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大切な人の願いごと(2)






「蹴人くん……ですか?」


どうしてここで蹴人くんの名前が出てくるのだろう。

もしかして、わたしが蹴人くんに諏訪さんのことをお願いしたと、知ってるのだろうか?


「ほら、あの駅で迷子になってた男の子」


「それは分かりますけど、どうして蹴人くんにも報告するんですか?」


わたしが、諏訪さんの意識が戻ったことを報告するならわかる。蹴人くんにそう願ったからだ。

けれど諏訪さんが蹴人くんに報告しなくちゃいけないことなんてあるのだろうか?


諏訪さんはわたしから目をそらして宙を見上げながら、なんて答えようか思案しているようだった。

でもすぐに、スッと視線をわたしに戻して言ったのだ。



「実は……、オレが和泉さんを好きなことが、蹴人くんにもバレてたんだ」


「え?」


「子供だって侮れないな。駅で話してたとき、オレが和泉さんを無意識に気にしてたことを指摘されたよ。『お兄ちゃん、あのお姉ちゃんが好きなんやろ?』って言われた」


「蹴人くんが……」



わたしにも、同じようなことを言っていた蹴人くん。


無邪気に人の心の中を読んでくる蹴人くんなら、諏訪さんの心も覗いたかもしれない。

そして、そこにいたのは、わたし、だった……?


そう思った瞬間、ドッと赤面が倍増した。



もちろん、蹴人くんは人の心が見える、なんて知らないであろう諏訪さんは、まさか自分の心を読まれたなんて、想像もできないに違いない。

わたしは、自分だけが知っている蹴人くんの秘密に、ちょっとした罪悪感が疼いてしまった。


「あの、……そういえば、諏訪さんは、蹴人くんになにをお願いしたんですか?」


罪悪感を蹴散らすため、というわけではないけれど、わたしは咄嗟に話をそらした。

これで、あきれるほどの赤面もひいてくれるのではと期待もしながら。



諏訪さんは上を向いていた顔をわたしに戻し、じっと見つめながら、クスリと、思い出し笑いのように目を細めた。


「和泉さんの幸せだよ」


「え?……わたし?」


無口でとっつきにくいと思われることもある諏訪さんの、こんなに甘い表情、ごくごく一般的な想像力しか持ち合わせていないわたしは、夢に見ることもできなかっただろう。


そんな甘やかな諏訪さんに、わたしの赤面はおさまるどころか、そこに心臓の速打ちも追加されてしまう。

つまり、内心はドキドキでいっぱいだ。



「そうだよ。蹴人くんに、今心の真ん中にいる人のことを願うように言われたんだけど、残念ながら、具体的に思いつくほど和泉さんのことを知らなかったから、”幸せ” みたいなアバウトな願いになったんだ」


センスないだろう?


諏訪さんは自嘲した。


けれどわたしは、諏訪さんの自嘲に頷けるはずなかったのだ。

だって、やっぱり諏訪さんの心の真ん中にいたのは、わたしだったのだから。

本人からそう告げられ、心が跳ねないわけないのだ。


それに、わたしが願ったのも、”諏訪さんの幸せ” だった。

正確には、”諏訪さんの意識が戻りますように” だったけれど、人の命にかかわることは受け付けられないと蹴人くんに断られてしまい、他に諏訪さんを救えるようなことを…そう考えたとき、”諏訪さんの幸せ” が浮かんできたのだ。


そのときのわたしは、諏訪さんの幸せは浅香さんとの結婚だと思い込んでいた。

だけど、例え自分の想いが届かなくても、諏訪さんが意識を取り戻して、幸せになってくれるならそれでいいと思えたのだ。


ということは、もしかしたら、諏訪さんも、わたしのことをそんな風に想ってくれてたのだろうか?


「……あの、諏訪さん?」


「うん?」


「諏訪さんは、わたしが諏訪さんのことを好きだとは、知らなかったんです、よね……?」


恐る恐る尋ねてみた。

だって、わたしの幸せを願うということは、わたしが別の人と付き合うことになったかもしれないのに。

それでも、諏訪さんは、”わたしの幸せ” を願ってくれたのだろうか。

わたしの幸せが何なのかを知ることもなく。


諏訪さんは、質問に答えるよりも、ただただじっと、わたしを見つめてきた。

そして、


「それが、聞きたかった―――――」


絞り出したような声で、そう呟いたのだった。



「え…?」


訊き返したわたしを、諏訪さんは包み込むような表情で迎えてくれる。


「目が覚めてから、和泉さんがはじめて言ってくれた。好きだって」


「あ……」


反射的に、わたしは自分の口を両手で塞いでいた。

すると諏訪さんはベッドの端をトントンと叩いた。ここに座れということだろうか。


わたしは戸惑いながらも、白い掛け布団の上に軽くもたれかかった。

とても諏訪さんの顔を見ることはできなくて、まっすぐ前を向くと、廊下につながる扉が。

今、この扉から戸倉さんと白河さんが入ってきたら、きっと誤魔化すのは無理だろう。


今までとはまた違う種類のドキドキがしてきた。


けれど諏訪さんはこの構図を楽しむように、クイとわたしの腕を引いてくるのだ。

つられて、わたしは諏訪さんの方に顔を向けた。


「オレが、今どれだけ幸せな気分かわかる?」


諏訪さんの眼差しは、今にも溶けだしてしまいそうなほどに柔らかい。


「和泉さんから言ってくれるのを待ってたんだ。オレから訊いたり、言わせたりはしたくなかったから」


何度もわたしの腕を撫でてくる諏訪さん。


「オレは今日まで、和泉さんがオレのことを好きでいてくれてるなんて知らなかった。……だから、もし、オレが蹴人くんに言った願いが叶ったとして、それで和泉さんがオレ以外の別の誰かと付き合いだしたとしても、それでよかったんだ。……いやよくないよ?よくないけど、和泉さんが幸せで、笑っていられるなら、それが一番いいと思ったんだ」


まあ、相手の男がオレよりいい男じゃなかったら奪いたくなってただろうけど。


冗談っぽく言ってみせるけれど、甘い雰囲気の中、その言葉だけは、やけにクリアに感じた。



「だからオレは、和泉さんが誰を想っているかに関係なく、和泉さんの幸せを蹴人くんにお願いしたんだ」


わたしは今、諏訪さんから、何度目かの告白をされている気分だった。


さっき諏訪さんは、今自分がどれだけ幸せな気分かわかるかと訊いてきた。

でもそれは、わたしにこそ当てはまるセリフなのだ。



「……わたしも、諏訪さんの幸せをお願いしました」



打ち明けたわたしに、諏訪さんは目を大きく見開いた。

わたしは間をおかずに続けた。


「実は、蹴人くんが、あの朝駅で会った以降も何度もわたしのところに来てたんです」


「何度も?」


「はい。諏訪さんのところにも行ってたんですよね?」


「一度だけ来たけど」


「わたしはなかなかお願いを言わなかったので、何度も来てくれたようです。それで、そのときわたしも、蹴人くんに『あのお兄ちゃんのこと好きなんやろ?』と言われて……」


蹴人くんの関西弁を真似てみたけれど、どうしてもエセっぽく聞こえてしまう。

けれど諏訪さんはそれを笑ったりすることはなく、


「あのお兄ちゃんって、オレのこと?」


期待あふれる声で尋ねてきた。


「もちろん、そうです」


もう躊躇う必要はなかったわたしは、素直に認めた。


「蹴人くんは、諏訪さんのこと、”オレンジジュースのお兄ちゃん” て呼んでました」


「オレンジジュースのお兄ちゃんか……」


満更でもなさそうに諏訪さんは笑う。

あの朝、駅で蹴人くんに紙パックのオレンジジュースを渡したことを覚えているのだろう。


諏訪さんの鞄からオレンジジュースが出てきたのはびっくりしたけれど、今はその理由も教えてもらっているので、微笑ましい記憶の1ページである。



「……それで、なかなかお願いを決められなかったわたしに、蹴人くんは、諏訪さんの幸せをお願いしたらいいんじゃないかと言ったんです。でもちょうどその頃、諏訪さんと浅香さんの結婚の話を聞いてて、それで、わたし………諏訪さんみたいに、自分の好きな人が自分以外の人と幸せになるなんて、とても近くで見ている自信がなくて………」


諏訪さんと比べて、自分はなんて弱い人間なんだろう。

ネガティブとかマイナス思考とか別にしても、わたしは…わたしの気持ちは、狭量で、自分本位だった。

こんなことを話して諏訪さんに見損なわれないか、嫌われないか、不安が襲ってくる。


けれど諏訪さんは、俯いたわたしの横髪を、そっと耳に掛けてきた。

耳をかすめる諏訪さんの指先に、ゾクリとしてしまうわたしがいた。


「そんなに、オレのことが好きだったわけだ」


嬉しそうな声が転がり落ちてくる。


「……でもわたしは、諏訪さんみたいに自分の気持ちを後まわしにして相手の幸せを願うことができなかったんです」


「それだけオレのことを真剣に想ってくれてた証拠だろ?それに、最終的にはオレの幸せを蹴人くんに願ってくれたんだろう?」


マイナスなわたしに、プラスの息吹を与えるように、諏訪さんは優しく笑いかけてくれた。



「それはそうですけど、でも結局、諏訪さんが事故に遭って意識をなくすまでは蹴人くんに何もお願いできなくて、諏訪さんがこのままいなくなってしまうって……その恐怖感を持って、やっと蹴人くんにお願いを伝えられたんです」


「過程は、今はどうでもいいよ。和泉さんが、オレの幸せを蹴人くんに願ってくれた。それだけが事実だから」


話しながらわたしの髪に触れていた諏訪さんの指が、するりと背中をすべり、わたしの手首におりてくる。


「ありがとう……」


その言葉が耳に届くとほとんど同時に、グイッと引き寄せられ、わたしは、諏訪さんの腕の中に閉じ込められてしまった。


「あ……」


「これくらい、許して」


うなじにかかる諏訪さんの息に、わたしはまたゾクリとして、心臓のドクドクが諏訪さんにまで伝わってしまいそうで、過呼吸になったのかと思うくらい胸部に圧迫を感じて苦しくなる。


「でも……」


「これ以上はしないから」


戸惑いを口にしかけたわたしに、諏訪さんは宥めるように言った。


ここは病院で、諏訪さんは今日意識が戻ったばかりで………

さっきも同じように思ったはずなのに、どうしてだか今は、”これ以上のこと” もされてみたい感情が芽生えてきていた。


なぜだろう……


すぐにはその差が分からなかったけれど、諏訪さんの腕の中の居心地の良さにも慣れてきた頃、なんとなく、その答えに思い当たったのだった。



それはたぶん、諏訪さんが蹴人くんに言った ”お願い” を知ったからだ。


わたしの ”お願い” は、諏訪さんの幸せ。

諏訪さんの ”お願い” は、わたしの幸せ。


そしておそらく、諏訪さんの幸せはわたしの幸せで、わたしの幸せは諏訪さんの幸せ。

つまり、二人の想いが叶うことが、二人にとっての幸せだったのだろう。


わたしはそのことで、気持ちの矢印がお互いに向き合っていたのを実感したのだ。



ああ…、諏訪さんが言ったように、わたしも早く蹴人くんに報告したくなったな。

諏訪さんと、気持ちが通じたよって。

背中を押してくれて、ありがとうって。


諏訪さんの胸に心ごと全部を預けながら、わたしは、あの小さな不思議な男の子のことを思っていた。

けれど、はじめて感じる諏訪さんの心臓の音は、わたしを心の底から安堵させて、いつの間にか、わたしはすっかり、その伝導に夢中になっていたのだった。











二話同時更新いたしました。

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