大切な人の願いごと
諏訪さんの目がわたしをとらえて、わたしが諏訪さんの眼差しから逃げられなくて。
二人の視線が絡まり合っているのは変わらずだけれど、そこに、わたしの熱が伝導していくようだ。
だって、そんなの、信じられないもの。
あの諏訪さんが、わたしを?
そんなのあり得ない。諏訪さんはみんなから絶大な人気があって、わたしみたいに片想いしてる人もとても多くて、だから本当はわたしみたいな一社員が気安く話せる相手ではないはずで、なのになのに、その諏訪さんが、わたしを?
頭では理解できても、感情が追い付かないわたしは、分かりやすすぎるほどにはっきりと、パニックを起こしていた。
「オレ、割と分かりやすい行動してたと思うんだけど」
わたしはまだまだ信じられない気持ちが強くて、諏訪さんに対して会話らしいセリフを返せない。
けれど、
「戸倉や浅香にはすぐにバレたくらいだし」
何気ない感じで出された名前には、反応しないわけにはいかなかった。
「え……、浅香さんも、ご存知だったんですか?」
反射的に訊き返したわたしを、諏訪さんはフッと笑う。
「やっと話してくれた」
「あ………」
してやったりという満足顔の諏訪さんに、わたしはばつが悪い気持ちになり、ただ素直に「………すみません」と謝った。
すると諏訪さんも「オレこそごめん」と返してくれた。
諏訪さんが謝ることなんて何もないのに。
そんなわたしの考えを察知したのか、今度は諏訪さんがばつ悪そうに言った。
「オレ、たぶん、浮かれてるんだ」
「……どうして、ですか?」
キュッと締まっている喉をどうにか震わせて、わたしは尋ねた。
「和泉さんがいるからだよ」
きっぱりと言い切る諏訪さん。
「眠ってる間、ずっと和泉さんの声が聞こえていた。和泉さんがオレに『好き』と言ってくれて、意識が戻ったとき、いちばんはじめに目に入ったのが和泉さんだった。これで浮かれるなっていうのが無理だろ?」
そんなこと訊かれても、素直に頷けるはずもない。
わたしは、わたしの告白が諏訪さんに伝わっていたことに、嬉しいというよりも、途方もない恥ずかしさが上回っているのだから。
けれど、幸せそうに言った諏訪さんが肘を使って体を起こそうとしたそのとき、ちゃんと力が入らずに、枕に逆戻りしてしまいそうになったのを見て、
とっさに、わたしは恥ずかしさなんて忘れ、腕をのばしていた。
「大丈夫ですか?」
諏訪さんの背中に手を差し込み、支えるつもりで、もう一方の手を肩にかけた。
けれど、
「―――-―っ」
思っていた以上に接近していた顔と顔に、ハッとしてしまった。
こんなに近くに諏訪さんがいるなんて、信じられない。
あの諏訪さんの目がわたしだけを見ているなんて、考えられない。
けれどなぜだか視線を外すことはできなくて。
数秒、見つめあったままの沈黙が続いて、
それから、諏訪さんが向こう側の手でわたしの頬に触れて、
その綺麗な顔がさらに近付いてきて―――――――――
キスされる。
その予感に、思わずギュッと、両目を瞑った。
諏訪さんのまとっている気配とか、体温とか、吐息とかが接触寸前までに寄って、もう、唇が触れる――-―そう感じたそのとき、
ヴーヴー、ヴーヴー、
突然鳴り出したバイブ音に、わたしも諏訪さんもビクッと体を震わせたのだった。
「あ……ごめん」
「いえ………」
お互いにちょっとぎこちない動きで、顔を逸らした。
気まずい空気が一筋流れてくる。
「………オレの携帯だ。まったく、誰だよこんなときに……」
小さく文句を呟きながら枕元に置かれた携帯を手にした諏訪さんは、画面を見るなり、ハァ…とため息をこぼさずにはいられなかったようだ。
「……戸倉からだ。[1時間ほど出てくるから、二人でごゆっくり]」
メッセージを読み上げながら、それをわたしに見せてくれる。
諏訪さんが読んだのと一言一句違わない文面がそこにあった。
「気を遣ってくれたんだろうけど、ちょっとタイミングが問題だったよな」
独り言のようにモゴモゴと口にする諏訪さん。
わたしは、さすがに、それが何を意味するのかは分かったけれど、だからといって、どんな返事が正解なのかまでは分からない。
今はそれよりも、徐々にわたしの心中で増してくるパニック度への対応に必死だったのだ。
だって、キス、しかけたのだ。
あの諏訪さんと。
本当にキスしようとしたの?
わたし、今キスしかけた?
ずっと片想いしていて、でも叶わないと諦めていた、その諏訪さんとキスなんて………
いやもちろん、わたしは諏訪さんが好きで、諏訪さんもわたしを好きと言ってくれてるなら、キスだって問題はないはずで。
なのにこんなに混乱してしまうのは、きっと、まだ現実に気持ちが追いついてないせい……なのだろうか?
でもそれはわたしの事情で、諏訪さんは何も知らないのだから、キスひとつでこんなに狼狽えてたりしたら、気を悪くさせてしまうんじゃ………
”考えすぎる癖” + ”ネガティブな性格” が、嫌となるほど束になってわたしを取り囲もうとしてくる。
そもそもここは病室で、しかも諏訪さんは意識が戻ったばかりで、そんな人相手にキスだなんて。
いや、そうはいっても、さっきは諏訪さんからしようとしてきたわけだし………
だけど、今さっき気持ちを知ったばかりなんだから、いきなりこんな展開はいかがなものだろう。
でも諏訪さんは大人の男の人だもの。わたしだって大人の応対をしなくちゃ笑われてしまうかもしれない。中高生じゃあるまいし、キスのひとつやふたつに戸惑ってどうするの。
………いや、わたしは諏訪さんが好き、諏訪さんもわたしを好き、ここまでは確認できたとして、それで、わたしたちの関係は、どうなったわけ………?
「和泉さん?」
今にも頭をフルスロットルで回転させようとしていたわたしを、諏訪さんは、たった一言で、急速ブレーキかけてしまう。
「……はい」
”キスの距離” からは遠ざかったものの、まだ至近距離であることには変わらず、わたしが諏訪さんの顔を見ると、またさっきの続きになりそうに思えた。
けれど、
「ごめん。その……ちょっとがっついてしまって」
苦笑いを浮かべながら、諏訪さんは優しく言ってくれたのだった。
「いえ、そんな、大丈夫です、全然…」
慌てて答えたわたしに、諏訪さんは「じゃあ、」と、微笑みに意味深長な色を混ぜた。
「キスして、いい?」
「え?」
諏訪さんはまたわたしに手を差し出してきて、
わたしは、それを受け取らないわけにはいかなくて。
「オレが和泉さんを好きなのはもう伝わっただろ?和泉さんも、オレを好きだと言ってくれた。だから…」
指と指が絡まり、繋がって、和泉さんの眼差しが熱を帯びてくるのを見つけた。
諏訪さんと、わたしが、キスなんて……
でも、いい、のかな?
こんな場所で、誰かが突然入ってくるかもしれないし、なにより、元気そうに見えるけれど諏訪さんはまだ本調子ではないだろうし、さっきだってちょっとよろけていたし、そんな諏訪さんに無理をさせるのは良くない。
でも、諏訪さんがわたしを好きだと言ってくれている以上、断ったりしたら、諏訪さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれない………
でもそもそも、わたしと諏訪さんは、”恋人” ということになるの?
はっきりそう言われたわけでもないし、だいたい、わたしが眠ってる諏訪さんに言った告白は有効と考えてもいいわけ?
とどまることを知らないわたしの思考は、ぐるぐると回っては行き詰って、YESもNOも決めることはできなかった。
こんなの、ただの優柔不断にしか見えないのに、それでもわたしはなにも答えられない。
すると、いきなり諏訪さんがフッと噴き出したのだ。
「ごめん、そんなに真剣に答えに困るなんて思わなかったから」
諏訪さんはつないだ手を逆の手でポンポンと撫でてくれる。
「大丈夫、もうこれ以上は迫らないから。今、こうして手をつなげるだけでも、オレにとってはすごい進展だし」
感慨深げに言われると、恥ずかしさとかよりも、ただ単純に嬉しいと思う気持ちに心の天秤は傾いていく。
諏訪さんの言葉や態度、そのどれもが、わたしへの好意を裏付けているのだとは思う。わたしだって、それをまったく感じないわけじゃない。
それでも、わたしはまだ信じられない思いの方が大きくて。
けれど、そんなわたしの心情を見抜いたように、諏訪さんが言ったのだ。
「ここにいる限りは迫らないけど、オレが和泉さんを好きだということは覚えておいてくれる?」
そのダメ押しのような一言に、わたしは、もしかして諏訪さんも蹴人くんみたいに心の中が読めたりしないよね…と穿ちながら、コクン、と頷いた。
すると諏訪さんは満足げな顔をして、
「それにしても和泉さん、すっごく赤い顔してる。戸倉が戻ってきたら、一発でばれそうだな」
わたしの手を離しながら、話題を変えようとしてくれた。
「それは、諏訪さんが……」
「オレのせい?」
可笑しそうに訊いてくる声には、明らかにわたしの反応を楽しんでいる感がある。
わたしだって、自分でもどうしようもないくらいに赤面してる自覚はあるけれど、コントロールなんてできないのだからしょうがないのだ。
すると諏訪さんは笑みをさらに濃くして、
「困ってる和泉さんの顔、こんなに近くで見るのははじめてだな」
まるでずっと探してた宝箱を見つけたみたいに、歓喜を乗せて言ってくる。
”無口な諏訪さん” は、いったいどこへいったというのだろう。
わたしは内心で不思議がってしまうけれど、当の諏訪さんはそんなことには気付いていないのか、上機嫌なまま話を続けた。
「でもどっちにしろ、戸倉には和泉さんのことで心配かけたし、ちゃんと報告はしないとな。それと浅香にも。あとは…蹴人くんにも報告できたらいいんだけど」
難しいかな?
こちらに問いかけるかたちで締めくくられたセリフに、わたしは「え?」と声をもらしていた。




