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駆け巡る噂の功罪






「えー?!あの二人付き合ってるの?」


退社時のエントランスで、よく通る女性の声に足が止まった。

この時間帯にしては人もまばらだったけれど、いっせいに声の主の彼女に注目が集まる。


「しーっ、大声出さないでよ」

「あ、ごめん…」


振り返ると、エレベーターホールから出てきた女性達が、コソコソ話を繰り広げている。二人ともうちの社員だった。

わたしはなんとなく予感がしたけど、特に意識してない顔をつくっていた。

すると、二人のうち片方の女性社員が何気なくこちらに視線を流し、ばっちり目が合ってしまった。


「あ……」


思いっり気まずそうな彼女の反応に、わたしは自分の予感が的中したのだと悟った。

もう片方の女性社員もわたしの存在に気付き、二人は「お疲れさまです」と小声で言いながら、足早にエントランスを出ていったのだった。



わたしは一連の流れをただ眺めていただけで、それでもフゥ…と、ため息をこぼしてしまう。

あの二人が噂してたのは、おそらく、わたしと諏訪さんのことだろうから。



諏訪さんはいくつかの検査と少しのリハビリののち、退院して自宅療養となっていた。

すぐにでも仕事復帰を希望した諏訪さんだったけれど、会社側がそれを許さなかったのだ。

それに、体の快復以外にも保険関係や警察関係、事故を起こした側の弁護士とのやり取りなど、あれこれ手続きがあったので、結局諏訪さんは事故以来まだ一度も出社は叶っていなかった。


それにもかかわらず、社内には、わたしと諏訪さんの噂が広がっていた。


誰が発信源なのかは定かではないけれど、考えられるのは、諏訪さんのお見舞いに来ていた人達だろうか。わたしだけが諏訪さんと面会できることを社内の人間との話題にあげて、それらが発展していった……そんなところだと思う。


わたしにまで確かめにきた人はまだいないものの、一度だけ、白河さんから、そんな感じの噂が流れてるらしいと教えてもらったのだ。


けれど、例え誰かに噂の真相を訊かれたところで、その答えは今の段階では決められない。

内容次第では、まったくの噂ではなくほとんど事実の場合だってあるし、実際、わたしと諏訪さんはあの日から付き合っているのだから。

そして諏訪さんと相談ができていない現状では、素直に認めるのも、付き合いを伏せて誤魔化すのも、どちらも選べない。

何が正解なのか、どうするのが一番諏訪さんに迷惑がかからないのか、それが導き出せていないのだから。



……今日こそ、諏訪さんに訊いてみよう。


エントランスから外に出たわたしは、ひそかに心を決めた。


諏訪さんと想いが通じた日から毎日欠かさず会っていたにもかかわらず、わたしは、いまだにそのことを諏訪さんに相談できずにいたのだ。

他に話すことがたくさんあった、というのもあるけれど、やっぱりあれこれ考えてしまって、変に臆病になったり、ナーバスになったりで、つまりはあれこれ考えすぎて、なかなか諏訪さんに訊けなかった。


諏訪さんと同じくらい人気がある戸倉さんは、白河さんとの付き合いを周りに隠さなかった。二人で決めたことなのだろうけど、その後白河さんだけでなく戸倉さんも陰で色々言われていたのをわたしは知っている。

そしてそのことで白河さんが悩んでるのも見てきた。

でも二人は、それを乗り越えて、同棲という次のステップに進んだ。


……わたしは、果たしてそんな風にできるだろうか。


そんな不安が、諏訪さんと噂について話し合うことを後まわしにさせているのだ。


どうしても暗くなってしまう気持ちをどうにかしようと、わたしは頬をつまんだ。

今はいいことがあったわけじゃないから、”プラマイ0の法則” とはちょっと意味合いが違うけれど、”自分に痛みを与える代わりに悪いことは起こらない” という厄払いの目的ははたしてくれると期待して、ギュッとつねる。



『大丈夫やって。これ以上、悪いことは起こらへんよ。だから早よオレンジジュースのお兄ちゃんとこ行き』



そんな蹴人くんの笑う声が、聞こえてくるような気がした。




※※※※※




毎日通ってるのに、オートロックの呼び出しを押すときは、必ず緊張してしまう。

わたしは今日も、緊張のあまり震えてしまいそうになる指先で、諏訪さんの部屋番号を押した。


《―――みゆき?》


すぐに聞こえてきた恋人の声に、ドキリとせずにいられない。

呼び捨てにされることにも、まだまだ慣れそうにはない。


「あ……こんばんは」


《おかえり。お疲れ》


労いの言葉をくれた諏訪さんは、すぐに解錠してくれた。

まるで、わたしが来るのを待ちかねていたようにも感じる。

いや、実際、待っていてくれたのだろうけど。


わたしはスーッと開いていく扉に、たまらないほどの高鳴りを覚えながら、諏訪さんのマンションに入っていったのだった。





「おかえり」


エレベーターで諏訪さんの部屋のフロアまであがると、諏訪さんが廊下まで出て迎えてくれる。

わたしがここに通いだしてから、それは当たり前のことになっていた。


「……ただいま、です」


「お疲れ。今日は出先で適当に惣菜を見繕ったから。みゆきの好きな生春巻きも買っておいたよ。それからデザートも」


プライベートでしか見せないメガネ姿の諏訪さんに、わたしの心臓はまた跳ねる。

片想い中には一度も見たことがなかったからだ。

おそらく、社内の人間で諏訪さんのメガネ姿を知っているのはごく一部に限られているだろう。

仕事中はコンタクトを使っていて、オフの日、文字を読むときと運転中にはメガネだと言っていたから、もしかしたら自宅でできる仕事に取りかかっていたのかもしれない。

入院中はそこまで必要もなかったようで、わたしが諏訪さんのメガネ姿をはじめて見たのは、退院した日、諏訪さんの部屋に初訪問したときだった。


華奢な黒フレームのメガネは、諏訪さんのイケメン度をさらに押し上げている印象があって、この男の人がわたしの恋人なんだと思うと、改めて緊張してくるようだった。

だって、メガネだけでなく、例えば腕時計とか、身に付けるものは、どんなにハイブランドでも、もれなく諏訪さんを引き立てるためのアイテムに成り下がってしまうのだから。

それは持ち物にだって、着ている服にだって言えることだ。

もし襟が崩れたヨレヨレのシャツを着ていたとしても、諏訪さんならだらしなく感じさせないに違いない。


とにかく、諏訪さんは何をしても様になって、かっこよくて、わたしの恋心を更に更に育ててしまうのだ。



「みゆき?」


諏訪さんに疑問形で呼ばれて、ハッとした。

見た先には、少しだけ笑顔を減らした恋人の顔があった。


「疲れてる?」


「いえ、……大丈夫です。すみません、ちょっとボーッとしてしまっただけで…」


わたしのことを心配してくれる諏訪さんに首を振ると、諏訪さんは「それならいいけど」と、わたしの背中に手を添えた。

こういう、さりげない触れ方も、とてもスマートでいちいちときめいてしまう。


いかにも大人の男性的な仕草と、恋人仕様の柔らかな表情に、わたしは、”二人の噂について相談する” という今日の目標を早速見失いそうになっていた。

それよりも、”今日、恋人としての関係が一段進むのかも…” という予感の方が、大きくなっていたのだから……




「おじゃまします…」


諏訪さんの部屋にはほぼ毎日のように来ているけれど、毎回、はじめて来たときのような反応になってしまうのは、まだ回数が足りないせいだろうか。

玄関の棚に置いてあるリードディフューザーがいい香りだったこととか、スリッパを入れてあるワイヤーボックスが諏訪さんっぽいなと感じたこととか、記憶の中には確かに諏訪さんの部屋の情報が刻まれているのに、まだまだ新鮮な感情は色褪せていかないのだ。


諏訪さんはワイヤーボックスからバブーシュタイプのスリッパを取りだし、わたしの前に並べてくれた。

黒いレザーのそれは、この前諏訪さんと出かけたときに買ったものだ。


『これからうちに来る機会も多いだろうから、みゆき専用のものを買っておこう』


諏訪さんにそう提案されて、飛び跳ねたくなるほど嬉しかったし、ドキドキした。

そのときのわたしは、差し出された手のひらに自分の指を預けながら、付き合いはじめの時期特有の、あの高揚感を思い出していた。


そしてわたしが無難なものを選ぶと、諏訪さんも同じデザインのメンズ用を手に取った。


『どうせならオレも同じのを使いたいから』


ちょっと照れくさそうに言った諏訪さんが、なんだか可愛らしく見えた。


結局その日はスリッパだけでなく、マグカップや箸などの食器も二人でお揃いのものを選び、恋人歴1ヶ月未満にしてはなかなか濃厚なショッピングになったのだった。



その ”お揃い” スリッパに足を入れていると、ふいに諏訪さんに腕を取られた。

そしてそのまま、軽くキスを交わす。


「おかえり、みゆき」


唇が離れると、諏訪さんが優しく見つめてくる。

けれどその眼差しの中に、ちょっとした含みがあるようにも見えた。


わたしが『おじゃまします』と、他人行儀的に言ったことを反映してるのだろうか。

そんな考えがよぎると、なんだか諏訪さんがまた可愛らしく思えてしまった。

だって、諏訪さんは、わたしのセリフひとつで、きっとすぐに喜んでくれるのだろうから。


「ただいま。……郁弥」


ほら。たった一言で、彼はあんなに幸せそうに笑ってくれる。


わたしのネガティブも、考えすぎる性格も、不思議とこの笑顔の前では、存在を小さくさせるのだ。

この人をこんな表情にさせているのはわたしなんだ…と、一瞬ばかりは自信のようなものを持てるから。

もちろん、いつもそうとは限らなくて、悪癖が威張り散らすのを必死に抑えることも多いのだけれど。


わたしは満足げな諏訪さんの背中に続いて、今現在は悪癖がおとなしくしてくれてるのを感じながら廊下を進んだ。



今日こそはわたし達の噂についてちゃんと話そう……


このときはまだ、そう思っていた。











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