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駆け巡る噂の功罪(2)






「ごちそうさまでした」


デザートを食べ終えたわたしは、静かに手をあわせた。


「気に入ってくれてよかったよ」


ダイニングテーブル越しに片肘をついて目を細めている諏訪さんは、わたしより先に食べ終えていて、完食したわたしに満足げだ。


「スフレはどうだった?」


「おいしかったです。ふわふわで」


「オレが選ぶと甘いものばかりになるから、時々は違った系統にしないとみゆきに飽きられそうだからね」


「そんな、飽きたりしませんよ」


スイーツに詳しい郁弥さんは、よくオススメのお菓子を食べさせてくれるのだ。

定番のケーキ類やマカロン、焼き菓子、ショコラ…それはバラエティに富んでいて、今日はバニラスフレだった。


「じゃあ春巻きは?」


「春巻きもおいしかったです。サラダ春巻きは特に」


「じゃあ今度は一緒に買いに行こう。他にも種類があったから、今度はみゆきが選んだのを食べ比べでもしようか」


「そうですね。楽しみです」


「ところでその敬語はいつ抜けるんだっけ?」


順調に弾んでいた会話が、とたんにリズムを失った。

ん?と、立て肘のせいで僅かに傾いた体勢で、彼はわたしの反応を求めていた。


「それは……これから頑張ります、じゃなくて…頑張る、から……もう少し、待っててください。じゃなくて、待ってて?」


ぎこちなさ満載で言葉を紡ぐわたしに、諏訪さんはプッと吹き出した。


「ごめん。急には無理だったか」


「すみません……」


「さっき名前を呼び捨てできたからこっちもいけるかと思ったけど……。でも、どっちもオレのわがままだから、みゆきが気に病むことはないよ」


諏訪さんはそう言って笑う。わたしを気遣ってのセリフではなく、たぶん、本心なのだと思う。


諏訪さんと付き合いはじめてから、わたしは、すぐにふたつのことを ”お願い” された。

呼び方を ”諏訪さん” から ”郁弥” に変えること。

プライベートでは、敬語をやめること。


諏訪さん…郁弥さんは、その ”お願い” を ”わがまま” だと言うけれど、それは恋人同士ならごく自然のことなのだ。

なのにそれが簡単にできないのは、わたしの問題。


付き合ってまだ日が浅いせいもあるのだろうし、ある程度時間が経てば、呼吸をするように ”郁弥” と呼び捨てにし、敬語抜きで話せる日が来るのかもしれない。

でもなんとなく、このままじゃ、その日が来るのはずっと先になりそうな気がしていた。

また悪い癖が出てきて、あれこれ考えすぎて、なかなかうまくいかないんじゃないか……そんな不安が日に日に増えてるように思えたから。


たぶんそれは、わたしが今、幸せすぎるせいだろう。

諏訪…郁弥さんと気持ちが通じあって、毎日会えて、こんな幸せな日々は想像したこともなかったもの。


だからこそ、不安になってしまうネガティブなわたしがいるのだ。

いいことの後には、悪いことが起こりそうで………



「……すみません」


知らず、視線を落としながら呟いていた。

すると郁弥さんはサッと椅子から立ち上がり、テーブルをまわってわたしのところまで来ると何も言わずにわたしの手を握ってきたのだ。

それからグイッとわたしを引き上げ、リビングにつれて行く。

意外なほどの強引さに、わたしはドキリではなく、ギクリとした。


「ほら、座って」


強引さを見せても優しい郁弥さんは健在で、わたしの両肩にそっと手を添えてソファに座らせた。

3人は掛けられそうな広々とした座面の、色の濃いブラウンのレザーソファは、ほどよい反発でわたしを迎え入れてくれる。

郁弥さんはわたしの横にぴたりと密着して腰をおろした。


「みゆき?」


名前を呼ばれて、おずおずと郁弥さんを見上げる。


「オレはみゆきに謝ってほしいわけじゃないよ」


「でも、お願いされたことをひとつも守れてませんし。その…郁弥、さん…ていう呼び方もちゃんとできないですし…」


「そんなの、これから嫌って言うほど一緒にいるんだからそのうち変わってくるはずだ。それに、さっきも言ったみたいに、これはオレのわがままなんだから、みゆきが謝る必要なんかない」


「だけど……」


ネガティブ度合いも日によって乱高下するのだが、今日は一段と激しい日のようだ。

さっきまではおとなしくしてくれていた悪い癖が、浅い眠りから覚めていく。

わたしは自らが送り出す思考の暗さに、身体を縛り上げられたような気がしていた。


すると郁弥さんが体を動かして、ほんの少し、わたしとの間に距離が生まれた。

そしてソファの背にもたれながら、足と腕を組んで。


「このあいだから、時々、今みたいに沈んだ顔をするときがあるけど……」


気付いてる?


さっきの強引さは鳴りを潜め、今度は遠慮がちに訊いてきた。


「オレは、ずっと好きだったみゆきとこうして付き合えて、とにかくめちゃくちゃ嬉しくて、毎日ちょっと浮かれてる自覚があるんだ。みゆきもオレのことを好きだと言ってくれたから、同じように感じてくれてるのかと思ってた」


郁弥さんのセリフにはどこか寂しげなニュアンスが含まれているように聞こえて、わたしは慌てて首を振ってみせる。


「わたしだって同じです!片想いが実って、信じられない思いでいっぱいです。毎日浮かれてます」


「だったら、仕事のこと?何をそんなに悩んでるの?」


「それは……」


そんなことないです、悩んでなんかないですよ。郁弥さんの気のせいです。


そう答えて誤魔化すことも頭を掠めた。

でもそう言ったところで、到底彼を納得させられるとは思えない。

それに、こんな風にわたしのことを心配してくれてる郁弥さんに適当な言葉ではぐらかしたりしたら、ネガティブなわたしのことだ、郁弥さんに対して誠実でなかったと、申し訳ない気持ちでいっぱいになるのは目に見えている。


「それは?」


「それ、は………」


郁弥さんは辛抱強くわたしがちゃんとした答えを伝えるのを待ってくれている。


見つめ合ったまま、わずかな時間が流れていった。


ネガティブとかマイナス思考とか、考えすぎる性格も、付き合っていけばすぐにバレてしまうだろう。

別に誰かを傷付けるような問題でもないのだから、さらっと打ち明けてしまえばいい。わたしネガティブなんですよねって、ポップな感じに。

家族や友達、親しい人には今までも隠してなかったわけだし、仲間内でネタみたいに扱われたりして、特に疎まれたりもしていないのだから、恋人になった郁弥さんに知られても平気なはず……

そう思ってみても、それができないのが超ネガティブなわたしなのだ。


こんな性格だと知られて、郁弥さんにどう思われるかも不安だったし、なにか嫌な思いをさせてしまうんじゃないかと心配にもなってしまう。

恐がりで臆病な心配性が、常にわたしのそばにはあるのだから。


「オレは、みゆきのことが知りたい。なにかに悩んでるなら話を聞きたいと思ってる。まだ付き合いたてだから言いにくいことはあるかもしれないし、恋人にだって言いたくないこともあるだろうけど、オレは、今みたいな顔をしてるみゆきを放っておけるタイプじゃないんだ」


以前から知ってる凛凛とした郁弥さんと、最近知った甘やかな郁弥さん。

両方が一挙に現れたようだった。

でも、どちらの郁弥さんも、わたしのことを想ってくれる大きさは等しいのだ。


わたしは、至近距離で郁弥さんの目を見ていられなくなって、かすかに視線をそらした。

ふとフォーカスがあったのは、郁弥さんのシャープな顎のライン。

そんなごく一部分でさえ、郁弥さんを構成するものすべてがかっこよくて、たまらなく好きだと思う。

もし、万が一、その一部分が少し歪だったとしても、わたしの気持ちが揺らぐことはないと間違いなく言いきれる。


……だったら、郁弥さんも、わたしの歪な部分を打ち明けても、今の関係が崩れることはないのだろうか。

確かに郁弥さんだったら、崩れることは、ない……と、思う。そしてそうあってほしいと、切実に思う。

でも……


グルグル駆け巡る悪癖に、わたしは無言になってしまった。

すると、それを困惑の沈黙と受け取った郁弥さんが、苦笑いのような息をこぼしたのだ。


「もちろん、無理強いはしたくないけど」


言いながら、わたしに手を伸ばしてきた郁弥さん。

その手は滑らかにわたしの髪を梳いた。

そして、意図してか偶然か、郁弥さんの指先がわたしの耳をかすめて、ゾクリとしてしまった。


付き合いはじめてからのわたし達の関係は、時には一気に、時には徐々に、より深いものへと進化していた。

例えばこんな風に触れたり、顔を近付けたり、キスをしたり………


最初のキスは、郁弥さんが退院して、この部屋にはじめて通された日だった。


あのときも今みたいにソファに二人で並んで座っていて、会話が休符をおいた瞬間、郁弥さんの体温に包まれたのだ。



それからはここに来るたびにキスをしていた。

そしてその先に進む気配がありそうでなさそうな時間が続いているのだ。


郁弥さんは大人の男性だし、わたしだって未経験なわけでもない。

けれどわたしは、郁弥さんが退院したばかりだという条件下については無視できないでいた。おそらく郁弥さんも同じだろう。

だけど来週あたりからは郁弥さんも出社するようだし、ちょうど今日は金曜日だ。


「無理強いはしたくない。でも、オレがいつもみゆきのことを気にかけてるのは、ちゃんと知っておいてほしい。いつかみゆきがオレに言えるようになったら、聞かせてほしいと思ってることも」


郁弥さんのセリフが息かかる近さで聞こえる。

やがてキスが長くなっていって、郁弥さんの優しい手がわたしの体を辿りはじめると、もう、何も考えていられなくなった。

ただひとつ、郁弥さんのこと以外は。


「本当に、好きなんだ……」


「………っ」


声にならない声が漏れてしまい、恥ずかしさが噴き上がってくる。

けれど郁弥さんはフッと喉の奥を緩ませたような息をこぼした。

そして、


「ベッドに、連れて行ってもいい?」



わたしが出会ってきた男性達が束になっても敵わないほどの壮絶な艶をまとって、まるで甘えるようにわたしに問いかけてきたのだ。


郁弥さんはわたしが頷くまでの間にも、額とか、耳たぶとか、こめかみ、目じり、おとがいにキスを施していく。


わたしは返事をしたいのに、小さなキス達にいちいち反応してしまって、ちゃんと郁弥さんにイエスを伝えられなくて。



けれど案ずることはなかった。

郁弥さんはキスを続けながら、わたしをゆっくり抱き上げたのだから。


いわゆるお姫様抱っこという体勢で、不安定になったわたしはとっさに郁弥さんの首に両手を回してしまった。


「好きだ……」


今度は唇に、郁弥さんのキスが訪れる。


わたしも好きです……


そう告げたいのに、郁弥さんの舌に塞がれていて言葉にできない。

だけどその深いキスを素直に受け入れたとき、郁弥さんにはわたしの返事がすべて伝わったような気がした。


口数が少ないと言われ、クールだと噂されていた郁弥さんが、こんなにも想いを言葉にしてくれること、わたしの悪い癖を忘れさせるくらいに熱く触れてくれることに、目眩がするほどの愛しさと幸せを感じる。



やがて、二人の息継ぎがどちらのものか分からなくなってきた頃に、わたしは郁弥さんのベッドに柔らかに閉じ込められたのだった―――――――――










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