体温と寝息の効能
ふわり、と、何かが頬を触ったような感覚がして、意識が浮上した。
同時に瞼が開き、最初に目に入ったのは、自分のものではない誰かの手のひらだった。
ほどよい肉感に、ゆるく曲げられた指も含めて、わたしの手よりもずっと大きい。
わたしはぼんやりと、一度だけ大きな瞬きをした。
部屋の中は暗いものの、開き放たれた扉からは廊下の明かりが入っていて、視界は明瞭だ。
そして背後からは、わたしより若干高めの体温と、規則正しい寝息が聞こえていた。
その息がわたしの首筋に当たると、うっかりさっきまでの熱が蘇ってしまいそうで、わたしは無意識のうちにクッと唇を噛んでいた。
恋人とはじめて越える夜は、どうしても気恥ずかしい。
けれどわたしの中では、初々しい気恥ずかしさよりも、自分になにか粗相がなかったか、そんな気がかりが大きかった。
こんなときにまで、あの悪い癖が出てきそうになるのだ。
わたしは急いでほっぺたをつねった。
すると、
「ん……」
わたしが動いたせいか、郁弥さんも後ろで身じろぎした。
目の前にあった大きな手のひらがギュッとわたしを抱き込み、反対側からも長い腕がまわされてくる。
それから肩口に温かくてやわらかいものが押し当てられ、チュッと小さな音をたてた。
「……っ」
一瞬、郁弥さんも起きたのだろうかと息をひそめて反応を待ったけれど、すぐにまた寝息が聞こえてきた。
肌にダイレクトに感じる郁弥さんの吐息は、今のわたしにはあまりにも刺激が強くて、どうにか体をずらしたいのに、郁弥さんの腕の力が強くてそれがかなわない。
右によじったり、左向いたり、何度か試したもののどうにもできなくて、仕方ないかと諦めたわたしは、結局、静かに郁弥さんのぬくもりを独占することにした。
すると、さっきまでは刺激的に感じていた郁弥さんの息遣いが、少しずつ変わっていく気がした。
その体温と寝息に包まれていると、不思議と、今さっき頭を出しかけていた悪い癖が溶かされていくようだったのだ。
不安とか、心配とか、そういう感情がなくなったわけではないのだろうけど、まるでそのひとつずつに柔らかい膜が被せられたような、そこにある角という角がぜんぶ削ぎ落とされたような感じがした。
郁弥さんの笑顔と触れ合ったときにも似たようなことが起こるけれど、どこか違っているような感覚もする。
ギュウッと郁弥さんの腕の中に強く囲われて、本当はちょっと苦しいはずなのに、とんでもなく居心地がよくて、ずっとここにいたい、すっとこうされていたいと思ってしまう。
体温の交換は、明らかなかたちで、わたしの気持ちに変化を与えてくれたのだった。
「……みゆき?」
しばらくして、かすれた声で郁弥さんがわたしを呼んだ。
「あ…すみません、起こしましたか?」
わたしが顔だけを振り向かせると、郁弥さんは自分の目に手の甲を当てて「いや…」と答えた。
なんてことない仕草なのに、すごく色っぽい。
「みゆきは起きてたの?」
「少し前に目が覚めちゃって……」
わたしが返事してる間に、郁弥さんは腕を外して、わたしの体をくるりと捻らせた。
正面に郁弥さんの端正な顔がくると、その、すぐにキスができる近さに戸惑う。
もっと親密なことをした後だというのに。
「オレも起こしてくれたらよかったのに…」
額と額をくっつけるなんて、ドラマや小説の中でしかないと思っていたけど、実際にやられると、髪の毛の感触がくすぐったい。
「でも気持ちよさそうな寝息が聞こえてたから……」
「今何時だ……まだこんな時間か。オレが起きなかったら、ずっと一人でいるつもりだったの?」
郁弥さんは片腕を自分の背後にのばし、腕時計で時刻を確認した。
それは、ベッドに運ばれた直後、わたしの肌をなぞる前に外されたものだった。
「今何時なんですか?」
わたしが問うと、
「また敬語になってる」
と指摘される。
そのいたずらっぽい言い方が可愛らしいなと思った。
「朝まではまだ時間があるよ。それより、大丈夫?」
「え?」
「さっき、無理させたかなと思って」
郁弥さんが訊いた意味を理解したわたしは、急速に顔が熱くなった。
視線をさまよわせてみても、郁弥さんの裸の胸が見えてしまい、またドキリとする。
わたし自身だって、肩をむき出しにしてるくせに。
「………大、丈夫…です」
答えながらも、危うく郁弥さんの色々な所作がよみがえってきそうになり、掛け布団をグイッと引き上げた。
そんなわたしを郁弥さんはまどろむような眼差しで見ていたけれど、ふと、「みゆき?」わたしの前髪を指で整えながら呼んだ。
「はい…」
「のど、渇いてない?」
「あ……、少し」
意識してないうちはそうでもなかったけれど、そう言われると、そんな気がしてくる。
郁弥さんに尋ねられたとたん、気管の側面になにかを張り付けられたような不快感に気付いた。
「さっき、最後は声がかすれてたもんな…」
のどの渇きすら、それに繋がってしまう。
わたしは布団に顔の下半分を隠し、うんともすんとも返さなかった。
「そういう可愛い反応をされると、堪えるのが大変なんだけど」
クスッと笑って郁弥さんが言う。
そしてすぐに、ベッドが揺れた。
「水、取ってくる」
わざわざわたしの耳元でそう言って起き上がると、郁弥さんは手早く下着とルームウェアと思しきスウェットパンツを履いて寝室を出ていった。
郁弥さんの気配が完全に部屋の外に消えてから、わたしは布団から抜け出て、床に脱ぎ散らかした服を急いで拾い集めた。
キャミソールにブラウスを肩から羽織っただけでも、布団に隠れてるよりはましだろう。
1分と経たずに、郁弥さんがミネラルウォーターのペットボトルとグラスを持ってきてくれた。
「あれ、もう着たんだ」
ブラウス姿がお気に召さなかったのか、少し残念そうなニュアンスで言いながら、郁弥さんはグラスに水を注いでわたしに差し出してくれた。
「ありがとうございます…」
冷えた水を含んだグラスは、ひんやりと手のひらに心地いい。
ごくりと口に流し入れると、思っていた以上に自分ののどが枯渇していたことを自覚した。
ゴク、ゴクとのどを潤した後、わたしはヘッドボードにもたれかかり、両足は膝を折って立てて、その上にグラスを置きながら両手で握った。
郁弥さんはわたしの隣で同じようにヘッドボードに背をくっつけて座り、ペットボトルから直接水を飲んでいる。
同じ水のはずなのに、ゴクッ、という音までもが、郁弥さんの色気をだだ漏れにさせていて、その喉の動きにさえ、わたしは照れてしまいそうになった。
そして焦ってフイッと逸らした視線の先に、水が半分ほど減ったグラスが入り込んだ。
するとなぜだか、急にあの質問を郁弥さんに投げてみたくなったのだ。
「あの、郁弥さん……?」
「どうした?」
郁弥さんはペットボトルのキャップを指で弄りながら、わたしに体を向けてくれる。
わたしは両手に力が加わるのを感じた。
「……こんな質問、聞いたことありませんか?―――コップの中に水が半分入っています。あなたはこの状況を、”水はもう半分しかない” と思いますか?それとも、”水はまだ半分残ってる” と思いますか?―――」
郁弥さんはなんて回答するのだろう。
興味だけではない何かが、わたしの胸を激しくノックしていた。
「それ、昔どこかで聞いたことがあったな。そのときはたいして考えもしなかったけど……。答えは、その二択しかないわけ?」
「え?」
「”もう半分” と ”まだ半分” の二つしか選べないの?」
「え…っと……」
思わぬ質問返しに、厳密なルールなんて知らないわたしは、答えに迷う。
でも、わたしだって、この質問に単純に答えられたわけじゃないのだ。
「……たぶん、そういうわけではないかと……」
たじろぎは隠せず、有耶無耶に答えた。
郁弥さんはキャップを弄るのをやめ、クイッと一口水を飲んだ。
「……だったら、オレの答えは、”その時々で違ってくる” だな」
「その時々で違う……どういう、意味ですか?」
「それって、ポジティブかネガティブを測る有名な心理学の問題だろ?」
「そうですけど……」
「オレは自分ではどちらかといえばネガティブな方だと思ってるんだけど、」
「え?!」
郁弥さんの話はまだ前置きの段階だっただろうけど、わたしは思わず大きな声を出してしまい、現在が深夜だということを思い出して片手で口に蓋をした。
「そんなに意外?」
混じりけのない苦笑を見せた郁弥さんに恐縮してしまったわたしは、反射的に「すみません……」と体を縮ませる。
けれど郁弥さんは特に不快感を持った様子もなく、笑いながら話を続けた。
「こう見えて、実はネガティブ思考なんだよ。だってほら、オレンジジュースのジンクスとかを勝手に作るタイプだから。ああいうジンクスを気にするようなタイプは、基本的にネガティブな人が多いんじゃないかな」
郁弥さんの説明に、納得できる部分もあった。
わたしだって、蹴人くんから教えられた "プラマイ0(ゼロ)の法則” を多用していたから。
ジンクスを信じ切っているわけではないけれど、それで心の重さが変化するのは事実だもの。
「……それもそうですね」
わたしの返事に、郁弥さんも頷く。
「でもだから、オレはコップの水を、”もう半分しか残ってない” とも思うし、”まだ半分も残ってる” とも思う。つまり、自分の性格を知ってるから、もし ”もう半分しかない” と思って悲観的になってる自分がいたら、自分で ”まだ” の方に持っていくよ」
でも、これじゃ質問の答えにはなってないな。
郁弥さんはまた水を喉に流して笑った。
その考え方は、水間さんが言っていた ”無理矢理ポジティブ” に通じるものがあるかもしれない。そして、”プラマイ0の法則” と似てるところがあるのかもしれない。
そう感じたとき、わたしは心がふわりと柔らかくなった気がした。
「その質問がどうかした?そういうみゆきだったら、何て答える?」
興趣をそそられたのか、郁弥さんは楽しそうに訊いてきた。
「わたしは……」
再び両方の手でグラスを持ち、それを見つめながら口を開いたわたしに、隣から郁弥さんの視線が突き刺さる気配がしていた。
「……わたしは、とにかくすごく、もうとんでもないネガティブなんです」
話しはじめると、思っていたよりもスムーズに流れ出していた。




