プラマイ0(ゼロ)の法則(2)
特に意図せず、ただその場から離れたかっただけのわたしは、気がつくと、ICU側にある休憩コーナーに来ていた。
ここはフリースペースだけどあまり人がおらず、気持ちを整えるにはもってこいの場所かもしれない。そう思ったわたしは、ベンチに吸い寄せられるように腰をおろした。
本当はこんなところで休んでる場合ではないのに。
お茶を買うと言って出てきてるのだから、あんまり帰りが遅くなると、諏訪さんに変に思われるかもしれない。
変に思われるだけならともかく、心配なんてかけてしまったら、まだ本調子でない諏訪さんにどんな負担になることか……
考えすぎるわたしの癖は、“早く行け” とわたしを責め立てる。
それは分かってるのだ。
財布しか持ってきてないから、連絡のしようもないし、だったらさっさと買い物を済ませて諏訪さんの病室に戻るべきで。
だけど、さっきの彼女達の会話が、わたしの足をすくませるのだ。
ガクガクと震えるわけではないけれど、血の気がさがっていくような、そんな感覚。
『でも諏訪さんと和泉さんなんて、全然イメージじゃないです』
『あんな普通っぽい子、諏訪さんの相手できるんですか?』
『二人の間に共通の話題なんてなさそうだもの』
彼女達の言ったことはどれも正しい。
誰に言われるまでもなく、わたし自身が諏訪さんと不似合いである自覚があるのだから。
そして彼女達には、あからさまな悪意はなかった。
だけど悪意がないぶん、それは彼女達の嘘偽りない本心なのだろう。
幸い、わたしが諏訪さんと付き合いはじめたことはまだ知られていないようだけど、もし知られたらどうなるのか………
嘘偽りのなかった本心が、悪意混じりの噂話に変わる日も、そう遠くはないかもしれない。
でももちろん、彼女達の気持ちもわたしには理解できてしまうのだ。
だって、わたしも、浅香さんに対してマイナスの感情を持っていたのだから。
わたしは、心が小石を拾っていくように、少しずつ、けれど、どんどん重さを増やしていくのを止められなかった。
そしてネガティブの渦に引き込まれそうになったとき、
条件反射的に、右の頬をつまんでいた。
諏訪さんとわたしが釣り合っていないなんて分かりきっているのだから、今みたいな批判や陰口は覚悟しなくちゃいけないんだ。
たとえ悪口言われても、諏訪さんの意識がなかったとき、諏訪さんと二度と会えないかもしれないと不安になっていたときに比べたら、ずっとずっといい。
……それでも、やっぱりネガティブ癖は脱却できなくて。
もうこれ以上、悪いことがありませんように―――――――
そんな気持ちをこめて、頬をグイッと引っ張った。
人差し指と親指ではさんで、伸ばせるだけ伸ばしたそのときだ。
「あら?和泉さん?」
まったく気配のなかった背後から声をかけられた。
不意打ちの出来事に、ギクッとして振り仰いだわたしに笑顔を見せたのは、私服姿の水間さんだった。
「あ……、こんにちは」
「こんにちは。こんなところでどうしたんですか?」
「ええと、それは……」
わたしは答えに詰まってしまう。
けれど、観察力がある水間さんには、なにか心当たりがあるようだった。
「…そういえば、諏訪さんにお見舞いの方がいらしてるみたいですね」
言いながら、水間さんはわたしの隣に座った。
「ご家族や許可された人以外はご遠慮願ってるんですけどねぇ」
困りましたね…という風に、水間さんは苦笑いをした。
「……諏訪さん、すごく人気がある人だから」
「そうですねぇ。でも、そんな人気者が彼氏だなんて、和泉さんも鼻高々ですよね」
水間さんは、苦笑いをにっこり笑いに変えた。
てっきり、”人気者が彼氏で大変ですね” そんなセリフがくると思ったけれど、水間さんは ”鼻高々” という言葉を使ったのだ。
わたしは、一瞬だけ返事に迷ってしまった。
YESと頷くと、なんだか恋人の人気ぶりに優越感を持ってるようにも聞こえるかもしれないし、NOと答えたら、諏訪さんのことを否定することになるかもしれない……
あれこれ考えて、思考がぐるぐる迷走をはじめるけれど、
諏訪さんがほめられたことには違いない。
迷走しながら、その事実だけを掴んだわたしは、
「……そうですね。自慢の彼氏です」
素直に認めたのだった。
「あら、今日は ”彼氏” を否定しないんですね」
ささいなところまでつついてくる水間さん。
昨日までのわたしなら、「そういう関係じゃありません」とか言って否定してたはずだから、水間さんからしたら、どういう風の吹き回しなんだと不思議に感じるのだろう。
けれど、昨日からそういう関係になったということを、なんとなく内緒にしておきたかったわたしは、曖昧な反応でやり過ごした。
水間さんはそれとなく察したのか、そこは大人の対応で流してくれた。
「で、そんな素敵な彼氏を放っておいていいんですか?」
ん?と、首を傾げながら訊かれて、わたしはその視線から逃げてしまった。
「………会社の方が、いらしてるので……」
「でも、お見舞いはお断りしてるはずですよね?だったらすぐに帰られるんじゃないですか?」
「そうなんですけど……」
返事をぼやかすと、水間さんはちょっと遠慮がちに、「もしかして…」と言った。
「もしかして、あの女の子達の話、聞こえてました?」
その質問に、わたしはバッと水間さんを凝視してしまう。
「ふふ。和泉さんは嘘が吐けないタイプですよね」
そう言って、水間さんは細かく笑う。
わたしは誤魔化すことも頭を過ったけれど、これまでの水間さんとのやり取りを思い出し、この人を誤魔化すのは難しいと観念した。
「………あの人達の言ってたことは、きっと、その通りだと思うんです。諏訪さんがすごく人気があるのは、自慢でもあるんですけど、そんな素敵な人のとなりにいるのがわたしなんかでいいのかなって、わたし自身も思ってますから」
誰かに話してみると、我ながら、後ろ向きで、ネガティブで、卑屈だなと、改めて思った。
こんな暗い話をされても、水間さんだって困ってしまうだろう。
そんな申し訳なさも湧いてくるけれど、水間さんは「もう!」と、明るく憤慨してみせた。
「また ”わたしなんか” って言ってますよ?昨日お話ししたじゃないですか。意識が戻らない諏訪さんを毎日一生懸命看病してらした和泉さんを、なんか呼ばわりできませんって」
「それはお聞きしましたけど……」
「諏訪さんのことを本当に気にかけていないと、あんな毎日病室に通うなんてできませんよ。諏訪さんだって、和泉さんにとても感謝してるって仰ってましたよ?」
「え?諏訪さんが?本当ですか?」
思いもよらないことを教えられ、わたしは水間さんに食いつくように尋ね返した。
「ええ。昨日みなさんが帰られてから、少しだけお話ししたんですけど、そのときに。諏訪さん、本当に和泉さんのことが好きなんですね。短い時間でしたけど、ほとんどが和泉さんの話題でしたから」
クスクス笑いを浮かべながら水間さんは説明してくれたけれど、わたしは聞いてるうちに体が熱くなっていった。
いったい、諏訪さんは水間さんにどんな話をしたのだろう………
もちろん、諏訪さんが変なことを話すとは思ってない。でも、やっぱり自分の知らないところで自分の話をされていたとなると、否応なしにネガティブ癖にスイッチが入ってしまうのだ。
すると水間さんがクスクス笑いをピタリと止めて、
「赤くなったり青くなったり、和泉さんは感情豊かですね」
感心するように言った。
”感情豊か” だなんて、そんなことを言われたのははじめてで、わたしは戸惑ってしまう。
考えすぎる性格のせいで落ち込みやすい方だとは自覚していたけれど……
「そう、ですか?…そんなことないと思いますけど……」
「そんなことありますよ。感情豊かで、それから、たぶん、ちょっとネガティブ?」
違いますか?
水間さんはからかうでもなく、だけど深刻さは微塵もなく、ただ優しく訊いてきた。
わたしは、数える程度しか顔を合わして会話してない水間さんに ”ネガティブ” と指摘され、にわかには驚いたものの、自分の後ろ向きなセリフや態度じゃ、ばれないほうがおかしいか…と、変に納得してしまった。
「ネガティブ、ですね」
おかしくもないのに、笑ってしまう。苦笑いなのか、呆れ笑いなのかはわたしにも区別できなかった。
明るくておおらかな水間さんには、わたしみたいなネガティブ思考は想像もできないんだろうな。
そう思ったけれど、水間さんからは意外な言葉が返ってきたのだった。
「じゃあ、私と一緒ですね」
「え?」
「やだ、そんなにビックリしないでくださいよ」
水間さんは面白そうに笑い声をあげる。
「でも水間さんは、いつも明るくておおらかというか……」
「それは仕事中だからですよ。患者さんに暗い顔は見せられませんからね。実際はあれこれくだらないことで悩んですぐに落ち込んでしまう、面倒なタイプのネガティブなんです」
あっけらかんと打ち明ける水間さん。
本当にネガティブな人は、こんな風に朗らかに自分がネガティブだと名乗らないとは思うけれど、ネガティブのタイプや度合いにもよるのかもしれない。
多少訝しく思ってしまったわたしは、それが顔に出ていたのか、水間さんが続けてネガティブエピソードを披露してくれた。
「実は私、少し前に役職に就いたんですね。それは嬉しかったんですけど、私に務まるのかが不安になってしまって、すごく精神的に参ってたことがあるんです。もともとマイナス思考、ネガティブなところがあったおかげで、夜も眠れなくなっちゃったりして……。だけど、容赦なく明日は来るんですよね。やることは盛りだくさんで、患者さんのことには失敗は許されない。もういっぱいいっぱいになってたとき、昨日お話しした、ほっぺたをつねるジンクス、というか、おまじない?を教えてもらったんですよ」
水間さんがそう言ったことで、わたしも、昨日の水間さんとの会話を思い出した。
あのあと諏訪さんが目を覚ましたり色々あったので、水間さんと話した内容は、わたしの中ですっかり小さくなっていたけれど、それはそれで、結構な衝撃だったはずで。
だって水間さんは、蹴人くんと同じ ”プラマイ0(ゼロ)の法則” を教えてくれたのだから。
もしかして、水間さんと蹴人くん、二人はどこかで繋がっているのだろうかと、そんな疑問を持ったのだ。
昨日はその疑問を尋ねる前に、水間さんがナースコールで呼ばれてしまったけれど、今は仕事中ではなさそうだし、ちょうどいいチャンスだ。
「あの、そのほっぺたをつねるジンクスなんですけど…」
わたしが問いかけると、水間さんはパッと顔を輝かせた。
「あ、もしかして和泉さんも、さっきここでやってました?」
「え?」
「ほっぺた、触ってませんでした?」
「あ、いえ、それはそうなんですけど……」
「諏訪さんと何かいいことがあったから、厄払いの意味で、ですか?それとも……、今いらしてるお見舞いの人達のせい?」
観察力のある水間さんからの質問返しに、わたしはギクリとした。
蹴人くんとはまた違う種類だったけれど、心の中を見抜かれるというのは、やっぱり動揺してしまう。
別に悪いことを考えているわけじゃないのに、この人の前では嘘が吐けないのだと、おかしなプレッシャーみたいなものを感じるのだ。
わたしは両手の指を絡ませて握り、その動揺を宥めようとした。
すると、わたしが言い淀んだように見えたのか、水間さんはフッと、空気を変えるようなため息を吐いた。
そして、
「あら大変。話の途中だけどそろそろ行かないと」
今気付いたという風に、わざとらしく腕時計を見て呟いたのだった。




