小さな男の子のこと
大路さんの自宅はコインパーキングからさほど遠くない、品のある低層マンションだった。
オートロックのゲート外だというのに高級感ある空間が続いていて、すれ違う住人もなく、そこには静謐が広がっていた。
なんとなくだけど、小さな子供が走り回る光景をイメージしにくい雰囲気があった。
わたしがインターフォンで大路さんの部屋番号を打つと、つないでいる蹴人くんの指が、ピクリと細かく動いた気がした。
もしかしたら、蹴人くんなりに緊張しているのかもしれない。
大人びているし、普通の子供じゃないけれど、お父さんとお母さんに自分の言葉を伝えるという、今までとは違う状況に、いろいろ思うことがあるのだろう。
わたしは ”大丈夫だよ” という意味をこめて、きゅっと手に力を加えた。
すると蹴人くんはちょっとビックリしたようにわたしを見て、でもニコッと笑ってくれた。
《――――はい》
「こんにちは、和泉です」
《みゆきさん!いらっしゃい。今開けるわね》
いかにもわたしを待ってくれていたと分かる、歓迎のテンションが高めの大路さんは、わたしが病院ではじめて会ったときのような明るい大路さんだった。
あの日、亡くなった息子さんのことを打ち明けたときとはまるで違う声に、わたしは蹴人くんの反応が気になった。
けれど蹴人くんは笑顔をキープさせていて、わたしは、考えすぎる癖を頭の隅に追いやった。
そして三人でエレベーターに乗ると、蹴人くんが突然わたしの腕をクイッと引っ張ってきたのだ。
わたしは、まさに今フロアボタンを押そうとしていた手を止めて振り向いた。
「蹴人くん、どうしたの?」
「あんな、ぼく、このボタン押してみたいねんけど……」
蹴人くんが指さしたのは、わたしが触れているフロアボタンだった。
大路さんの自宅は3階で、蹴人くんの背の高さではそのボタンまでは届きそうにない。
わたしは蹴人くんとつないでる手をほどくと、「いいよ」と、蹴人くんを抱き上げた。
「ありがとう!」
蹴人くんはご機嫌に言って、小っちゃな指で3のボタンを強く押さえた。
「そんなに強く押さなくても大丈夫だよ」
後ろから郁弥さんが笑ったけれど、蹴人くんはまだボタンを押したままだ。
「だって、ぼく、ずっとこのボタン押してみたかってんもん」
3のボタンを見つめたまま返ってきたその答えに、わたしも郁弥さんも、ハッと思い知らされた。
そうなのだ。この子は、本当は、もう………。
だから、自宅マンションのエレベーターのボタンを押す、なんてごくありふれた普通の行為でさえ、蹴人くんにとっては全然普通ではないのだ。
……けれど、確かに今、わたしの腕の中には蹴人くんの感触があって。
わたしはいまだに、蹴人くんが本来ならここにいるはずない存在なのだということが、信じきれなかった。
なんともいえない感情が押し寄せる中、エレベーターは静かに閉まり、上昇していくのだった。
エレベーターは開くときも品よく静かで、その先には絨毯敷きの内廊下が続いていた。
蹴人くんはわたしの腕から逃げるように飛び降りると、真っ先にエレベーターから足を踏み出した。
そしてわたし達を手招きする。
はやくはやく、そんな声が聞こえてきそうだ。
けれど蹴人くんは、追いついたわたし達に、
「ごめんな、さっきなんか変な感じになったけど、ぼく、今めっちゃ楽しいねんで?だからお姉ちゃんとお兄ちゃん、いらん気ぃ遣わんといてな。そんで、ちゃんとお母さんとお父さんにぼくの言葉伝えてや?」
ニッと口角を上げて言ってきたのだ。
空元気、作り笑い、そういう気配は一切なかった。
蹴人くんが普通の男の子でないのは分かっているけれど、時折にじみ出る複雑な感情までもを、この小さな男の子はコントロールしているというのだろうか。
わたしは、どうしたら蹴人くんのことを慰められるのか、すぐには思いつかなくて。
でもその代わり、蹴人くんの ”お願い” であるメッセンジャー役は、完璧にこなしたいと思った。
「わかってるよ。ちゃんと、全部伝えるから」
蹴人くんを安心させるためにそう返事したのに、なぜか蹴人くんからは「えーっ」と、不服そうな声があがった。
「全部はあかんよ。ぼくがお母さんとお父さんに伝えてって言ったことだけにしてくれる?よけいなことはしゃべったらあかんで?」
「余計なことって、例えばどんな?」
郁弥さんが訊いた。
「んーと、せやなあ……、さっき3階のボタン押したいって言ったこととか、ぼくがお父さんやお母さんに話しかけてるのに返事してもらわれへんかったこととか、とにかく、ぼくが話してって言ったことだけにしてな!」
蹴人くんはちょっとだけ焦ったように言ったけれど、それらは、きっと、大路さんやご主人が聞いたら悲しむに違いない内容だった。
いや、悲しいだけじゃない。親という立場からしたら、我が子がそんなことになっていたと知れば、自分を責めたりもするだろう。それは、子供のいないわたしにも容易く想像できてしまう心情だった。
わたしはパッと蹴人くんの手を取り、もう一度つないだ。
「了解しました。じゃあ、蹴人くんの指示に従いますね」
「しじ?」
”指示” の意味が理解できなかった蹴人くんが、不思議そうに見上げてきた。
「ああ、ええと…」
子供にも分かりやすい単語を探すわたしの横から、郁弥さんがガーベラのアレンジを揺らした。
「”命令” ってことだよ。”命令” は分かるかな?」
「うん!命令は知ってるよ。言うこと聞かなあかんってことやろ?そっか、じゃ、ぼくはお姉ちゃんとお兄ちゃんに命令するんや?」
「まあ、ちょっと言葉はきつくなっちゃうけど、似たような感じ、かな?」
わたしが少し戸惑いながら言うと、蹴人くんは「分かった!」と頷いてみせた。
わたしと郁弥さんはそんな蹴人くんの無邪気な様子を眺めながらも、これから大路さんのところでどんな展開になるのか、まったく想像つかなかった。




