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プラマイ0(ゼロ)の法則






諏訪さんの意識が戻った日、ご両親が病院に来られたのは夜も遅い時刻だった。

取るものも取り敢えず急いで駆け付けたのが一目でわかったのは、お父様の靴下が左右でデザインが違ったからだ。

『お父さんはドジねぇ』と笑うお母様も、携帯とテレビのリモコンを間違えて持ってきてしまったとかで、午前中は静まりかえっていた病室がたくさんの笑い声で満たされたのだった。


わたしはお二人からとても丁寧なお礼の言葉と菓子折りをいただき、戸倉さん、白河さんと一緒に病室を後にした。


戸倉さんの車で自宅まで送ってもらう最中、二人から休みなくあれこれ質問された。もちろん、諏訪さんとのことだ。


二人が病室に戻ってきたときは、わたしはベッドから降りて諏訪さんのそばに立っていたのだが、雰囲気でばれてしまったらしい。

断っておくけど、その時にはわたしの赤面はおさまっていた……と思う。

二人が言うには、諏訪さんのわたしに対する態度が全然違ったのらしい。

つまり、戸倉さんと白河さんにばれてしまったのは、諏訪さんが原因なのだ。


諏訪さんの気持ちをずっと前から知っていた戸倉さんはともかく、まったく知らなかった白河さんは、半信半疑ながらも ”何かあったのかな?” と思っていたところ、戸倉さんからそれらしいことを教えられて、納得半分、驚き半分だと感想を述べた。


病室では諏訪さんがほとんど口を割らなかったので、帰りの車内でわたしが集中砲火を浴びたかたちだ。


わたしも前から諏訪さんのことを好きだったのか、とか、どんな風に告白されたのか、とか、戸倉さんが訊いてくることはまるで女性社員のランチに出てくるような内容で、『そんなこと和泉さんからは言えませんよ…』と恋人をたしなめる白河さんも、どこか楽しげだった。


結局わたしは、『諏訪さんとお付き合いがはじまった、のかな……?』と、曖昧な返事に終始したのだった。


それでも、二人からの追及は、困ったなと思う傍らではくすぐったさもあって、それはとても楽しい時間だった。



一人きりになったあと、また、あの悪い癖が出てくるまでは。





自宅に戻ると、当然、一人きりで。


部屋の明かりさえついていない真っ暗な空間に一歩足を踏み入れると、いつものことなのに、その静寂が、なんだか妙に思えた。


さっきまでの賑やかな会話が、どこかに吸い取られてしまったような感覚がして、その隙間からは、いつものごとく、マイナスに、マイナスにと働く、考えすぎる癖が疼きはじめていた。


それでもわたしは、今日の信じられない出来事達をネガティブには染めたくなくて、お腹にキュッと力を加えていた。

なぜそうしたのかは分からない。もしかしたら、無意識のうちに、そうすることで幸せな記憶や楽しかった時間を留めていられると思ったのかもしれない。

とにかく、諏訪さんとのことを、幸せな気持ちのままで守りたかったのだ。


わたしのそんな想いが強かったのか、この夜は、疼き出した悪い癖はそれ以上酷くなることはなく、シャワーを浴びたり、明日の準備をしているうちに、いつの間にか消えていってくれたのだった。


本当に、”いつの間にか” だった。


なぜなら、わたしが悪癖の不在に気付いたのは、翌朝、目が覚めてからのことだったから――――――――




※※※※※




諏訪さんが意識を戻して、そしてわたしと諏訪さんの想いが通じあった日の翌日、日曜日。

わたしは朝から諏訪さんを訪ねていた。


そこには諏訪さんのご両親がいらして、しばらくの時間、お話をさせてもらった。

諏訪さんのご実家は洋食屋さんを営んでいて、ご両親はお二人揃って毎日お店に出てらっしゃるそうだ。

お二人は謙遜されたが、諏訪さんの説明ではなかなかの繁盛ぶりらしく、何日もお店を人任せにするのは良くないとのことだった。


「もうオレは大丈夫だから、早く帰りなよ」


やっと意識が戻った息子からそう言われて、ご両親はショックを受けるかと思いきや、


「そう?じゃあそうするわね」


そう言って、すんなり受け入れたのには、ちょっと驚いてしまった。



面会時間になると、警察の人が事情を聞くためにやって来て、ご両親も立ちあった。

けれど、それが終わると、


「それじゃ和泉さん、郁弥のことよろしくお願いしますね」


と言い残し、お二人揃って帰っていかれた。

その慌ただしさといったら、吹き抜ける風のようだった。


そして病室にはわたしと諏訪さん二人きりになったけれど、その時間はごく短いものだった。

戸倉さんが来たからだ。


「さっき駅で諏訪のご両親を見かけた気がしたけど、買い物にでも行かれたの?」


部屋に入りながら尋ねてきた戸倉さんに、諏訪さんは起き上がって答えた。


「もう帰ったよ」


「え?昨夜来たばかりだよね?」


「店があるからな」


「ああ、洋食屋だっけ?」


戸倉さんは諏訪さんのご実家のことも知っているようだ。

二人の仲のよさが垣間見できた気がした。


「それより、白河さんは一緒じゃないのか?」


諏訪さんがさりげなく話題を変えた。

戸倉さんは持っていた荷物をソファに置いてから、くるりと振り返った。


「今日は親戚の結婚式なんだよ。二人によろしくって言ってたよ。あ、和泉さん、これ差し入れ。好きなんでしょ?」


戸倉さんがソファに置いた袋から取り出したのは、わたしのお気に入りの洋菓子だった。


「わあ…、ありがとうございます。白河さんからお聞きになったんですか?」


「うん。今朝送ったときに駅の中にお店があったから。どうせ今日も朝から来てると思ったしね」


戸倉さんがにっこり笑ったそのときだ、


トントン、と病室の扉をノックする音があった。



「はい」


諏訪さんが返事すると、ほんのわずかに扉を開いて、看護師が顔をのぞかせた。


「おはようございます。諏訪さんにお見舞いの方が来られてるんですが……、ちょっとよろしいですか?」


看護師はなにやら困惑ぎみの様子で、それを受けた戸倉さんが扉口に向かった。


戸倉さんは扉から顔だけを廊下に出し、看護師と小声で何かを話していたけれど、「え?」と、その一言だけは大きく発した。

そして一旦扉を離れると、諏訪さんとわたしに、


「ちょっと出てくるよ」


と告げて、急いで部屋から出ていったのだった。



わたしと諏訪さんは顔を見合わせて、互いに何があったかわからないという表情をした。


「…わたし、見てきましょうか?」


遠慮がちに問うと、諏訪さんは少し考えてから、「いや、いいよ」と答えた。


「何があったか知らないけど、あいつがなんとかするだろ」


二人の間には絶対的な信頼感もあるのだ。

そうなるとわたしなんかが出る幕ではない気がして、わたしは諏訪さんと一緒にここにいることにした。

けれど、しばらくして、病室の冷蔵庫を開いたわたしは、飲み物がなくなったことに気付き、『お茶なら飲んでもいい』と医師から許可されていた諏訪さんのためにも、売店に買いにいくことにした。


諏訪さんも「ありがとう、助かる」と笑って送り出してくれたから、わたしは、まったくの無防備で、財布だけを持って外に出てしまったのだ。


おとなしく諏訪さんの病室で待ってればよかったと後悔したのは、それから間もなくのことだった。




「……して、ダメなんですか?」

「私達だって諏訪さんが心配なんです!」

「どうして和泉さんだけお見舞いできるんですか?」


諏訪さんと自分の名前が聞こえてきて、反射的に、足を止めてしまった。


売店のある1階に降りるため、ICUがある病棟とは反対側の階段に向かう途中、曲がり角の手前で聞こえてきた会話は、複数の女性のものだった。


「さっきも言っただろう?和泉さんはここからすぐのところに住んでるから、会社から諏訪の様子を見るように言われてるんだよ」


いつもの優しい口調で彼女達に答えたのは、やはり戸倉さんだった。


「そんなのずるいです」

「ただ近所に住んでたからなんて、理由になりませんよ」

「それに、もう諏訪さんの意識が戻ったなら、和泉さんが来る必要ないですよね?」


「諏訪の意識が戻ったのは昨日なんだよ?まだベッドから降りられない状態で、こんなに大勢のお見舞いは受けられないよ。きみたちが来てくれたことはちゃんと伝えるし、諏訪が元気になったら、また来てくれるかな」


戸倉さんが穏やかなのをいいことに、女性達は言いたい放題という感じにしゃべりたてている。


「今日も和泉さんが来てるんですか?」

「違う部署の和泉さんより、同じ課の私の方が諏訪さんの役に立てると思いますけど」

「もしかして、和泉さんも諏訪さん狙ってるんじゃ……」


「こらこら。きみたちも大人なんだから、狙うとかそんな言い方しちゃだめだよ」


「でも諏訪さんと和泉さんなんて、全然イメージじゃないです」

「私もそう思います。あんな普通っぽい子、諏訪さんの相手できるんですか?逆に和泉さんに重荷になってるかもしれませんよ?」

「諏訪さんだって迷惑してるんじゃないですか?だって二人の間に共通の話題なんてなさそうだもの」



あからさまな悪口ではないものの、好意的とは言いがたいセリフの連続に、わたしの胸が傷つかないはずなかった。


きっと戸倉さんなら、彼女達のクレームをスマートな返しで終わらせるに違いない。

そう思っていても、わたしは、もうこれ以上の会話を耳にしたくなかった。


だから、クッと息を詰め、逃げるように、来た廊下を戻ったのだった。











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