彼女の願いごと
翌週、朝一で外の仕事を終えて戻ると、一階のエントランスで浅香さんから声をかけられた。
「お疲れさま、和泉さん」
「あ…、浅香さん、お疲れさまです」
他部署でフロアも違う浅香さんは、基本的には社内で顔を合わせる機会は少なかったので、実は、郁弥さんの病室で会って以来顔を合わせてはいなかった。
つまり、わたしと郁弥さんが付き合いだしてから、はじめて浅香さんと言葉を交わすのだ。
幾ばくかの緊張感が腹部の奥で燻っている。
そんなわたしの内心に気付かない浅香さんは、まるで身内に対するように親しげに手を振ったりしながら近付いてきた。
「ちょっと久しぶりよね?」
浅香さんはわたしの前でぴたりと足を止めた。
わたしはそれを、立ち話開始の合図に感じた。
「そうですね。あ…、ご結婚、おめでとうございます。あと異動の件も、内定、されたんですよね?おめでとうございます」
つい今朝、正式に発表されたばかりの結婚と、郁弥さん経由で内密に教えられていたヨーロッパ転勤について触れてみた。もちろん、後者は周囲に漏れないよう、声のボリュームをしぼって。
浅香さんは「ありがとう」と幸せそうに笑って返した。
わたしは、浅香さんに ”なんであなたが知ってるの?” という顔をされなかったことに安堵した。
「でも私なんかより、今は諏訪くんの方が浮かれてるんじゃないかしら?」
幸せな笑顔が、クスクス笑いに変わった。どちらかというと、愉快げな笑いだ。
「諏訪くんと戸倉くんからはざっくりしたことしか聞いてないんだけど、今度は和泉さん本人からも聞かせてほしいわ」
浅香さんが ”諏訪くん” と苗字で呼んだことに心が敏感になったけれど、浅香さんには悟られないようにしなくちゃと、わたしは言葉は発しないで愛想笑いで対応した。
そんなわたしの態度を穿つことなくそのまま受け入れてくれた浅香さんは、
「ね、今日一緒にランチしない?」
いかにもキャリアっぽいメイクを施した目を可愛らしく細めて誘ってくれた。
けれど、あいにく今日は午後から予定があるのだ。
予定といっても、それは仕事ではなく……
「すみません、今日は午後から有休を取ってて…」
「あらそうなの?そっか、それは残念」
浅香さんは本当に残念そうに眉を寄せた。
けれどすぐ、なにかを思いついたように、
「もしかして、和泉さんの午後からの有休と、諏訪くんが明日から出社する予定になってるのは、なにか関係があるのかしら?」
また楽しげに訊いてきた。
思いきり見抜かれてしまったわたしは、思わず「え?」と上ずった声を出していた。
「ふふふ、図星ね」
浅香さんの満足げな表情に、わたしは認めるしかなかった。
「……はい、そうです」
「やっぱり!昨日諏訪くんと電話で話したとき、今日は午後から病院に行くって言ってたけど、和泉さんが付き添うわけね?」
「はい。たまたま今日のわたしのスケジュールが相手の都合でキャンセルになったので……」
「そうなんだ。二人がうまくいってて、すごく嬉しいわ」
何気ない浅香さんの話に、ピンとわたしの中のなにかがアンテナを立ててしまう。
今はもう二人の関係を勘ぐったりはしないけれど、郁弥さんに片想いしてる間、ずっと二人の噂を信じていた時間は、わたしの心中に多少の残骸を置いていったのかもしれない。
けれど、わたし達のことを ”嬉しい” と言った浅香さんに、嘘や誤魔化しは一切感じなかった。
浅香さんは周囲に社内の人間がいないのを確認しながら、
「和泉さんだから話すんだけど、私を含めて仲間内みんな、諏訪くんにはちょっとした負い目みたいなものがあったから、その諏訪くんが好きな人とうまくいってくれて本当に嬉しいの」
「負い目……」
負い目と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、たったひとつだった。
「あの、……もしかして、昔……女性に対する態度のことで、アドバイスされたことですか?」
「もう聞いてたの?」
浅香さんは少々驚いたような反応を見せてから、声をひそめた。
「そうなの、ちょっと気をつけなさいよ、ってつもりだったんだけど、本人にはそう受け取れなかったのね、急に女の子によそよそしくなっちゃって……。悪いことしちゃったと後でみんな反省したんだけど、それ以来、こいつはまともな恋愛ができないんじゃないかって、よく心配してたのよ」
話がこみ入ってきたせいか、浅香さんはわたしをエントランス端のソファに誘導しながら、声のボリュームをさらに下げていく。
わたしはそのソファに腰をおろしながら、以前、郁弥さんと浅香さんの仲を勘違いして失恋確定だと落ち込んだときのことが頭をよぎった。
あのときはソファに座ることなく、観葉植物の陰に隠れて気持ちを宥めていたんだっけ。
「だけど和泉さんと出会ってからの諏訪くんを見てたら、私達の心配が杞憂に変わったわ。だって諏訪くん、他の女子社員の前では無口で素っ気ないフリしてても、和泉さんが営業に顔を出した日なんて、ウキウキしてたもの」
クスクスと手を口に当てながら笑う浅香さんだった。
それはなんだか、姉が弟のことを話すような仕草にも見えた。
まだまだ心が波立つときもあるけど、ちょっとでもこんな風に思えるようになったのは、やっぱり、わたしと郁弥さんの関係が変わったせいだろうか。
そう思うと、なんだかちょっと照れくさくなったりして。
「それで…、」
浅香さんはまだなにか続けようとしたけれど、すっと視線がわたしの後方に逸れたかと思えば、
「あ、坂井さーん!」
急に声を張って、手を振ったのだった。
わたしもつられるようにして、浅香さんが手を振る方に顔を向かせると、そこには、ちょうどエレベーターからおりてきた女性がいた。
うちの社員で、最近妊娠したという、あの人事課の女性だ。
わたしも知らない間柄ではないので、ぺこりと会釈した。
坂井さんは浅香さんの手招きに応じ、スススッとわたし達のいるソファまでやってきた。
「お疲れさまです」
「お疲れ。どこか行くの?」
「そうなんです、今日は外で面談があって」
「あら、じゃあ呼び止めてごめんなさい。体調は大丈夫なのね?」
訊かれた坂井さんは、手をそっと自分のお腹に当てながら、
「ええ。今度は順調です」と答えた。
幸せがコロコロと音をたてて転がり出てくるような表情だ。
でもその会話で、わたしは、坂井さんの事情や、それを浅香さんが知っていることを悟った。
坂井さんはわたしを向くと、
「諏訪さん、明日から出社するのよね?よかったわね」
にっこりと笑う。
おそらく坂井さんも、わたしと郁弥さんの噂を知っているのだろう。
わたしは笑い返し、「そうですね」と頷いた。
「諏訪さんには、以前、体調がよくないときに助けてもらったことがあるの。だから諏訪さんの意識が戻ったって聞いたときは涙が出るほど嬉しかったのよ」
坂井さんの感情がこもった言い方に、わたしも胸にくるものがあった。
「諏訪くんが坂井さんを?」
浅香さんは意外そうに声をもらした。
社内の女性には必要以上に親しく接しない、というのが郁弥さんの基本態度であると承知していた浅香さんからしたら、不思議に感じたのだろう。
けれど、坂井さんは既婚だし、郁弥さんに特別な感情がないことは明らかで、そのうえ、”体調がよくない” という条件も加われば、郁弥さんがその基本態度を崩したとしてもおかしくはない。
「そうなんです。私の顔色がよほど悪かったんでしょうね。立ちくらみがしたのを助けてくれて…助け方もクールでしたけど」
坂井さんは軽く笑ってから、「だから……」と、わたしに言葉を向けた。
「本当によかったわ」
「……わたしも、そう思います」
”ありがとうございます” と返せるほど、まだわたしの中には郁弥さんの身内感覚は育ってなかった。
控えめに同意したわたしに、浅香さんと坂井さんは優しく微笑んでくれていたのだった。
※※※※※
郁弥さんとの待ち合わせは、会社の最寄り駅だった。
車で迎えに来てくれた郁弥さんと近くのカフェで軽く食事をしてから、わたし達は病院に向かった。
郁弥さんのメガネ姿にも少しは慣れてきたけれど、やっぱり、今日はじめて顔を合わせた瞬間はドキリとしてしまう。
わたしはささやかな動揺を隠しつつ、助手席におさまっていた。
午後の外来受付は、わたしが知ってる朝の混雑した様子とはまったく違って、あまり人がいなかった。
「患者さん、少ないですね」
受付を済ませ、待ち合いの椅子に座りながら、そっと郁弥さんに耳打ちする。
救急外来がある病院なので、遠くで救急車のサイレンは聞こえてくるけれど、それ以外は穏やかな風景が広がっていたのだ。
「一般外来は午前だけだからね。午後からは予約診療だから、そんなに混んでないんだと思うよ」
郁弥さんはメガネ越しにわたしを見つめながら教えてくれる。
わたしはドキリとした自分を心の中で小さく叱った。
ここは病院なんだから。
いちいちときめいてる場合ではないのだと。
郁弥さんはわたしの微かな動揺を察知したのか、フッと、余裕ある顔つきで笑う。
ちょうどそのとき郁弥さんの名前が呼ばれ、郁弥さんは「はい」と立ち上がった。
「それじゃ行ってくるよ」
「ここで待ってますね」
手をあげて診察室に向かう郁弥さんを、わたしも同じ仕草をしながら見送った。
ひとり残されると、妙な落ち着きのなさが芽生えてきて、わたしはなんとなくバッグを開いた。
けれど中からなにかを取り出す前に、
「あら、あなたもしかして……」
背後から声をかけられたのだった。
振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。
とっさには分からなかったけれど、そのざっくばらんな笑い方で思い出した。
駅で蹴人くんとはじめて会ったとき、一緒にいた女性だ。
「あのときの…」
わたしが反応を示すと、女性はホッとしたように笑いジワを濃くした。
「よかった、覚えててくれて。こんなとこで会うなんて奇遇よね」
嬉しそうに声を弾ませてから、女性はハッとして、
「でもここにいるということは、どこか悪いの?」
一転、心配げな表情に変わった。
「あ、いえ、わたしはただの付き添いなんです」
わたしは女性を安心させるべく否定したのだが、女性はまだ安心しきれなかったようだ。
「あら、じゃあお連れの方の体調がよくないのね」
「いえ、そうじゃなくて。……この前退院したんですけど、今日はその後の診察で。本人はもう元気なんです」
そこまで言うと、女性もやっと憂いを消してくれた。
「それなら良かったわ」
母親ならではというのだろうか、朗らかな笑い方は、こちらまでもを安心させるようなものがあった。
「あの……」
あなたはどちらかお悪いんですか?
話の流れではそう尋ねて然るべきなのかもしれない。
けれど、そんなプライベートな内容に踏み込んでいいのだろうかと、にわかに迷った。
もともとこの女性がはじめに訊いてきたのだから、こちらが同じことを訊いても失礼にはならないと思うけど、それでも、やっぱり躊躇いは拭えなかったのだ。
すると、わたしの躊躇を察知してくれたのか、女性自ら話してくれた。
「ああ、私もそんな病気じゃないのよ?私はね、血圧が高めだから、定期的に通ってるの。家からはちょっと遠いんだけど、娘がここで働いてるから先生方とも顔見知りなのよ。近くの全然知らない病院よりいいでしょ?」
女性はアハハ、と歯を見せながら、わたしの隣に腰をおろした。
わたしはこの女性に、あの朝と変わらない、いい印象を覚えた。
けれど、女性が『娘』と言ったことで、あの朝の会話も思い出したのだった。
「娘さん…て、あのとき蹴人くんにお願いしてた、あの娘さん、ですか?」
これもプライバシーに踏み込み過ぎかなと思ったけれど、蹴人くん絡みとなると、聞き逃すことはできそうになかった。
女性は「そうそう」と思い出したように頷いてみせる。
「あの男の子、蹴人くんっていったかしら、あの子に娘のことをお願いしてから、なんだかいい方向に変わっていってるみたいなのよ。もしかしたら本当にあの子が私のお願いをかなえてくれたのかもしれないわね」
この女性は、きっとあれ以来蹴人くんとは会っていないのだろう。
だから、蹴人くんのことを普通の男の子だと思っている。
よもや、あんな小さな男の子が自由に姿を現したり消したり、人の心の中を読んだり、そんな不可思議なことができるとは夢にも思わないだろう。
そしてたぶん、それはあの朝一緒にいた派遣会社の安立さんも同じはずだ。
以前社内で会ったときの話した感じでは、蹴人くんとはあの朝一度しか会ってない様子だったから。
「不思議な男の子だったわねぇ」
隣で、本当に不思議そうに言った女性。
わたしは、蹴人くんと何度も会っていることを女性に話さない方がいいと思った。
結果として女性の ”お願い” が叶ったのであれば、それは蹴人くんのおかげでも、たまたまの偶然でも、どちらでもいいと思ったからだ。
「そうですね……不思議な子ですね」
わたしは、女性に素直に同意した。
郁弥さんの意識が戻ってから、蹴人くんは一度も姿を見せていない。
実は、あれから何度か蹴人くんに呼びかけてはみたのだけど、前みたいにすんなりわたしのところに来てくれなかったのだ。
それでもわたしは、ふと頭に浮かぶたびに、『蹴人くん、いる?』と声に出していた。
蹴人くんに、会いたかったからだ。
会って、お礼が言いたかった。
なぜならわたしは、郁弥さんの意識が戻ったのはただに偶然ではなく、蹴人くんのおかげだと信じているから。
だからそのお礼を、どうしても伝えたかったのだ。
なのに蹴人くんは、あれ以来ぴたりとわたしの前には現れなくなった。
わたしがお願いを話したことで、もう、わたしに会う用事がなくなってしまったせいだろうか。
でもできることなら、郁弥さんと一緒に、また蹴人くんに会いたかった。
元気になった郁弥さんを見てもらいたかったし、わたしが郁弥さんに気持ちを伝えたことも報告したい。
だけど、あの小さな男の子は、きっとわたし達の常識で片付けられるようなところにはいない気がしていた。
神出鬼没で、人の心の中が分かる、関西弁の、不思議な不思議な男の子だから………




