みんなの願いごと
『みんなの ”お願い” を1個かなえてあげるよ!』
そう言った男の子に、一番最初に合わせてあげたのは女性だった。
「あらあら、ボクはみんなのお願いごとを叶えられるの?」
すごいわねぇ。
感心するような褒め方に、男の子は「うん!」と誇らしげだ。
けれど、
「あ、ぼくな、蹴人って名前やねん。だから ”ボク” じゃなくて、蹴人って呼んでほしいな」
幼児口調なのにしっかりと、けれど愛らしく訂正した。
「しゅうとくん?かっこいいお名前ねぇ」
「ありがとう!お父さんがサッカー好きで、ぼくがお母さんのお腹ん中にいるとき、しょっちゅうお母さんのお腹蹴ってたから、蹴るって字と人って字で蹴人って名前になってん」
よほど自分の名前を気に入ってるのだろう。男の子…蹴人くんは、満面の笑みで説明してくれた。
「いい名前だね」
男性がまっすぐに褒め言葉を投げた。
こちらも子供との接し方を熟知しているような印象だ。
二人が蹴人くんと会話を弾ませる傍らでは、諏訪さんが、その様子を黙ってうかがっていた。
その顔には朝の会議を気にしているのか、少しの不安色が混ざっていて、わたしまで心配になってきた。
だけど蹴人くんはマイペースに話を続ける。
「それでな、お父さんとお母さんがいつも言ってるねん。”ありがとう” と ”ごめんなさい” は必ず伝えようって。だから、ぼくは、”ありがとう” の気持ちをこめて、みんなのお願いごとをかなえてあげることにしてん」
「みんなって、ここにいる全員の?」
「うん!あ、でも……、実は1個だけ条件があるねん」
蹴人くんは男性に答えたあと、神妙に、付け足した。
「条件って、なぁに?」
わたしが問うと、蹴人くんがパッとわたしに視線を向けた。
「―――――それはな、”自分以外の人の願いごと” じゃないとアカンねん」
………自分以外?
意外な答えが返ってきて、わたしは無言で蹴人くんを見つめた。
すると、
「うん、そうやで!自分以外の人やで」
まるでわたしの心の中の疑問を見抜いたように、蹴人くんはわたしに告げてきたのだ。
「え、……わたし、今声に出てた?」
「ううん。でもお姉ちゃんがびっくりした顔してたから、たぶん、そう思ってるんちゃうかなって」
慌てて訊いたわたしに、蹴人くんはけらけらと笑う。
「そっか…。わたしの心の中が分かるのかと思っちゃった」
少しおどけてみせると、蹴人くんはハハハハッと、さらに笑った。
わたしと蹴人くんのやり取りに、女性も声をあげて笑った。
「やだ、そんなわけないじゃない。ねえ?」
同意を求められた男性は「いや、分からないですよ?子供は敏感だから」なんて、冗談半分のセリフで応じる。
全員がほぼ初対面なのに、そうとは思えないくらいの和やかな雰囲気に包まれていた。
ところが諏訪さんは、
「あー…蹴人くん、だったね?」
ひとり声のトーンを下げて蹴人くんに話しかけたのだった。
「うん、そうやで。どうかしたん?」
「ごめんね、オレは仕事の時間に遅れそうだから、もう行かなくちゃいけないんだ」
「え、ホンマにもうちょっともアカンの?」
優しく謝る諏訪さんに、蹴人くんは大きく眉を曲げる。
「ごめん。遅刻してしまいそうなんだ」
諏訪さんはもう一度謝ると、「それじゃ後はよろしくお願いします」とわたし達に言った。
「ええ。さっきも言いましたけどここは大丈夫ですから、後は私達に任せて、どうぞ行ってください」
真っ先に諏訪さんに答えたのは女性だ。
「遅れないように、もう行ってください」
男性が言った後、諏訪さんはわたしに目を止めた。
”君は本当に大丈夫なのかい?” と無言で問われているような気もするし、”どこかで見かけた顔だな” と観察されているようにも感じられた。
咄嗟に、わたしは何言わなきゃと、「ええと…」と言葉を宙に溶かしてしまったけれど、
「…行ってらっしゃいませ」
じっとわたしの目を見てくる諏訪さんに耐え切れず、俯きがちにそんなことを口走ってしまったのだった。
だって、黙って見つめる諏訪さんはかっこよすぎて心臓がもたなそうだったし、おまけに諏訪さんの表情は読みにくいから、何て返すのが正解か分からないんだもの。
無愛想というほどではないにしても、わたしの片想いの相手は、ややポーカーフェイス、何を考えているのか顔に出にくいタイプなのだ。
でもテンパったにしても、『行ってらっしゃいませ』なんて、ちょっと……
すると諏訪さんはフッ、とあたたかく笑った。
「うん、行ってきます」
そう返されて、わたしは耳まで熱が走りきるのを感じた。
なんてトンチンカンなことを言ってしまったんだろう……
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
穴があったら頭から滑り込んでしまいたいくらいの羞恥を堪えていると、時間が迫っている諏訪さんは、わたしから他の三人へ顔を向けて言った。
「それでは、お言葉に甘えて先に行かせていただきます。蹴人くん、じゃあね」
「あ、お兄ちゃん!まだお願いごと聞いてへんよ!」
ビジネスバッグを持って颯爽と去ろうとする諏訪さんに、蹴人くんが甲高く呼びかけたけれど、よほど急いでいたのか、諏訪さんは済まなさそうに片手をあげただけで、蹴人くんに立ち止まることはなかった。
だけどわたしの前を通り過ぎるときにはちょっとだけ速度が落ちたように感じて、そしてそのときにまたクスッと笑われたような気がして、わたしは諏訪さんの顔を見ることができなかった。
「お仕事間に合うのかしら?なんだか忙しいビジネスマンっぽい人だったものね」
「……そうですね」
「それにしてもイケメンさんだったと思わない?」
「そう、ですね…」
わたしに話しかける女性は、まるで思春期の女の子が憧れの先輩の噂話を耳打ちしてくるようなテンションだった。
楽しげで、でもあまり大きな声では言えないような、女子らしい秘匿色だ。
すると、残念そうに諏訪さんの後ろ姿を見送る蹴人くんの隣で、男性が「もしかしたら、あの人………」と、ちょっと考えるような仕草をしたのだった。
「どうかしましたか?」
諏訪さんがどうかしたのだろうか。
気になって訊いたわたしに、男性は傾げていた首を戻した。
「あの人、もしかしたら取引先の方かもしれません」
「あら、お知り合いだったの?」
「いや、仕事上のやり取りはないんですけど、あのルックスですし、目立ってらしたので。…確か営業の方で、社内一の優秀な方だと聞いたような気がします」
記憶の中を探っているのか、男性は言葉を選んでいるように見えた。
この人は、うちの会社と取引のある人だった―――――どうりで、わたしも見覚えがあったわけだ。
でも、直接関わりのない取引先の人にまで噂が届いてるだなんて、やっぱり諏訪さんは普通とは違う人なんだな………
わたしは、改めて、片想い相手の凄さを教えられた気がした。