体温と寝息の効能(3)
「あ……」
「前から可愛いとは思ってたけど、ここまでとは…」
わたしの横に腕をつき、自分の体重がかからないようにしてくれてるけれど、足はそれとなく絡んできて、恥ずかしいのか照れ臭いのか、わたしは両手で郁弥さんの胸を叩いていた。
「い、郁弥さんだって、こんなに甘いこと言う人だとは思ってませんでした!」
可愛いなんて甘く囁かれたことで、おおいに動揺してしまったのだろう、悔しまぎれにそう言い返した。
郁弥さんは、お?という感じに足の動きを止め、わたしの上から降りてくれた。
その分距離はできたけれど、その代わりに郁弥さんの指がわたしの頬をなぞってくる。
今度は握られはせず、ただその先っぽから伝わる温もりを辿るだけ。
そして郁弥さんは楽しそうに言った。
「会社の子には無口だとか言われてるみたいだけど、実際のオレは好きな女の子を甘いセリフで口説く、普通の男だよ。さっきも言ったけど、オレの気持ちはけっこうな重さなんだ。それを知ったら、みゆきは引くかも」
「引きませんよ」
わたしはきっぱり言い切る。
「だといいけど。なにしろ、オレはみゆきがうちに入社したその日からみゆきに片想いしてるんだからね」
「………え?」
驚いたわたしは、ものすごい勢いで体を起こした。
そして郁弥さんに視線で詳細を求めると、郁弥さんもゆっくり起き上がり、ベッドの上で胡坐になったのだった。
「入社式の帰り、みゆき、何かなかった?」
胡坐の片方の膝を立て、郁弥さんはそれを両腕で挟んだ。
どこか、わたしの反応をうかがっているような態度だ。
「入社式……?」
入社式、帰り……ヒントとなる単語を頭に並べ思い出していると、すぐにあることにヒットした。
「もしかして、道の真ん中で派手に転んだことですか?」
「うん。実は、あのときオレ見てたんだ」
「え……」
わたしは、信じられないことを聞いたときの反応のテンプレート、絶句をするしかなかった。
郁弥さんが言ってるのは、わたしが入社式からの帰り、人の往来がたくさんある道の真ん中でつまづいて転んだことだった。
第一希望の会社に入れて、幸せいっぱいだったわたしは、駅に向かう途中の、何もないアスファルトでつまづき、みごとに転んだのだが、”いいことの後には悪いことがある” という方程式通りだと、あきらめのような感情を持って膝の擦り傷を受け入れたことを思い出した。
……あれを、郁弥さんに見られていたなんて。
ドッと体中が熱くなって、毛穴という毛穴から湯気が出てきそうになった。
わたしが転んだ場所は会社からもさほど離れていなかったから、仕事で外出していた郁弥さんが偶然通りかかって目撃したとしてもおかしなことじゃない。
でも………、
待って。あのあと、わたしどうしたっけ?
衆人環視の中どうにか立ち上がって、膝の擦り傷が目に入ったのは覚えている。
ストッキングも破けていて、痛いうえに恥ずかしくて。
でもそのあとのことは、あまりにもテンパりすぎていて、よく思い出せないのだ。
入社式のあと記念撮影とオリエンテーションがあったけれど、そんなに時間はかからなくて、確か、会社を出たときはまだ夕方にもなっていなかったはずで。
だから周りには、小さな子供をつれた女性とか、年配の方がいらっしゃった記憶がある。
周りからの視線を強烈に感じたわたしは、急いでその場を離れて、それからどうした―――――――?
「……コンビニ!」
「コンビニで…」
二人同時に同じことを言ったわたし達は、互いに「あ…」という顔で見つめ合って、それから声を出して笑った。
「すごいタイミングだな」
「本当に…。コンビニに駆け込んだところも見られてたんですね」
「転んだときに鞄からうちの封筒が見えて、うちの新入社員だというのは分かったし、ちょっと痛そうにしてたのが気になったから、様子をうかがってたんだ。せめてコンビニから出てきて、ケガがたいしたことないのは確認しておこうと思った。それで……」
郁弥さんは続きを話そうと短い息継ぎをしたところで、スッとセリフを取り下げた。
「あの日のことを話す前に、ちょっとだけ、オレのことを話してもいい?」
なぜだかそんな確認をしてきた郁弥さんに、わたしもなぜだか正座して、聞く姿勢になった。
足がむき出しなのには抵抗があったので、膝の上に布団は掛けたけれど。
「もちろんです。聞かせてください」
わたしが言うと、郁弥さんは「ありがとう」と告げてから話しはじめた。
「もう分かってると思うけど、オレは、社内で噂されてるようなクールでも無口でもない。よくしゃべるタイプでもないけど、一般的な、普通の男なんだ」
多くの女性社員から憧れられ、仕事も完璧な郁弥さんが ”普通の男” とは到底思えなかったけれど、郁弥さんなりに思うところはあるのだろう。
わたしは変な相槌を打つことはせず、黙って話の先を待った。
「だけど、どうもオレがフランクな態度で接すると誤解を与えてしまうことがあるみたいで、10代の頃から時々トラブルもあった。つまり……、自分で言うのもあれだけど、オレの外見が異性にどう思われるのか、嫌でも意識せざるを得ない状況になったんだ。中、高は男子校だったから、特にひどかったのは大学時代だな。同じ講義を取ってた女の子達と何度か会話を交わしたら、彼女達を誤解させてしまったみたいで……。浅香に言わせると、オレは無闇に不必要な優しい言葉を吐いていたそうだ」
急に浅香さんの名前が出てきて、少なからず心と体が反応してしまう。
それはほんの微かな動揺だったけれど、郁弥さんは見逃さなかった。
無意識のうちに布団を握りしめていたわたしの拳を、両手で優しく包んでくれたのだ。
「浅香は大学のクラブで知り合ったんだけど、はじめっからサバサバしてて男友達みたいな付き合いだった。だから、あいつもオレに対して遠慮したりせず、思ったことをそのまま言ったんだと思う」
ぽんぽん、と郁弥さんの指先がわたしの拳を叩いた。
浅香さんとは男友達みたいな付き合いと聞いて、心が凪を得た。
頭では分かっていても、やっぱり気持ちは複雑なところがあったのかもしれない。
「オレ、甘いものが好きだろう?大学に入ると高校とは違ってそれが共通の話題になる女子も多くて、女友達も増えていく中で、浅香に『あんたにそんなつもりなくても女の子は勘違いするから、気をつけなさいよ』と指摘されたんだ。その後も、浅香以外の同級生からも似たようなことを言われた。もちろんオレはそんなつもり一切なかったけど、何気なくかけた言葉が、相手に思わせぶりにも受け止められるんだそうだ。一般的な男よりも細かなことに気が付いて、いちいち優しい……だから女性が誤解する。そう言われて、正直戸惑った。だってオレは、誰にでも同じように接してたつもりだったから。はじめは勘違いする方がおかしいんじゃないかとも思ったけど、そういう…勘違いした女の子と行き違いやトラブルが何度かあるうちに、やっぱりオレが悪いのかと悩みだした。もとからネガティブなところがあったし、後ろ向きに悩んでいった結果、大学を卒業する頃には、意識的に口数を減らしていたんだ」
ほら、後ろ向きだろ?
郁弥さんは自嘲する。
けれどわたしには痛いほど理解できた。いや、わたしだったら、浅香さんから最初に指摘された段階でそうしていたかもしれない。
郁弥さんはまたわたしの手をキュッと握って、話を続けた。
「周りの奴らは、オレのメガネ姿もよくないんじゃないかと言い出したから、これも意識的に掛けないようにした。オレの顔立ちはどちらかというと冷たい印象を持たれるみたいで、メガネを掛けるとその冷たさが緩和されるそうだ。だから会社では必ずコンタクトを使うことにした。そうしたら、今度は ”諏訪郁弥は無口でクールな男” と言われるようになった。といっても、営業の仕事柄社交性を捨てるわけにはいかない。取り引き相手と打ち解けるための会話は必須だろう?だから例え相手が女性でも仕事上では普段通りにしていたし、大学から知ってる浅香や同期の男連中の前じゃ気を遣う必要はなかったから普通にしゃべってたんだ。だから、”無口でクール” なのは、社内で女性社員の目があるとき限定だった」
はじめて聞くことばかりだったけれど、その説明に合点がいくことも多かった。
一呼吸おいた郁弥さんは、わずかに表情を変えた。
「……だけど、ある取り引き先の担当者から好意を持たれたのがきっかけで、オレは更に神経を張って人と接するようになっていったんだ。昔のオレなら、人から好意を向けられるのはさほど苦じゃなかった。でも浅香から指摘されて以来、自分の言動が正しいのか自信がなくなっていったせいで、女性からの好意も避けるようになった。そしてそんな気の張る毎日に、ちょっと疲れてた。そんな頃だよ、みゆきを見かけたのは」
郁弥さんの内面を辿る途中、突如として出てきた自分の名前に、わたしは肩を大きく揺らした。
「わたし、ですか……?」
「うん。今言ってた、入社式の日だよ」
郁弥さんは、心なしか懐かしむように視線を宙に投げ、唇の端を持ち上げた。
「あの日も、朝から出向いた取り引き先の担当者に食事に誘われて、オレは、失礼のない範囲で、なるべく相手に気を持たせないように、そっけなく断っていた。仕事に影響が出ないように、場の雰囲気が悪くならないように、でも勘違いさせないように……。みゆきなら分かってくれるんじゃないかな、気持ちが疲れてマイナスに考えがちだったオレは、彼女に何か期待させるようなことを言ってたんじゃないか、オレが悪かったのかもしれない…と、一人で反省していた。反省というより、自分を責めてしまっていたところもあるかな。そんな風に考えながら一旦社に戻って次の取り引き先に移動していたんだ。仕事は好きなはずなのに、それ以外のことで神経をすり減らして、結構参ってたんだろうな。……だから、転んでケガをしてる女の子がうちの新入社員だと分かっても、声をかけることすらしなかった。……以前のオレなら、考えられないことだったのに」
郁弥さんの顔から、笑みが歪んで消えた。
わたしは何かフォローしなくちゃと、郁弥さんに体を向かせた。
「でもそれは、まったく知らない相手なんですから、しょうがな…」
「しょうがないことない。オレは自分の事情で、目の前でケガをした女の子を助けもしなかったんだ。しかも、自分の後輩にあたる女の子を」
まるで懺悔するような告白に、わたしはそれ以上の返しを戸惑った。
「それでも、その女の子のケガの具合が気になったオレは、少し離れたところから彼女の様子をうかがった。そうしたら女の子は近くのコンビニに入って、すぐに出てきた。膝を擦りむいて痛そうで、歩きにくそうだったけど、彼女は駅ビルに向かった。オレもちょうど駅へ行くところだったから、自然とあとをつける形になって、彼女が駅ビル広場のベンチに腰かけるのを見届けてホッとした。もう大丈夫かと思って前を通り過ぎながら盗み見たとき、彼女の独り言が聞こえてきたんだ」
おとなしく郁弥さんの話を聞いていたわたしは、「え?」と訊き返していた。
あのとき、郁弥さんが言うようにベンチに座ったのは覚えている。
コンビニで買った絆創膏で傷の手当てをするためだ。
でも、独り言なんて全然記憶にない。
郁弥さんは「覚えてないんだ?」と、ちょっとだけ意外そうに言った。
「オレを惚れさせた一言だったのに、言った本人が忘れてるなんてな」
フッと、郁弥さんは笑ったような気がしたけれど、つぎの瞬間、またベッドに押し倒されてしまった。
「あ……」
くるっと回された体は、あっという間に郁弥さんの下に組み敷かれ、そのまつ毛も正確に数えられるような近さで吐息を感じた。
「『これがわたしなんだから、しょうがない』」
郁弥さんは、わたしの肩まで掛け布団を引き上げながら言った。
「あのとき、みゆきが言った言葉だよ」
嬉しそうに教えてくれた郁弥さんだったけど、それは、どう聞いても、恋愛のきっかけになりそうな言葉ではなかった。
むしろ、ネガティブなわたしらしい、いかにも後ろ向きな諦めのセリフだ。
「………そんなのが、郁弥さんの気持ちを動かしたんですか?」
胡乱げに尋ねると、郁弥さんはクスッと楽しそうに笑い返した。
そして大きな手のひらでわたしの頭を撫でながら、
「『これがわたしなんだから、しょうがない。今日はいいことがあったんだから、これくらいは平気平気』そう言って、みゆきは笑ったんだよ」
これがわたしなんだから、しょうがない。
今日はいいことがあったんだから、これくらいは平気平気――――――
わたしの頭の中に、あのときの光景が一気に広がっていった。
『……なんでいっつもこうなのよ。せっかく第一希望の会社に入れたのに……』
駅ビルのベンチに座ったわたしは、ストッキング越しの擦り傷を、痛々しくて、恥ずかしくて、情けなくて、惨めに眺めていた。
ストッキングの破れた部分から膝の傷に絆創膏を貼りながらも、心はどんどんネガティブになっていった。
緊張と期待がまざった入社式と、関連のスケジュールを終え、ホッとした気分だったはずなのに、血の滲んでいる膝はひどくわたしを沈ませたのだ。
そのとき、ふと、今日のために新調したバッグから社用封筒がのぞいてるのを見つけ、その瞬間、わたしの内心はぐるりと回転したように、まるで見える風景が変わった。
……そうよ、わたし、今日からこの会社の社員なんだから。
第一希望の会社に入れたんだから、その代わりにちょっとくらい悪いことがあってもいいじゃない。
こんな膝の擦り傷ひとつくらい、まだ安いものよ。
今日の入社式の感動を考えれば、おつりがくるくらいだわ。
それに ”いいことの後の悪いこと” は、はじめてじゃないでしょ?
ババババッと、ネガティブなわたしを励ます感情の波に押された直後、
『これがわたしなんだから、しょうがない。今日はすっごくいいことがあったんだから、これくらいは平気平気―――――』
口を突いて出たセリフだったのだ。
そう呟いたとき、自分が笑ったのかどうかまでは覚えていないけれど、気持ちがとても軽くなったのは覚えている。
膝は痛かったし、今朝新しく出したばかりのストッキングもダメにしちゃったけど、憧れの会社に入れた今日は、間違いなく、”良い日” に違いない。
こんなアクシデントに負けないほどに。
そんな思いがこみ上げていたのだ。
………でも待って。つまり、郁弥さんはあのときのわたしの一部始終を見ていたわけよね………?
改めて思い返すと、急速に狼狽が芽を出してきた。
「え、やだ、郁弥さん、全部見てたんですか?」
あのときのわたしは、きっとものすごく酷い格好だっただろう。
ストッキングは破れて、髪だって乱れてたはずだし、ジャケットだって転んだ拍子に着崩れてしまった記憶があるもの。バッグからはいろんなものがはみ出して、だらしがなく見えたかもしれない。
思い出した事実に、わたしは顔が熱くなるのを通り越して、血の気が引いていきそうだ。
確かにあのとき、一瞬迷ったのだ。化粧室まで行くか、さもなくばもっと目立たない場所、コインロッカーの陰とかで手当てをするべきか。
でもあの時間帯はそこまで混んでもなかったし、なにより、早く膝の痛みをどうにかしたかった。
だけどちょっと考えれば、会社の最寄り駅なんだから、社内の人が通りかかる可能性は高かったはずで。
………それが、郁弥さんだったのだ。
「あんな恥ずかしいところを見られてたなんて……」
恥ずかしさのあまり、今、すぐそばにいる郁弥さんの目を見られない。
すると郁弥さんは肘を立てて、わたしの頬を両手で挟んできた。
「恥ずかしくなんかない。あのときのみゆきに、オレは惹かれたんだから」
分かった?
力強く、念押しのように問われて、わたしは渋々ながら、こくりと頷いた。
その反応に、満足した様子の郁弥さん。
そして掛け布団を捲り、中に入ってくると、今度はしっとりとわたしを抱きしめた。
「あのときのみゆきの言葉と笑った顔が、ずっと忘れられなかった。こんなに、オレよりずっと年下の女の子なのに、『これがわたしなんだから、しょうがない』と笑える強さを持っていると思って、その強さに、強烈に惹かれたんだ。オレは自分の言葉や態度が相手にどう受け取られるのかを気にしすぎるあまり、目の前で転んだ女の子を助けもしなかった。そんなオレに、『これがわたしなんだから、しょうがない』その言葉が、すごい勢いで刺さったんだよ。だからきっとオレは、そのときから、ずっとみゆきに憧れていたのかもしれない」
「そんな……」
郁弥さんがわたしを好きだというだけでも信じられないのに、まさかわたしに憧れてただなんて、信じられないをはるかに越えて、おこがましい。
「そんなの、たまたまそのときはそう言ったけですよ。今もお話ししたように実際のわたしはどうしようもないくらいのネガティブなんですから……」
あの日は入社式の帰り道だということもあって、どこか通常と違うテンションがあったのかもしれないし、そんな一時的な言動は、本来のわたしではないのだから。
ところが郁弥さんは、まるでわたしに反論の時間を許さないかのように、サッと唇を重ねてきたのだ。
「ん………」
そして短いキスのあと、
「オレにとっては、今のみゆきもあのときのみゆきも同じだ」
かすれた声で囁いた。
「……だからもう、オレがみゆきを好きだということを、疑わないでほしい。オレがみゆきを好きになった理由もきっかけも、ちゃんとあっただろ?例え、みゆきが、自分に自信がなかったとしても、オレがみゆきを大切に想っているということにだけは、自信を持っていてほしい」
そう郁弥さんから ”お願い” されて、わたしは揺らしていた視線を郁弥さんの瞳に戻した。
目が合うと、郁弥さんは羽毛のようにやわらかく微笑んでくれた。
「みゆきが好きだよ」
甘やかな口づけが、しっとりと、確かな想いを乗せてわたしに戻ってくる。
わたしも同じ気持ちでいることを、どうやって郁弥さんに伝えようか。
そう迷いながらも、いつしか深くなっていく熱を追うことに必死になっていて、結局、わたしは郁弥さんの熱に応えることで気持ちを伝えることにした。
混ざり合っていく体温に気持ちよさを感じはじめると、思い返すのは、あの健やかな寝息の愛おしさだった。




