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小さな男の子の願いごと






思いもよらぬ告白のあと、大路さんはわたしと連絡先の交換をして、病院を去っていった。


そして坂井さんも、ご主人が迎えにこられたので、付き添われて帰っていった。

まだ勤務時間内だったけれど、体調を考慮して帰宅するように言われたらしい。

坂井さんは帰る前にさらっと大路さんとの関係を教えてくれた。


二人は、数年前、不妊治療のクリニックで知り合って以来の友人だったらしい。

友人といっても、そこは大人どうしなので、もともと頻繁に電話やメッセージを送り合う間柄ではなかったそうだが、先に妊娠した大路さんが安定期に入って実家のある大阪に移ってからは、いっそう連絡も減っていったらしい。

それでも、お互いになかなか子宝に恵まれないという時期を経験していた二人は、子供ができたらこんな名前をつけたいだとか、どこどこに一緒に行ってみたいとか、夢を語り合っていたそうだ。



けれど、蹴人くんは、もう、この世にはいなかった…………


その事実をどうしても承知できないわたし、郁弥さん、水間さん、安立さん。

だってあの朝、確かに蹴人くんはわたし達の前に存在していたのだから。

わたしや郁弥さんに関しては、あの朝だけじゃないのだ。


あれから何度も何度も、蹴人くんはしつこいくらいにわたしの前に現れて、

『お願いごと決まった?』なんて無邪気な態度で同じ質問を繰り返して、

あの ”プラマイ0(ゼロ)の法則” を教えてくれて、

郁弥さんに気持ちを伝えるようにけしかけて、

言えないようになってからじゃ遅いのだと説いて、

最後には、わたしの呼びかけに応じてくれて、郁弥さんを助けてくれた。



………本当のことを言えば、わたしは、蹴人くんが普通の人間の男の子ではないと気付いていた。そうじゃないと、あのいくつもの不思議な出来事が解説できないからだ。

けれど、もしかしたら大路さんの息子さんが蹴人くんなのかもしれない可能性に、ああ、やっぱり蹴人くんは普通の男の子だったんだ……と、にわかに胸を撫で下ろしたところだった。


なのに。


蹴人くんは、もう、この世界には存在していなかったのだ。


その事実を突きつけられたわたし達は、それぞれに感じるものがあっただろう。

水間さんや安立さんは、その顔色から、もしかしたら驚きや恐怖めいたものを感じたのかもしれない。

郁弥さんはメガネ越しでもハッキリ見て取れるほどに、大路さんに対する同情心があふれていた。


けれどわたしが感じたのは、そのどれもと違ったのだ。


わたしが今、強烈に感じているのは………寂しさだった。



この世にあらぬものと出会ってしまった動揺でも、息子をなくした大路さんへの哀れみでもなく、ただただ単純に、寂しいと思ってしまった。


蹴人くんが、ここにいないことが、たまらなく寂しかったのだ。




「蹴人くん、あのとき、お母さんを待ってるって言ってたわよね」


水間さんがぽつりとつぶやいた。


「そですね、もうすぐ来るはずだと嬉しそうに言ってましたね」


安立さんも、頷きながら小さく言った。

二人の呟きに、何かを考え込むようにしていた郁弥さんは、ややあって、顔を上げた。


「実は、今から思えば、なんですが………あの朝、蹴人くんは我々四人にしか見えていなかったのかもしれません」


「え?」

「それどういう意味なの?」


二人は驚きの声を重ねた。

わたしも、そんな話は初耳で、郁弥さんの続きに気持ちが逸った。


「あのとき、みなさんより先にその場を離れたわけですが、途中で同僚に会ったので、蹴人くんの話をしたんです。でも同僚は、そんな子供いなかったと……」


郁弥さんがそう言ったあと、わたしも思い当たるふしがあった。


「そいえば……、確かに郁弥さんの言う通り、あのとき、最初に蹴人くんに気付いたとき、わたし以外の人は誰一人蹴人くんを気にかけてませんでした……。あのときは、みんな朝の通勤途中で忙しいから、迷子の子供のことは見て見ぬふりをしてるのかと思ってたけど………考えてみたら、いくら通勤途中でも、あれだけの人がいてみんながみんな蹴人くんのことを無視するなんておかしいもの」


記憶の灯を広げていくわたしに、水間さんも安立さんも異論はないようだった。


「それじゃあ、やっぱり蹴人くんはあの大路さんという方の……?」


水間さんは手のひらで口を覆う。それ以上の言葉が出てこないようだった。


「……だとしたら、蹴人くんは本当に、僕達の願いごとを叶えてくれたのでしょうか」


安立さんは誰もいない空間を眺めながら、ひとり言のように呟く。



安立さんの願いごとは、坂井さんのところに命が授かるように。

水間さんの願いごとは、娘さんの仕事がうまくいくように。

郁弥さんの願いごとは、わたしの幸せ。

わたしの願いごとは、郁弥さんの幸せ。


驚くことに、そのすべてが叶っているのだ。


真実は、誰にも分からないけれど………



わたしは、わたし達は、四人だけになった病院の待合所で、あの小さな男の子に想いを馳せるばかりだった。





※※※※※





たくさんの再会と、思いもよらない事実を知ってから数日経った日曜日、わたしと郁弥さんは、二人で大路さんの自宅に向かっていた。


病院でわたしが口走ったことがどうしても気になっていた大路さんから電話があり、自宅に招かれたのだ。

あの日病院で連絡先の交換をしていた水間さんと安立さんにも声をかけたけれど、いきなり大勢で伺うのはご迷惑になるかもしれないとのことで、ひとまず、わたしと郁弥さんでお邪魔することになったのだった。


二人とも、礼服まではいかないけれど、郁弥さんは黒に近いダークスーツにソリッドのブラックタイで、わたしも黒のワンピースを選んだ。

蹴人くんに会うためだ。

詳しい事情はまだ聞いていないけれど、それが、蹴人くんに会うのにふさわしい出で立ちだと思った。

もし、わたし達が会っていた蹴人くんが、大路さんの息子さんの蹴人くんであるならば。



自宅まで迎えに来てくれた郁弥さんに軽いブランチを作ったわたしは、いつもなら手料理を振る舞うことに多少の緊張感を持つのだけど、今日はこのあとに控えていることを思うと、そんな緊張はごく小さなものにも感じられた。

そしてその後、二人揃って家を出て、郁弥さんの車で、教えられた住所に向かっていたのだ。

途中、手土産というのもおかしいけれど、大路さんに渡したいものを購入して。



二人きりの車内は、沈んでいるわけでもないのに、ドライブ気分でもなくて、なんとなく口にする話題は、やっぱり蹴人くんのことだった。


「……でも、何度聞いても、やっぱり信じられないな。蹴人くんがオレの命の恩人だなんて」


あれから、わたしは蹴人くんとの出来事のほとんどを郁弥さんに話して聞かせていた。

何度もわたしの前に現れては願いごとを聞き出そうとしていたことは前にも話していたけれど、郁弥さんの意識がない間に呼びかけたことなどははじめて話す内容だった。

それを聞いた郁弥さんは、自分の意識が戻ったのは蹴人くんのおかげだったのかと、心の深い部分で感じたようだった。


「実は、みゆきから話を聞いて、オレも蹴人くんを呼んでみたんだ。……でも来てくれなかった」


「わたしも何度も呼びかけてはいるんですけど………」


「みゆきが呼びかけて来てくれたのは、その一度きりなんだ?」


「はい。やっぱりあれが特別だったのかな」


もう、蹴人くんには会えないのだろうか。

いや、これから別の意味で蹴人くんに会いに行くのだけど。


わたしは膝の上できつく指を握りしめた。



大路さんの亡くなった息子さんが本当にわたし達に知っている蹴人くんだったとして、二人の年齢が微妙にずれているような気もする。

生きていたら今年三歳になるはずだった大路さんの息子さん。

片や、わたし達の願いを叶えてくれた蹴人くんは、もう少し年上に見えた。

しゃべり方もはきはきとしていて、しっかりしていて、幼稚園児くらいに見えたけどもっと上にも思えたほどだ。

あれで三歳前とは、あり得ないだろう。


………でも、これまでにも何度も蹴人くんに不思議な出来事を見せられてきているわたしは、年齢に関する違和感なんて些細なことにも感じた。



「でも確かに、蹴人くんにはオレの心の中を見透かされているような印象があったし、みゆきが言うように、急に消えたり、セキュリティのしっかりしてる社内に現れたりしたのだとしたら、考えれば考えるほど不思議な男の子だよな………」


郁弥さんは片手でメガネのブリッジを押し上げながら言った。


「オレは二度しか会ってないから、えらく勘のいい男の子ぐらいにしか思わなかったけど、みゆきは最初に会った時から不思議な現象を目の当たりにしてたわけだから、素性を知って、納得できる部分も多いのかな」


「どうでしょうか………。こんな展開は想像もしてませんでしたし、もし本当に蹴人くんが大路さんの息子さんだったとしたら、どうしてわたし達にしか見えなかったのかも分かりません。それに……」


「それに?」


「大路さんの息子さんと蹴人くんが同一人物だとしても、それを確かめる方法も、証拠も、なにもないんです」


蹴人くんに関する手がかりは、すべてわたし達四人の記憶の中にしかないのだ。

正直なところ、今日大路さんのお宅にうかがって、蹴人くんという名前の大路さんの息子さんに手を合わせて、そのあと、大路さんになにを話すべきなのかは、まだ頭で整理もできていない。


だって下手をしたら、息子さんを亡くされた方の悲しみにつけ込んで、適当なでまかせを言ってるだけの胡散臭い人間にも見えるだろうから。

もちろん、あの大路さんがそんな意地悪い考えのためにわたし達を招いてくれたわけではないのは分かっているけれど……

すると郁弥さんは運転しながらわたしの手にそっと触れてくれた。


「オレ達にできることをするだけだよ。オレ達が知ってることを、見たことを、あった出来事を、そのまま伝えるだけだ」


大丈夫だから。


重ねられた手のひらから伝導してくる愛しい人のぬくもりは、わたしの中で燻っているものに癒しを与えてくれるのだった。










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