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プラマイ0(ゼロ)の法則(3)






「今日、大路さんが退院するんですよ。私は休みだったんですけど、どうしてもお見送りしたくて」


水間さんはさっきまでより早口にそう言うと、サッと立ち上がる。


「あ、あの!」


昨日と同じように ”プラマイ0の法則” の詳細を訊くタイミングを失ってしまいそうで、慌ててわたしも立った。

けれど水間さんはわたしの焦りをさらりとかわして、


「せっかくなら、和泉さんも一緒にお見送りしません?」


大路さんとお知り合いになったんですよね?


穏やかに、そう誘ってきたのだ。


水間さんがわたしを気遣って誘ってくれたのは分かるので、それを遮ってまで自分の話をするのは躊躇われる。

”プラマイ0の法則” の出どころについては気になってしょうがないけれど、わたしも大路さんに会えるのなら、最後に挨拶をしたいとも思う。

だから、


「……一緒に伺って、よろしいですか?」


迷った末、わたしは今日も水間さんに訊くことは諦めたのだった。

退院していく大路さんに会う機会は今しかないけれど、ここで働いてる水間さんには明日以降も尋ねることはできるのだから。

そんな風に自分に言い聞かせて。


「もちろん。一緒に行きましょう?」


水間さんは満足そうに頷いた。

わたしは水間さんに先導されるかたちで、休憩スペースを後にする。


けれどICUに続く廊下に出たところで、水間さんが急に足を止めたのだ。


「ところで和泉さん」


「はい?」


わたしも水間さんの隣に立ち並ぶ。

水間さんは背が高い方なので、平均的な身長のわたしは彼女を見上げる姿勢になった。


「私と和泉さん、二人ともマイナス思考なら、マイナス、マイナスで、掛け合わせたらプラスになりますよね」


ニコッと、ネガティブの欠片すら見当たらない笑顔で水間さんが言う。


「……確かに、まあ、そうですね」


水間さんらしいおおらかな持論に、わたしもお返しの笑い顔を見せた。

けれど水間さんには、「あ、『適当なこと言ってるな』て思ってます?」と、横目で見ながら、軽く指差されてしまった。


「いえ、そんなこと…」


「ダメですよ?ネガティブの自覚があるなら、無理矢理にでもポジティブに持っていかなくちゃ、どんどん落ちていっちゃいますからね」


「無理矢理、ですか?」


「そう。無理矢理ポジティブ。そうでなくても私達みたいなタイプは勝手に落ち込んじゃうんですから」


水間さんは「ね?」と小首を傾げ、また歩きだした。



「無理矢理ポジティブ……」


わたしも水間さんの後に続きながら、彼女が口にした言葉を繰り返した。


そういうのだったら、わたしだって今までに考えないこともなかった。

でもやっぱり、どうしたってネガティブが勝ってしまうのだから、仕方ないのだ。

きっと水間さんみたいな軽症ではなく、極度のネガティブで考えすぎる性格のわたしには、”無理矢理ポジティブ” ですら、高度なテクニックなのだろう。


すると数歩先行く水間さんが、前を向いたまま、


「……なんて言ってみても、実際は、言うほど簡単なことじゃないですよねぇ。そうやってプラスに切り替えができないから、マイナス思考なんですものね」


しみじみと、けれどどこか他人事のように俯瞰で見たような言い方で告げてきた。

わたしは ”そうですね” と相槌を投げようとしたけれど、またもや水間さんに先を越されてしまう。


「あ、でもほら、例のほっぺたをつねるジンクス。あれも、ある意味無理矢理ポジティブじゃないですか?私もあれをやりだしてからは、割りと仕事もうまくいくようになったんですよね。だから……なにかこう、ワンアクションあるといいのかもしれませんね。無理矢理ポジティブが発動できるようなスイッチ的なものがあれば、私みたいなしつこいネガティブにも効くのかもしれない」


水間さんは自分の説にウンウンと頷いている。

確かに、それは一理あるのかもしれない。

現にわたしも、蹴人くんに教えられて以来、何度かお世話になっていて、100%成功ではないけれど、うまくいくときもあったから。

いわゆる ”プラマイ0(ゼロ)の法則” に、効果があることは間違いなかったのだ。



「だから和泉さんも、よかったら、あれ試してみてくださいね。で、あんなミーハーな女の子達なんかの言うこと気にしないで、諏訪さんと思う存分イチャイチャしてください」


そう言って顔だけ振り向かせた水間さんは、なんだかとても楽しそうだった。


「イチャイチャって……」


急に諏訪さんとのことに話をふられて、わたしはカァッと頬に刺激が走るのを感じた。


「あら、可愛らしい。ほっぺた真っ赤っかですよ」


まだつねってもいないのに。


水間さんはそう言ってからかうように笑うと、また前を向いて階段を降りていった。


自分が紅潮してる感覚はあったけれど、それをズバリ言葉に出されると、恥ずかしさは倍増してしまう。

それでも、水間さんがわたしを励まそうと言ってくれたのは明らかなので、わたしは急いで階段を降りながら、「あ、水間さん!」と呼びかけた。


「はい?」


隣に追いついたわたしに、水間さんは屈託ない返事をくれる。


「あの、ありがとうございます」


「イチャイチャしてくださいって言ったことにですか?」


水間さんは、またからかうように言ってくる。


「違いますよ。……いえ、それも含めてですけど」


即座に強く否定したものの、まったく関係ないことでもないので、わたしはモゴモゴとトーンを控えめに落とした。


「分かってますよ。やっぱり和泉さんは可愛らしいですねぇ」


ふふふ、と目尻を下げる水間さん。

そして水間さんは、おもむろに右手を持ち上げて――――


わたしの左頬を、ムギュッと握った。

結構強めだ。


「ほら、これで、これ以上嫌なことは起こりませんよ。………たぶんね」


「たふん……」


たぶん、ですか?


そう訊きたかったわたしのセリフは、水間さんにつねられてるせいで、滑稽に崩れてしまう。

だけどなんだかそれが、妙に可笑しく感じた。


水間さんもククク、と愉快そうな吐息を転がして、二人して、目を合わせて笑いあう。

そして水間さんは、今度は優しく、わたしのほっぺたから手を離したのだった。



「……でも、諏訪さんなら、きっと大丈夫ですよ。少ししかお話ししてませんけど、和泉さんのことをしっかり想ってらっしゃるから」


やけに確信めいて断言する水間さんに、ドキリとしてしまう。

その反動なのだろうか、それとも、軽く動揺した自分を誤魔化したいのか、わたしはとっさに、可愛げなく、言い返していた。


「それも、”たぶん” ですか?」


すると水間さんは大きく首を振ってみせたのだ。


「いいえ。どちらかというと、”絶対” です。諏訪さん、今お見舞いに来てる女の子達のことも見越してたみたいで、そのせいで和泉さんが嫌な思いをしないようにって、色々考えてたみたいですもの」


「え……?」


「ただでさえ自分の看病で疲れがたまってるはずだから、和泉さんにはよけいな心配をかけたくないって仰ってました。意識が戻ったばかりなのに恋人のことをそんなに思いやる人なんだから、きっとこの先、何があっても、諏訪さんは和泉さんを大切に守っていくんだろうな…て、ちょっと感動しちゃいましたよ」


水間さんがそう言い終わったところで、「あ、水間さーん!」と、少し先で彼女を呼ぶ声がした。

それが大路さんのものだとはすぐの分かったのだけど、わたしは、水間さんから聞かされた諏訪さんの話に意識が持っていかれたままだった。


だって、水間さんは知らないのだろうけど、わたしと諏訪さんが付き合いはじめたのは昨日からなのだ。

それなのに、諏訪さんは、わたしのことをそこまで考えてくれてただなんて。


教えられた事実に、胸が熱くなった。


でもその感動を味わう時間はなくて。



「わ、みゆきさんも見送りに来てくれたの?」


水間さんの後ろにいるわたしに気付いた大路さんが手を振ってきたので、わたしは急いで笑顔を張り付けた。


「退院、おめでとうございます」


慌てたせいでお決まりの文句しか出てこなかったけれど、それでも大路さんは、嬉しそうにしてくれた。


「わざわざありがとう。すごく嬉しい」


そう喜んで、お日さまのような笑顔を見せてくれた大路さんの片手に、昨日わたしが渡したガーベラが大切そうにおさまっていた。

その裾には濡らした綿かティッシュが当てられていて、その上からビニル袋をかぶせている。

教えられなくても、大路さんがこの花達を大切に扱ってくれているのだと感じた。

諏訪さんからもらった感動が残っていたせいか、その花を見ても込み上げてくる感情があった。


「そのお花、つれて帰ってくださるんですね」


「当たり前じゃない。とっても可愛いガーベラだもの。家でも飾らせてもらうわよ?だってこんなに明るいお花が部屋にあると、見てるだけで元気になっちゃうと思わない?」


それを聞いたわたしは、また後でほっぺたをつねらなきゃと思った。

ほんの思いつきでやったことが、相手にここまで喜んでもらえたなんて、”いいこと” 以外のなにものでもないから。


だからこのあと、”悪いこと” が起こらないようにと、プラマイ0の法則を実行しなくちゃと思ったのだ。


お見舞いに来た女性社員のことでマイナスになっていた気持ちが、水間さん、大路さんのおかげで一気にプラスになって、貯金までできた気分だった。



けれど……



ご主人と帰っていく大路さんを見送り、仕事が休みの水間さんと別れを告げ、諏訪さんの部屋に戻ったとき、わたしは諏訪さんに尋ねられるまで、”諏訪さんのために飲み物を買う” という当初の目的をすっかり忘れていたのだった。












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