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体温と寝息の効能(2)






「へぇ。オレと一緒だ」


優しく合いの手を入れるように言ってくれた郁弥さんに、わたしはフルフルと大きく頭を振って否定してみせる。


「それだけじゃないんです。わたしはネガティブなうえに、いろんなことを考えすぎる面倒な性格なんです。ネガティブに加えて考えすぎ、ですから、もうあることないこと引っくるめて悪い方へ悪い方へ考えてしまって……。だから結局、今の質問も、コップの水がわたしにとっていいものなのか、毒みたいに悪い影響があるものなのか、多い方がいいのか、少ない方がいいのか、そういう細かい部分までが気になって、本筋の ”まだ” とか ”もう” とかの答えまで辿り着かないというか……」


郁弥さんが言ったのとは違った意味で、”その時々で違ってくる” のだ。

彼は前向きに捉えるための ”その時々” だったけれど、わたしのはどこまでも否定的で。

郁弥さんは黙ってわたしの話を見守ってくれていた。


「……こんなの、他人から見たらただの優柔不断なんだろうけど、でも考えすぎる性格は簡単にはなおらないんだから仕方ない。そう思っても、やっぱりマイナス思考だからどんどん落ち込んじゃうし、自分に自信がなくなっていくし、だから……だから、こうやって郁弥さんと付き合えたのも信じられないし、どうして郁弥さんがわたしを好きになってくれたのかも分からないし、社内でわたしと郁弥さんの噂があるのも知ってるけど、どう対処したらいいのか分からなくて、それを郁弥さんに相談しなくちゃって思うのにそれもできない。わたしって本当に考えてばっかで、自信がなくて、臆病で怖がりで、どうしようもなく面倒な人間なんだと思う。だから……」


一気に打ち明けたわたしは、隣の郁弥さんを不安な思いを持って見上げた。

郁弥さんは驚いたり同情の色を滲ませず、瞳には、ただフラットな感情のみを浮かべていた。


「……だから、こんな後ろ向きな話をして、郁弥さんにどう思われるのかも、怖かった」


湖面のようにフラットだった郁弥さんの瞳に、さざ波が踊るのが分かった。

郁弥さんはペットボトルを持たない方の腕をわたしに伸ばし、肩を抱き寄せた。


「……オレだって、オレンジジュースの話をして、みゆきになんて思われるのか不安はあったよ。験かつぎなんか気にするなんて気の小さい男だな、そんな風に思われないか、心配になった。あのときは完璧にオレの片想いだと思ってたし」


トントンと、郁弥さんはわたしの肩を母親が子供を寝かせるように叩く。

当たり前だけど、わたしはもう子供ではない。なのに、この規則的な振動に、とても癒される思いがした。

まるで手のひらから ”大丈夫だよ” と言われてるようで。


「……郁弥さんも、不安に思うことがあるんだ……」


よほど意外だったのか、わたしはつい、そんなことを口走っていた。


「オレをなんだと思ってるんだ?クールとか言われてても、オレにだって不安はあるよ。むしろみゆきに関しては不安だらけだ。しかも、こんなにみゆきのことが好きなのに、当の本人はオレに想われてる自信がないと言っている。これで不安に感じるなっていうのが難しいだろ?」


半ば呆れたように訴えた郁弥さん。

別に責められたわけではないのに、わたしは申し訳ない気持ちがいっぱいになって、


「すみません……」


もう何度めかの『すみません』を口にしていた。


郁弥さんはフゥ…と短く吐き、


「みゆきに謝ってほしいわけじゃない」


言いながら、ぽん、と今度はわたしの頭を叩いた。


「ただ、オレの気持ちは疑わないでほしい。みゆきがどんなに深く考えすぎる性格でも、それだけは、信じていてほしい。それに…」


少しセリフの速度を落とした郁弥さんは、わたしの頭から手を離すと、じっと顔と顔を向かい合わせてきた。

こうして目の前でよく見るたびに、その整った顔立ちを改めて素敵だと思う。

郁弥さんに対する想いは、上限知らずで増していくばかりなのだ。


そうして、今も例外なく、郁弥さんのその綺麗な顔に胸が逸りだしたとき、


「みゆきの考えすぎるっていう癖は、別に悪いものじゃないだろう?」


まるで昨日の天気を告げるように、誰もが把握してる決定事項のように、郁弥さんは言ってきたのだ。


悪いものじゃない―――――――そう評されたのははじめてだった。


けれどいくら郁弥さんの発言でも、たとえそれがわたしを想っての慰めだったとしても、わたしはとても同意できるがずはなかった。


「そんなの、悪いに決まってるじゃない」


感情が高まったのか、わたしはまくし立てるように言った。


「なにかあるといつもいちいち立ち止まって考えて、些細なことでも悩んだり迷ったり傷付いたりして先に進めないし、考えたからといって必ずしも答えが出るわけじゃないもの。ただの時間の無駄遣いになるときだってあるし、第一、ただでさえ後ろ向きでネガティブなのに、さらに考え込んで前に進めないなんて最悪じゃない?他の人から見たらちょっとしたことなのに、ネガティブだからめちゃくちゃ後悔したり反省したり傷付いたりして、こんなじめじめした性格、わたし自身が大っ嫌い!」


郁弥さんを攻撃する意図はなかったのに、言葉が乱暴になってしまう。

グラスを持つ手が微かに震えてしまうほどに、わたしの感情は出口を探して暴れていた。


そのくせ、そんな口調で郁弥さんにぶつけてしまったことを、わたしはすぐさま後悔した。

だってこれはわたしの問題で、郁弥さんは関係ないのだから。

郁弥さんの言ったことを否定するにしても、もっと言い方があるはずで。


後悔が、ムクムクと大きくなって渦巻きだす。

ところが、郁弥さんはそんなわたしにサッとキスしてきたのだ。


「――――っ?」


いきなりの行為に、わたしの後悔も感情も、悪癖さえも、ピタリと動きを止めたようだった。

吐息がかかるほどの距離に、郁弥さんの少しタレた目がわたしを捉えている。


「みゆきがそう感じてるなら、それを全部違うとは言わない。けど……やっぱりオレは、考えすぎるのは悪いことじゃないと思うよ。だってあれこれ考えて迷うってことは、それだけ色んな角度から物事を考えられてるんだろうし、何も考えてないような、世間で言われてる ”空気を読めないタイプ” よりはずっといいと思う。それにそういう物事をよく考える人っていうのは、きっと自分のことだけじゃなくて他人のことも考えられるだろう?それって、すごいことじゃないか」


決して大げさな褒め方ではなく、ただの分析結果のように郁弥さんは言う。


「あとそれから、オレはみゆきが好きだよ。もしみゆきがみゆき自身を大嫌いだと言っても、オレはみゆきのことが好きなんだ。それが覆ることはあり得ない。だからオレの前で思う存分考え事をしてくれていいし、ネガティブになってもいい。まあ、ネガティブ具合で言えばオレだっていい勝負になると思うけど」


本当に、彼のどこがいったい無口なんだと大きく困惑してしまうほど、郁弥さんはスラスラと、わたしへの言葉を躊躇わなかった。

そして、


「でもどっちにしても、そのコップの水がみゆきにとって良いものなら、どんなに減ったとしても、オレがそばにいて注ぐよ。こんな風に」


言うや否や、郁弥さんは持っていたペットボトルを傾けてわたしのグラスにトポトポと注いだ。

みるみるうちに、3分の1ほどしか入ってなかった水がかさを増していく……


わたしは呆気にとられて、ただ郁弥さんのすべてを見守るだけだった。

そして、あわや、グラスから水が溢れるというところで、郁弥さんはパッとペットボトルを起こした。



「――――ほら、あっという間に満杯だ」


グラスには縁スレスレまでに水が張られていて、わたしがちょっとでも手を動かすと、たやすくこぼれてしまいそうだ。

郁弥さんはキャップを閉めながら、


「ごめん、ちょっと入れすぎたかな。こぼれる前に飲んで」


苦笑い寄りの微笑みでわたしに水を勧めてくる。

わたしは郁弥さんを凝視していたけれど、「さあ」と郁弥さんに促されたので、言われた通りにグラスに口を付けた。

膝の上に置いたグラスはそのままで、わたしが顔を近付けるかたちだ。


ひと口、ふた口と飲んで、それからグラスを手に取ってゴクゴクとのどに流し入れた。

当たり前だが、手の中のグラスは、また水の量を減らしていった。

すると郁弥さんがスッと、またペットボトルを差し出してきたのだ。


「オレが水を持っている限り、みゆきのグラスは空にはならないよ。たとえ―――」


話しながらわたしのグラスに再び水を注いでくれていた郁弥さんだけど、途中でペットボトル自体が空になってしまった。

すると郁弥さんは、ふいっと、空のペットボトルを縦にして、顔のすぐ横で小刻みに振ってみせた。

まるでわたしに見せるように。


「――――たとえオレの持ってる水がなくなっても、オレは、みゆきのために水を探して、みゆきのグラスにまた注ぐんだ。だから、みゆきはなにも心配しなくていい。オレのそばで、じっくり考え事をしてくれていい。……ただひとつ、オレがみゆきを好きだということを忘れないでくれたら、それでいい。あとそれから、これはオレからの頼みなんだけど、みゆきがどんなことを考えてるのか、時々教えてほしい。さっきみたいなみゆきの沈んだ顔をただ見てるだけなのは、恋人として歯がゆいから。みゆきがなにを心配しててどう不安に感じているのかを知りたいんだ。……ま、本当は、みゆきのことなら全部知りたい…と言いたいところだけど」


最後は笑い声混じりになった郁弥さん。


「何もかも、いつでも全部知りたいだなんて、みゆきに重たく思われないから、”時々” にとどめておくよ」


「そんな、全然、重たくなんか……」


そう返しながらも、わたしは、あたたかいもので胸がいっぱいになっていて、自分の気持ちさえうまく言葉にすることができなかった。



わたしのグラスに水を注ぐとか、空にしないとか、それは単に言葉のあやなのかもしれないけれど、郁弥さんに自分の悪癖やネガティブな性格を知られることが不安だったわたしには、そんな言葉にさえとてつもなく慰められるのだ。


嬉しい。郁弥さんにそう言ってもらって、本当に嬉しい。

そう思った瞬間、わたしはほとんど反射的に右の頬をつねっていたのだった。


”プラマイ0の法則” だ。


こんなに嬉しい、幸せなことを言われたのだから、わたしの中では ”プラマイ0の法則” は当然の流れだった。

けれど、会話の途中でいきなり自分の頬をつねりはじめたわたしに、郁弥さんはとても驚いた声をあげた。


「どうした?」


顔色をサッと ”心配” に変えてしまった郁弥さんは、「なにしてるの?」とわたしに顔を寄せてくる。

わたしは、そこで、とっさにとってしまった自分の行動の特異さに気が付いた。


「あ、いや、これは……」


慌てて頬から手を離したものの、うまい言い訳が出てこない。

不思議顔の郁弥さんを前にして、一気に頭のてっぺんまで恥ずかしさが駆けのぼっていくようだった。


「ん?」


自分の気になることをそのままにしておかない郁弥さんの性格は、わたしもそろそろ理解してきている。

だから言い訳なんか探したところで誤魔化しきれるはずもなくて。

わたしはわずかな逡巡のあと、恋人の疑問を解消すべく、”プラマイ0の法則” を説明することにした。


「……わたしがものすごいネガティブだというのは分かってもらえたと思うんですけど、それが一番強く出てしまうのが、なにかいいことが起こったときで………」


郁弥さんも自称ネガティブなわけだし、いいことがあった次にくる不安も、すぐに理解してくれるだろう。

そう思ったら、自然と顔が上向いていた。

郁弥さんと目と目が合って、それだけで、心が強くなりそうだった。


「……いいことがあると、その代わりに後でなにか悪いことが起こるんじゃないかって、すっごく不安になるんです」


「ああ、それはオレも分かるな」


郁弥さんは意外なほどすんなりと頷いてくれた。


「で、それと頬をつねるのはどう繋がるの?」


「それは……実は、蹴人しゅうとくんから教えてもらったんですけど、」


「蹴人くん?」


「はい。わたしが、なにかいいことがあっても後で悪いことが起こるのが不安だと言ったら、悪いことがある前に自分で嫌なことを作ってしまえばいいって。そうしたらもうそれ以上悪いことは起こらないから…って、あの可愛らしい関西弁で言われました。わたしは ”プラマイ0の法則” って呼んでるんですけど、蹴人くんのお母さんもどうやらネガティブなタイプらしくて、蹴人くんはお母さんから教えてもらったみたいです。ネガティブのことを ”ネガちゃん” とか言ってましたね」


「へぇ、蹴人くんが……」


郁弥さんはちょっと懐かしそうに目を細めた。

そしてわたしの手からグラスを取ると、空のペットボトルと一緒にサイドテーブルに移した。


「でもそれって、オレのオレンジジュースの験かつぎと似たようなものだな」


ひとり言のように呟いた郁弥さんに、今度はわたしが訊き返した。


「オレンジジュースの験かつぎ?」


「忘れた?」


郁弥さんはわずかに落胆の響きを持たせた。


「苦手なオレンジジュースを飲んだら仕事がうまくいくっていう、あのジンクスのことですよね?」


わたしが即座に答えると、とたんに上機嫌に変わった郁弥さん。

生殺与奪までじゃなくても、わたしの言動ひとつが郁弥さんに影響を及ぼしていることが、なんだか申し訳なく感じる。


「うん。まぁ、人それぞれにジンクスってあると思うけど、みゆきの場合は、頬っぺたをつねるジンクスだったわけだ。そうか、 ”プラマイ0の法則” か……ということは、今みゆきは、ほっぺをつねる必要があるくらいいいことがあったんだ?」


上機嫌はそのままに、郁弥さんは少しだけ意味深な笑みを唇に乗せて訊いてきた。

ちょっと首を曲げて、下からわたしを覗き込むようにされて、ドクンと心臓がうるさい。


「それは、もちろん……です。だって、今こうして、郁弥さんと一緒にいるんですから」


「それだけ?」


「え?」


「みゆきが頬っぺたをつねった理由は、オレが一緒にいる、それだけ?」


「それだけというわけじゃ……。いえ、それだけでもじゅうぶん幸せなことですけど、郁弥さんが、わたしの考えすぎる癖やネガティブな性格を受け入れてくれたから……」


グラスを取り上げられて手持ちぶさたになってしまったわたしは、髪の毛先を触りながら答えた。

すると郁弥さんがクスッと息をこぼしながら、そっとわたしの手に自分の手を重ねてきたのだ。

何をされるのだろうと、わたしは手を止めて郁弥さんを見つめる。


「じゃあ、みゆきはこれから、数えられないくらいたくさん頬っぺたをつねらなくちゃいけないんじゃない?」


ふわりと笑いながら、郁弥さんはわたしにキスをした。

すぐに離れて、


「好きだよ、みゆき」


またもやキス。

何度も軽いキスが繰り返され、そして、郁弥さんの長い指がわたしの両頬をやんわりと握った。


「これからもオレはみゆきのことなら何でも受け入れるし、こうやって何度も好きだと言うし、キスだって数えきれないくらいする。それって、みゆきにとったら ”いいこと” だろ?でもその ”いいこと” の度にこうやって頬っぺをつねってたら大変だ」


「そう……ですね」


なんだかからかわれているような印象もあるけれど、ほぼ裸のような薄着で、ベッドの上で何度も施されるキスに、わたしは簡単に煽られてしまいそうになって、それを悟られないようにするので必死だった。


「みゆき」


呼ばれて、頬が解放されたと感じたら、次はぎゅっと抱きしめられた。


「これからもオレはこうやってみゆきのそばにいるから。みゆきが頬をつねるのに疲れて、”プラマイ0の法則” がどうでもよくなるくらい、オレは一緒にいて、みゆきにとって ”いいこと” が起こるようにするから。みゆきには、早くそれに慣れてもらわないと」


耳もとで、囁くような息が多めの声で、郁弥さんは「分かった?」と確かめるように言った。

唇が耳たぶに触れるか触れないかの気配に顔が沸騰してしまいそうで、わたしはコクコクコクと、小刻みに首を縦に振るだけで返事した。


「可愛いなぁ、もう……」


呟くや否や、郁弥さんはわたしをそのまま押し倒していった。








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