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小さな男の子の願いごと(2)






大路さんから教わった自宅住所の近くまで来ると、郁弥さんはコインパーキングに駐車した。

辺りにはマンションなどの集合住宅が多く、それらの来客が利用するためにあるようなパーキングだ。


車を降りた瞬間、少し冷えた風が背後から吹き抜けていき、なぜだかどきりとした。

ひとつにまとめていた髪の後れ毛が首筋をくすぐるように揺れ、反射的に手で庇ったそのときだ――――――



「お姉ちゃん、ひさしぶりやなぁ!」




あの可愛らしい関西弁が、わたしの鼓膜も揺らしたのだった。



「しゅ、蹴人くん?」


振り向いたそこには、まぎれもなく、いつもの格好をした蹴人くんが立っていた。



「蹴人くんだって?」


反対側の運転席から急いでこちら側に回った郁弥さんは、わたしの視線の先を追い、驚愕の表情になった。


「蹴人くん……」



人間、驚きが頂点を越えると本当に言葉を失うものなんだと、改めて実感する。

あの郁弥さんが、蹴人くんの名前しか口にできないのだから。



「お兄ちゃんも、元気そうでよかったわ」


わたし達の狼狽が目に入ってないかのように、蹴人くんは明朗に笑う。

けれどその一言に郁弥さんはハッとして、蹴人くんに歩み寄っていった。

そして小さな体の前にしゃがみ込むと、


「蹴人くん、みゆきお姉さんから聞いたよ。オレを助けてくれたんだね」


目線の高さを合わせて言った。


「あ、わたしも蹴人くんにお礼を言いたかったの。本当に、本当にありがとう。郁弥さんを助けてくれて、」


わたしも駆け寄って郁弥さんの横でしゃがみ、蹴人くんの手を握りしめた。


「本当にありがとう、蹴人くん」


「オレからも、ありがとう」


郁弥さんは、蹴人くんの手を握るわたしの手の上から、両手で挟むようにして包み込んだ。

わたし達二人の感謝は淀みのないもので、心の底からの正直な気持ちだった。

けれど、蹴人くんにとったらそれはお門違いなものだったらしい。


「お姉ちゃんとお兄ちゃん、なに言ってんの?」


心底呆れかえったような顔でわたし達を交互に見てきたのだった。


「ぼくはお姉ちゃんのお願いをかなえただけやで?別にお兄ちゃんを助けたつもりなんかないよ。ただ、お姉ちゃんのお願いをかなえたら、お兄ちゃんの目が覚めただけや。せやから、お姉ちゃんとお兄ちゃんが、自分のお願いかなえてくれてありがとうって言うんやったら分かるけど、お兄ちゃん助けてくれてありがとうっていうのは、ちょっとちゃうで」


純粋無垢な瞳でバッサリ言い切った蹴人くんに、わたし達は横目で戸惑いを交換した。


「そう……、そう、なんだけどね、結果として、郁弥さん…オレンジジュースのお兄さんが助かったわけだから、それに対する『ありがとう』も、言いたいの」


蹴人くんの言ってることも頷けるけれど、わたしはもう一度、小さな手をぎゅっと握った。

すると蹴人くんも指先に力をこめてきて、クイクイッとわたしの指を引っぱってみせた。

それはまるで、小さな子供が母親と手をつないでいるときにするささやかな遊びのようだった。

そして、


「それやったら、わかった。お姉ちゃんとお兄ちゃんからの『ありがとう』、ちゃんともらうよ」


ようやく納得した様子の蹴人くん。

そのままおしゃべりを続けた。


「でも、お姉ちゃんとお兄ちゃんが一緒におるの見たら、ぼく嬉しいわ。だってお姉ちゃんもお兄ちゃんも、好きどうしやのに全然正直に言わへんかってんもん」


唇をつきだすようにして言った蹴人くんは、わたしと郁弥さんの関係に変化があったことなど、とっくにお見通しのようだった。


わたしは郁弥さんを見上げ、笑いかけた。

すると郁弥さんも、ぽんぽん、と握りあってるわたしと蹴人くんの手を優しく叩いた。


「蹴人くんには心配かけたね」


「うん、ごめんね。蹴人くんの言う通りだったよ。好きな人に好きって言えなくなってからじゃ、遅いんだよね」


わたしも郁弥さんに付け足すように言った。

それは、蹴人くんがわたしに言ったことだ。

今思えば、あのとき、蹴人くんはいったいどんな気持ちであんなことを言ってたのだろう。

わたしは、小さな男の子の事情を考えると、胸が張り裂けそうになった。



「せやろ?」


蹴人くんは自慢げに、ちょっと胸を張った。


「お姉ちゃんは、間に合ってよかったな」


お姉ちゃんは(・・・・・・)…その言葉に秘められた想いは、きっとわたしの想像通りなのだろう。

大切な人に、大切だと伝えられないもどかしさを、きっと蹴人くんは痛いほど感じていたのだろうから。


「うん……。蹴人くんに教えてもらったおかげだよ」


「それやったらよかったわ!」


満面の、花が咲いたような笑顔を見せて喜ぶ蹴人くん。

わたしはなんだか、例えるならその花はガーベラのように思えた。

カラフルで、まあるくて、可愛らしい。


すると蹴人くんはするりとわたしの手から自分の手を抜き、体のうしろで結んだ。

それから、


「あと、ガーベラ、ありがとう」


まっすぐと、わたしに告げたのだ。


「え、ガーベラ…?」


また心の中を見抜かれたのかと思い、ギクリとしたわたしに、蹴人くんは「ぼくのお母さんにくれたやろ?」と付け加えた。

そのヒントを聞いて、わたしは反射的に蹴人くんの腕を掴んでいた。


「じゃあ、じゃあやっぱり蹴人くんは大路さんの息子さんなの?!」


「え?」


郁弥さんは、それ本当に?という表情でわたしに振り向く。

わたしは郁弥さんに素早く頷いた。


「郁弥さんのお見舞いにいただいた花束を大きな花瓶にまとめて飾ってたんですけど、その中で黄色のガーベラが傷んできてたので、手洗い場で水替えをするときに花瓶から抜いたんです。そのときたまたま会った大路さんに、その抜いたガーベラを貰えないかと言われて……」


わたしは早口で郁弥さんに説明したけれど、当の蹴人くんは小さな手のひらを大きく振ってみせた。


「ちゃうちゃう。それとちゃうよ。もう一個の方や」


「もう一個の方、って……あ、退院するときの?」


「うん、そっち。お母さんが家に持って帰ってきて、ぼくんとこにも飾ってくれてん」


「ぼくんとこ……」


それが何を指し示しているのか気付かないほど、勘が鈍いわけではない。

わたしは、本当に蹴人くんが大路さんの亡くなった息子さんなのだと、このときはじめて実感したのだった。



「……じゃあ、きみは本当に、大路 蹴人くんなんだね?」


郁弥さんがしゃがんだまま蹴人くんに尋ねた。

やわらかい口調を意識しているとは思うけれど、その声は、いつもの郁弥さんより硬い気がした。


「うん!そうやで!ぼくの名前は、大路 蹴人やで」


「でも大路さんの息子さんは今年三歳って言ってたのよ?!」


気持ちが急くあまり、つい、こんな小さな子供に対し追及するような言い方になってしまった。

けれど蹴人くんはまったく気にしない風で、ある意味飄々と答えた。


「ぼくかてそんなのわからへんよ。でも、そんな小さな子供が一人でおったらおかしすぎるやろ?ほんで、そんな小さな子供が今のぼくみたいにペラペラしゃべるのもおかしいやん」


後半はおかしそうに笑った蹴人くん。


「じゃあ、オレ達四人にしかきみが見えないのは、どうして?」


わたしの疑問には即答してくれた蹴人くんだったけれど、郁弥さんの質問には、少しの間があった。

けれど「うーん…」とちょっと考えるような仕草をしたあとで、


「それは、今からぼくのお父さんとお母さんに会ったら分かるんちゃうかな」


可愛らしい笑顔に戻って、言ったのだった。

蹴人くんのことだから、きっと、わたしと郁弥さんがこれからどこに向かうところだったのかなんて、全部言わなくても分かっているに違いない。

あまり蹴人くんに免疫のない郁弥さんは、ごく当たり前のようにわたし達の予定を口にした蹴人くんに、少々驚いた反応をしたけれど。


「お父さんも、お家にいるの?」


わたしが訊くと、蹴人くんはやっぱり何でもお見通しとばかりに答えた。


「うん。お父さんも一緒にお姉ちゃん達を待ってるで」


「そうなんだ」


大路さんは、わたし達が蹴人くんを知っていることを、ご主人にも話したのだろう。

今日は日曜だし、夫婦そろってわたし達を迎えてくれることに違和感はないのだけれど、なんだか、少しだけ、心が重たくなる感じがした。


大路さんはともかく、ご主人とは初対面だし、どんな人かも知らない。そんな相手に、蹴人くん…亡くなった息子さんと、こうやって会って普通に話していること説明したところで、どういう印象を持たれるのか分からないからだ。


最近は改善状態にあったネガティブ思考が、わたしの胸の内でくすぐってくるようだった。


すると郁弥さんが突然わたしの手を握り、ぐいっと引き上げた。

引っぱられる体勢で、わたしは立ち上がり、勢いあまって郁弥さんの上着に掴みかかってしまった。


「あ、ごめんなさい」


慌てて郁弥さんから離れたものの、郁弥さんはまだわたしと手をつないでいる。

そしてそれを目ざとく見つけた蹴人くんが、ふふふと口を開かず息だけで笑った。


「なんや、お姉ちゃんとお兄ちゃん、えらい仲良しやなぁ」


楽しそうでもあり、嬉しそうでもある蹴人くんに、片想い中の自分を知られているわたしは照れ臭くなった。

けれど郁弥さんは平然と、微塵も動じず、


「仲良しだよ。蹴人くんのおかげでね」


つないでいる手を上にあげて、蹴人くんに見せるように振ったのだ。


蹴人くんはわたし達の手を見て、笑顔を濃くした。


「うわあ、お兄ちゃんとお姉ちゃん、ほんまに仲良しやなあ。ぼくのお父さんとお母さんみたいや」


そう言ったあと、


「なあ、ぼくもお姉ちゃん達と一緒に行ってもいい?」


と訊いてきた。


「それはもちろん構わないけど……。でも、蹴人くんのこと、お母さんやお父さんにも見えるの?」


「ううん、見えへんよ?」


あっけらかんと、蹴人くんは勿体ぶるでもなく、秘密の暴露をした。


「だったらどうして?わたし達と一緒に行かなくても、蹴人くんは好きにお家に出入りできるんじゃないの?」


大路さんが持ち帰ったガーベラのことも知っていたのだから、蹴人くんが自分の家の様子を見ているのは間違いないはずだ。

なのに、あえてわたし達と一緒に行くというのは、そこに特別な理由があるように思えた。


蹴人くんはまたもや「んー……」と考える時間を作る。


「……あんな、もし、もしもやで?もしもお姉ちゃんとお兄ちゃんが嫌じゃなかったらでええねんけど………。ぼくがお母さんとお父さんに言いたいこと、お姉ちゃんとお兄ちゃんに話しかけるから、それ、ぼくのお父さんとお母さんに伝えてくれへん?」


そうお願いしてきた蹴人くんは、笑顔ではあるけれど、どこか寂しそう、いや、悲しそうにも見えた。



「………なにか、お母さんとお父さんに伝えたいことがあるの?」


「そりゃあるよ。いっぱいな。でもぼくは、それができひん。だって何回もお父さんとお母さんに話しかけてるのに、一回も返事してくれへんねんもん」


さっきまでの笑い顔が、サッと色を変えてしまう。

その可愛らしい幼い顔に、憂いが広がっていくように。


………それはそうだろう。こんな小さな子が、自分の父親と母親に何度も呼びかけて、それでも返事をもらえないなんて………


想像するのもかわいそうで、わたしは蹴人くんをぎゅっと抱きしめたくなった。



「わかったよ。蹴人くん、わたし達と一緒に行こう。それで、わたしが大路さん…蹴人くんのお母さんに、蹴人くんの話を伝えるから」


信じてもらえるかどうかはわからないけれど。

でも、わたしが蹴人くんのためにできることがあるのなら、なんでもするつもりだった。

郁弥さんを助けてくれたのだから、そのお礼としては、こんなことくらいじゃ足りないほどだ。


「蹴人くんが一緒にいることは、最初にお母さんとお父さんに教えてもいいんだね?」


郁弥さんの問いに、「うん、ええよ!」元気な声が戻ってきた。


わたしは蹴人くんの憂い色が薄まったのを見て、ホッとした。

そのせいか、


「じゃ、行こうか」


そう誘う仕草は、今から悲しい真実に向かい合うというよりも、楽しい思い出を一緒に作りに行くような、明るいものだった。


わたしは郁弥さんとつないでない方の手を蹴人くんに差し出し、小さな手はそれを掴んでくれた。

けれど、「あ!そうや!」」と、蹴人くんはなにかをひらめいたようにわたしを挟んで郁弥さん

に体をグイッとまわした。


「お兄ちゃん、メガネもかっこいいけど、今日はやめておいた方がええよ」


「うん?メガネじゃない方がいいのかい?」


「うん。車の中に、メガネの代わりみたいなの入れてあるやろ?」


「え?……ああ、コンタクトのことかな?」


「名前は知らんけど、お兄ちゃんがいっつも会社行くとき目の中に入れてる、あれや」


「それをコンタクトっていうんだよ。でも、オレが車にいつもコンタクトを置いてるって、よく知ってたね」


驚きと感心を同時進行に表した郁弥さんは、そっとわたしの手を離した。


「どうしてメガネよりコンタクトにした方がいいんだい?」


訊きながらも、足はもう運転席に進んでいる。

疑問を感じたとしても、蹴人くんのアドバイスを素直に受けようとする、郁弥さんのこういうところが好きだなと思った。



「それはあとで分かると思うよ?」


郁弥さんは蹴人くんの返事を背中で聞き、運転席のドアを開けたまま腰掛けると、コンソールボックスから使い捨てのコンタクトレンズを取り出した。

付き合いはじめてから頻繁に郁弥さんの車に乗せてもらってるわたしでさえ、そこにコンタクトが入れられてることを知らなかったのに……

やはり蹴人くんには、なんでもお見通しなのだと改めて実感する。


郁弥さんはルームミラーを見ながら器用にコンタクトを装着していき、すぐに車から降りてきた。

そして後部座席に置いてあった大路さんに渡すために購入したものを抱えて、わたしと蹴人くんのところに戻ってきた。


郁弥さんの抱えたものを見た瞬間、蹴人くんが歓声をあげた。


「うわあ!めっちゃすごいやん!」


なんでもお見通しの蹴人くんも、これは知らなかったようだ。


「これ、全部ガーベラなん?!」


無邪気に興奮してくれる蹴人くんは、歳相応に目をキラキラとさせている。


「そうだよ。お花屋さんに特別にお願いして作ってもらったの」


郁弥さんが抱えた、無数のガーベラでできたフラワーアレンジメントは、わたしが大路さんの誘いを受けた日にフラワーショップで注文したものだ。


背の高い郁弥さんが両手で抱えないと持てないほどの大きさで、いろんな色のガーベラで作られたそれは、蹴人くんでなくても驚きの声がもれることだろう。


大路さんから電話があった時点では、大路さんの亡くなった息子さんが蹴人くんだとは限らなかったけれど、それでも、大路さんが息子さんを亡くしたのには違いがなくて。

だからわたしは、その息子さんのために、このガーベラのアレンジをつくってもらったのだ。


蹴人くんは「うわあ、うわあ、すごいおっきいなあ……」と、郁弥さんの周りを右、左にウロウロ歩きながらガーベラ達を眺めている。

郁弥さんも、蹴人くんが見やすいように、体を折ってアレンジメントを下げている。


そうして何度目かの「うわあ…」を言い終えた蹴人くんは、


「これ、めっちゃお母さんが喜ぶと思うで!」


興奮を最高潮にして言ったのだった。


その感情を隠さない様子に、わたしと郁弥さんは顔を見合わせて、頬をゆるませた。


「お母さんにも喜んでもらえたら嬉しいけど、これは、蹴人くんに、その……プレゼント(・・・・・)するために持って来たんだよ?」


お供え、なんて、とてもじゃないけど言えなかった。

蹴人くんはわたしのセリフを聞いたとたん、もっともっと大きな笑顔になった。


「ぼくに?!ほんまに?ぼくにくれるん?」


目をキラキラさせたままクリクリさせて、蹴人くんはわたしを見上げてくる。

その小さな顔は、ガーベラ達に簡単に隠れてしまう。


「うん、そうだよ。でも大きすぎて蹴人くんには持つの難しいから、お兄さんにお家まで運んでもらおうね」


「ありがとう!お姉ちゃん、お兄ちゃん」


「これを買ってくれたのはお姉さんだよ」


郁弥さんが体を起こしながら言った。

でも蹴人くんは「ううん」と首を振る。


「お花屋さんで買ってくれたのはお姉ちゃんやったとしても、お兄ちゃんかって今運んでくれてるやん。だから、二人にありがとうや!」


子供らしい純粋な理論に、郁弥さんも目を細めて受け入れた。



そして、郁也さんは大きなガーベラのアレンジを手に、

わたしは蹴人くんと手をつないで、

大路さんの……蹴人くんの家に向かって、歩き出したのだった。











四人の再会(2)より三話、同時更新いたしました。

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