥さんに助けを求めるように見上げた。

郁弥さんも即答は難しかったようで、黙ってわたしを見返してきて、そしてわたし達は揃って蹴人くんに意見を求めた。

蹴人くんはお母さんを見上げていたけれど、そのまま、


「ええよ。ぼくがここにおるって話してくれてもかまわへんよ。もともと、ぼくの話してることを伝えてもらうつもりやってんから」


可愛らしい声で、でもきりりと、意思を固めたようにハッキリと言ったのだった。



「あ………、あの……」


蹴人くん本人の許可を得たとはいえ、その切り出し方に迷ってしまう。

するとそんなわたしを、郁弥さんはすぐにフォローしてくれた。


「長い話になると思いますので、落ち着いてお話しさせていただいてもよろしいですか?」


大路さんはパッと我に返ったように顔色を戻し、「そうよね、こんな玄関先じゃゆっくり話せないわよね」とバツが悪そうに答えてから、


「お花も、ちゃんと受け取らなくてごめんなさい。どうもありがとう」


そう言って、郁弥さんからガーベラのアレンジメントを受け取った。



「すごいな、こんな大きな花束を…」

「違うわよ。これは花束じゃなくてアレンジよ」


驚いているご主人に、大路さんは鋭く訂正した。


「どっちも似たようなものだろ」

「あら、全然違うわよ」


二人の会話のテンポが軽やかで、わたしは用意されていたスリッパに足を入れながら、蹴人くんがこの二人の子供であることに納得していた。

話し方の雰囲気が、とても似ているのだ。


「ぼく、お父さんとお母さんのどっちにも似てるやろ?」


わたしの心を読んだのだろう、蹴人くんが靴を脱ぎながら訊いてくる。

残念だけど、蹴人くんのスリッパは用意されていない。


「ああ、気にせんでええよ。ぼくはスリッパなんか履かんでも冷たないから。それより、ぼく、二人によう似てるやろ?」


確かに蹴人くんはお父さんと似ている。

話し方とか、明るい感じはお母さん似だ。


「そうだね、よく似てるね」


コソッと、大路さんとご主人には聞こえない小声で返事すると、蹴人くんは嬉しそうに破顔した。


「せやろ?」


得意げな蹴人くんに、わたしは胸の奥がキュッと締まる感じがした。

だって自分が親と似てることをこんなに喜んでるのに、蹴人くんは、もう………


彼の置かれた立場を思うと、やっぱり、苦しさが一番にきてしまう。


これから大路さんご夫婦に打ち明ける内容を考えて切なくなるわたしに、郁弥さんはそっと背中に手のひらを当ててくれた。


「大丈夫。オレもみゆきと一緒の想いだから」


その一言に少しは励まされると、蹴人くんからは「そうやで?そんなん気にせんと、お姉ちゃんはしっかりお母さんに話してや!」と笑いながら念押されてしまったのだった。











二話同時更新いたしました。

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