四人の再会
わたしが蹴人くんに想いを馳せていると、目の前の診察室の扉が開いて、中から郁弥さんが出てきた。
「お待たせ、みゆき」
その表情を見るに、診察ではなにも異常がなかったようだ。
わたしは密かに安堵した。
そして、社内ではあまり見せない、やわらかな笑顔でわたしに近寄ってくる郁弥さんに大きく反応したのは、隣に座る女性だった。
「あら?……間違ってたらごめんなさい、あなた、あの日駅で一緒にいなかった?」
「はい……?」
突然話しかけられて、郁弥さんはとっさにはあの朝のことを思い出せなかったのだろう、笑顔はそのままで女性に訊き返した。
「ほら、やっぱり!ね、そうでしょ?あのとき先に出勤していった男の人よね?」
女性は郁弥さんの顔をはっきり確認してから、今度はわたしに訊いてきた。
わたしはちらりと郁弥さんに視線を投げて、
「……はい、そうです」
女性に頷いたのだった。
郁弥さんは若干の置いてけぼり感を持ったようだったけれど、すぐに思い当たったようで、
「ああ、蹴人くんと会ったときの?」と、女性にも笑いかけた。
「そうよそうよ。やだ、あなた達、もしかしてあれがきっかけで?……じゃ、ないわよね。あのときあなたは先に行ったんだもの。そのとき連絡先なんか交換してなかったわよねぇ?」
じゃあいつ親しくなったの?
女性は嬉々として質問を重ねてくる。
いくつになってもこの類の話題が好きな女性は多いのだろう。
郁弥さんは女性とは反対側の椅子に腰かけると、上半身を乗り出して、わたし越しに女性に答えた。
「実は同じ会社だったんですよ。お互いに存在は知ってたんですけど、会話すらしたことがない関係だったので、あのときはお互いに知らないフリをしてたんです」
「ああ、分かるわ。中途半端な顔見知りってところね。私もそういう感じの人が何人もいるもの」
女性は郁弥さんの説明に非常に深く納得したようだった。
「でもあの朝のことがあったので、次に見かけたときにこちらから話しかけたんですよ」
「まあ、それで今の関係に発展したのね?」
「今の関係、ですか……?」
二人の会話にわたしが割って入った。
「二人は恋人なんでしょう?」
「そう見えますか?」
今度は郁弥さんが嬉々と尋ねる。
「むしろそれ以外には見えないわ。お似合いの雰囲気だし、特にあなたの顔が、あのときとは全然違うもの」
ちょっとからかうように女性は郁弥さんに向かって小さく指差した。
「そうですか?確かにその自覚はあるんですけど」
「やだ、惚気られちゃったわ」
女性は楽しそうに肩を揺らした。
わたしを置いて進んでいく会話だったけれど、”お似合いの雰囲気” と言われたことに関しては、信じられない気もした。
考えすぎる性格で、”わたしなんか…” と思いがちだった自分が、ずっとあこがれ続けた郁弥さんと ”お似合い” と評されたことを、素直に受け入れられるはずなかった。
……はずなのに、”お似合い” と言われ、すごく嬉しいと思っているわたしもいるのだ。
胸がくすぐったくて、でも、ふわりと軽い。
郁弥さんに顔を向けると、郁弥さんは女性から視線を移して、わたしに微笑みかけてくれた。
「オレ達、お似合いだって」
わたしよりももっと嬉しそうに言う郁弥さんに、わたしの中には、彼の恋人であるという自負が芽生えてくるようだった。
「もうやだ、仲良しさんねぇ」
女性はここが病院だということを忘れそうなほどに明るく言った。
「あ、ところであなた入院してたって聞いたけど、もう大丈夫なの?」
「ええ。ちょっとしたケガだったので。もうすっかり」
事故に遭ったことは言わなくてもいいだろう。余計な心配をさせてしまうかもしれないし。
そんな郁弥さんの気遣いが透けて見える。
「それはよかったわ。私の方もたいしたことないから、この後娘に会って帰ろうかと思ってたところなの」
女性の朗らかなセリフに、
「娘さんがこちらの病院で働いてるそうです」
わたしは少し補助するように郁弥さんに告げた。
あの日先に行ってしまった郁弥さんは、この女性が娘さんのことを蹴人くんにお願いしたとは知らないはずだから、そのへんのことはまた帰ってから話そう。
「そうだったんですか。差し支えなければお名前をうかがってもよろしいですか?もしかしたら入院中にお世話になった方かもしれないので」
郁弥さんは控えめに質問した。
大きな病院なので職員の数も相当だろうけど、確かに、郁弥さんの言うように、わたし達の知っている人かもしれない。
すると女性は差し支えなんかまったくなさそうに、すんなりと名前を教えてくれたのだった。
「水間っていうの。入院病棟の看護師をやってるのよ」
その返答に、わたしと郁弥さんは同時に声をあげていた。
「水間さん?」
「水間さんですか?」
女性はわたし達の重唱に「あら、もしかしたらもう会ってたりするのかしら?」と、面白そうに笑った。
「入院中ずいぶんお世話になった方です」
郁弥さんの言い方には、当時の感謝の思いが込められているように感じた。
わたしもすぐに郁弥さんの後に続いた。
「わたしも、水間さんには色々と励ましていただいたり、話を聞いてもらったりして、本当に助けられました。素敵な看護師さんです」
わたし達の話をとても嬉しそうに聞いている女性は、同時に、誇らしげでもあった。
「そう……。あの子、頑張ってるのね」
そう呟いて優しく微笑む女性。笑った拍子に目じりのシワが深くなると、それは、母親の愛情の深さにも感じられた。
「いつも笑顔で、朗らかで、患者さんに対して包み込むような大らかな雰囲気もあって、他の看護師さん達からも頼られていて、きっと、わたし以外にも、水間さんに元気づけてもらった人は多いと思います」
いつもの考えすぎる癖はどこへ行ったのか、すらすらと、まるで水が上から下に流れるように、自然に、わたしは女性に水間さんのことを話していた。
「そうなの……、そうなのね……」
女性…水間さんのお母さんは、娘の話に激しく感情が動いたのか、目元を指先でそっとなぞった。
「やだ、歳とると涙もろくなっちゃって、やになっちゃうわね。あー、お恥ずかしい」
「そんな……」
わたしが話したことで女性の涙を誘ってしまい、とたんに申し訳ない気持ちが湧いてきた。
するとそれを察知した郁弥さんが、すかさず、わたしにも女性にもフォローを差し出してくれた。
「思わずその人柄の良さを訴えたくなるほど、娘さんは素晴らしい方ですよね。言われてみれば、お母様にもよく似てらっしゃる」
「やだ、そうかしら?」
女性はふふふ、とくすぐったそうに照れ笑いしながら最後の涙を拭った。
と、そのときだ。
「お話し中申し訳ありません。あの……」
少し離れた場所から、男の人の声が投げられたのだった。
そしてわたし達三人が揃って声の方を向くと、そこには――――――――
「あ!あなたも?」
真っ先に驚きの声をあげたのは水間さんのお母さんだった。
わたし達が振り向いた先にいたのは、あの朝一緒にいた、4人目の男性…人材派遣会社勤務の安立さんだったのだ。
安立さんはわたしと郁弥さん、そして水間さんの顔を順に見ると、
「やっぱり。すごいな、あの時と同じ顔ぶれですね」
興味深げに感嘆した。
わたしもびっくりしたけれど、人材派遣の仕事を考えると彼がここにいるのも不思議ではないのかもしれない。むしろ、わたしと郁弥さんの方がイレギュラーなのだろう。
「安立さん、お疲れ様です。お仕事ですか?」
この中で彼のことを一番知っているのは自分だと思い、わたしは率先して安立さんに話しかけた。
けれど、
「安立、さん…?どうしてみゆきがこの方の名前を知ってるの」
本人よりも早く返事したのは郁弥さんだった。
若干、声色が怖い。
「あ……、実はあれから社内で偶然お会いして………」
「いつもお世話になっております」
わたしの戸惑いながらのセリフを受けて、安立さんが上着の内ポケットからカードケースを取り出し、郁弥さんに名刺を渡した。
郁弥さんはそれを見るなり、表情をもとに戻してくれた。
「そうだったんですか。こちらこそお世話になっております」
自分の名刺を差し出し丁寧に頭を下げる郁弥さんは、もういつもの郁弥さんだ。
まだ仕事復帰していないのに名刺を持ち歩いてるなんて、さすがに営業成績トップのことだけはある。
「実は、諏訪さんのことは以前から存じ上げておりました。事故に遭われたとのお噂も……。お元気そうで、なによりです」
「え?!事故?」
安立さんの話した内容に、水間さんが大きく尋ね返した。
「いえ、事故と言ってもたいしたものじゃないんです。もうなんともありませんし」
すかさず郁弥さんが心配無用の態度を見せると、水間さんは「本当に?」と重ねて訊いてくる。
郁弥さんが「本当に大丈夫ですよ」と答え、わたしも「今はもうすっかり元気ですから、大丈夫です」と言い加えると、水間さんもそこで「だったらいいけど……」と驚きを取り下げた。
そして場を取りなすかのように、
「でも、これで四人そろったわけね」
打って変わって、弾んだ調子に言った。
「あとは蹴人くんだけですね……」
わたしも相槌を返したけれど、
「それはそうと、安立さん、お仕事は大丈夫なんですか?」
郁弥さんが気遣わしげに訊いた。
すると安立さんはビジネスバッグを持たない方の手を小さく何度も振ってみせたのだ。
「いえ、こちらには仕事で伺ったわけではないんです。実は面談していた方が…人事の坂井さんをご存じですよね?」
最後の質問は、わたしに向けられたものだ。
「もちろん知ってます。この前お会いしたときにお話しされてましたよね」
「ええ。その坂井さんと外で派遣社員の面談調整を行っていたのですが、途中で坂井さんの体調が悪くなってしまって、それで救急で……」
そう聞くや否や、わたしは立ち上がっていた。
「坂井さんが?!大丈夫なんですか?!」
わたしの慌てぶりに、郁弥さんも立ち上がってわたしの背中に手を当ててくれる。
「人事の坂井さんって、確か妊娠中の?」
「妊娠中?まあ、それは大変じゃない」
郁弥さんのセリフに、水間さんも心配げに重ねてくる。
けれど安立さんは落ち着き払っていて、「大丈夫ですよ」とわたし達に答えたのだった。
「軽い貧血を起こしたみたいで、少し休んだら帰ってもいいそうです。ご主人が迎えに来られるそうなので、もう安心ですよ」
その説明に、わたし達三人はホッとして、わたしは力が抜けたように、すとんと椅子に戻った。
「そうですか……よかった」
気持ちが漏れ出した一言だった。
「妊娠中は貧血になることも多いわよね。私もそうだったもの」
水間さんが ”大丈夫よ” という風に私の肩をぽんと叩いた。
それは経験者ならではの発言だったのだろうけど、坂井さんは以前流産になったこともあるので、それを知っているわたしはどうしても心配になってしまったのだ。
「でも、今日の午前中会ったときは元気そうだったんです」
そのときわたしが何か気付いていれば、救急搬送なんてされずに済んだかもしれないのに。
ネガティブ方向に考えが進んでしまいそうになると、突然、郁弥さんが横からわたしの頬を握ってきた。
「う……」
「ほら、これで終わり。わかった?」
郁弥さんには、わたしの考えていることが丸わかりだったようだ。
「……はい」
わたしはおとなしく降参した。
そして郁弥さんもわたしの頬から手を離したけれど、わたし達のやり取りを不思議そうに眺めていた水間さんと安立さんには、苦笑いで誤魔化すしかなかった。
「みゆきが、彼女の体調に気付けなかったことに申し訳ないと思うなら、それは安立さんだって同じだろう?それだけじゃない、今日朝から坂井さんに会っていた人達みんなが責任を感じなくちゃいけなくなる」
そんなの、あり得ない。
一笑に付す、というわけではないけれど、郁弥さんは笑いながら、わたしのネガティブにブレーキをかけてくれる。
「あら、そんなこと考えてたの?」
水間さんが驚いた顔をしながら「ないない、それはないわよ」と大きく手を振った。
少し呆れた色が含まれているようにも見えて、わたしは体が縮まる思いがした。
「そうですよ。それなら僕にも責任があることになるじゃないですか。でもどちらにせよ、坂井さんは大事に至らなかったわけですから、この話はもうここでおしまいにしましょう」
安立さんもわたしのネガティブを上向かせるように言ってくれて、さすがに、わたしも不必要な反省を止めることができたのだった。
「ありがとうございます…」
誰にでもなく、小さく口にしたお礼に、三人はほとんど同時に笑い返してくれた。
けれどそこに、また別の人物が話しかけてきたのだ。
「――――みゆきさん?」
今度は女の人の声で、しかもわたしの名前で呼びかけられて、誰よりも先に声の方を見上げると、わたしに可愛らしく手のひらを見せていたのは大路さんだった。
駆け巡る噂の功罪(2) より六話、同時更新いたしました。




