わたしの願いごと(5)
大路さんと別れて諏訪さんの病室に戻ると、そこは、今の大路さんとの会話が同じ世界の出来事ではないような、深い静寂に支配されていた。
「…ただいま戻りました」
ベッドの諏訪さんに告げ、重たい花瓶をテーブルに置いた。
それから諏訪さんに向き直り、
「あの、諏訪さん?お見舞いのお花、欲しいと仰る方がいらしたので、2本だけ差し上げました。黄色のガーベラです。諏訪さんに無断ですみません」
花束の持ち主である諏訪さんに、事後報告した。
当然、返事があるわけない。
ただ静けさが返ってくるだけで、わたしはソファに腰をおろしながら、大路さんとのやり取りを思い返していた。
わたしからガーベラを受け取った大路さんは、クリスマスプレゼントの包装紙を破く子供のように嬉しそうに、可愛らしく興奮していた。
迷ったけど、やっぱり差し上げてよかったな。
じんわりと、その想いがわたしの中に染み入ってくるようだった。
諏訪さんのことを羨ましいと言われて、ちょっと苛立ちも覚えたけれど、それ以外は大路さんはとてもいい人そうだった。
だから―――――――
そこまで考えたとき、わたしは、突然に、自分の癖でもある ”極度のマイナス思考” が発動されていないことに気が付いたのだった。
以前のわたしなら、諏訪さんの許可もないまま初対面の人に諏訪さんあての花を渡してしまったことを、きっとネガティブに捉えていただろう。
そして、悩んだり後悔したり反省したり自分を責めたり、そんな気持ちの騒がしさに今頃は疲弊していたに違いない。
なのに今、不思議とそういう感情が浮かんでこないのだ。
パッと、花瓶の花達に目をやった。
黄色の2本が減っただけでも、以前と色の配分が変わって印象も違って見える。
ささいな変化が、また別の変化を生んでいく………
わたしは花瓶からベッドの諏訪さんに、殊更ゆっくりと、視線を移した。
諏訪さんの事故や、意識障害のことがあったせいだろうか。
これ以上悪いことが起こりようがない――――――そんな変なリミッターを感じているのかもしれない。
昔、何かの本で読んだことがある。
人は、大きな悩みを抱えていても、それよりももっと大きな問題に対峙すると、以前の悩みは忘れてしまうのだと。
何かいいことがあっても、その代わりに何か悪いことが起こるんじゃないか……そう不安に思っていた普通の日々が、実際は、どれだけ恵まれていたかなんて、こんなことになるまでは考えもしなかった。
諏訪さんと浅香さんの婚約に大きなショックは受けたけれど、それでも、諏訪さんがこんな風になってしまうことと比べたら……ううん、比べるまでもなく、二人の婚約にショックを受ける方が、ずっとましに決まってる。
わたしのショックなんて、たかが失恋だもの。いくら大きなショックでも、例え絶望だと感じ、寝込んだとしても、命に関わることじゃない。
だけどこのままじゃ、諏訪さんは…………
わたしは胸の前で手を結び、そこに額を付けた。
諏訪さん、早く目を覚ましてください。
浅香さんと一緒にいる姿を見るのが辛いと思っていたけど、わたしは、諏訪さんが幸せならそれでいいから。
例え新婚の二人と毎日顔を合わせることになったとしても、それでも構わない。
諏訪さんの意識が戻って、浅香さんと結婚して、元気で幸せなら、本当にそれでいいから。
そう思えるようになったから。
だから、もう起きてくださいよ。
胸が軋むほどの想いをこめて、誰にでもなく、そう訴える。
大切な人の不幸せが、こんなに辛いものだとは、今まで想像もできなかった………
するとそう思った瞬間、ふわりと、わたしの心の中に舞い降りてきた人がいた。
それは、蹴人くん。
人の命に関係することは、かなえてあげられない、そう言っていた。
でも、”わたしの大切な人の幸せ” という願いなら、かなえてくれるんじゃ………
「蹴人くん!」
そう思ったらいてもたってもいられなくて、ソファから立ち上がって名前を呼んでいた。
これまで、蹴人くんに会うときはいつも蹴人くんに待ち伏せされていたから、こちらから呼んだところで、会いたいと思ったところで、来てくれるかどうかは分からない。
わたしの声が届くのかさえ想像もできないのだから。でも、
「蹴人くん?蹴人くん!」
いつもいつも、神出鬼没に現れる蹴人くん。
どこからやって来るのか分からず、わたしはキョロキョロと部屋中を見回しながら呼び続けた。
「蹴人くん、いないの?わたしの声が聞こえない?蹴人くん!」
徐々に、声が大きくなっていく。
眠ってる諏訪さんには申し訳ないけど、わたしはとにかく蹴人くんに会いたかった。
「蹴人くんっ!」
けれど、あの高い声の関西弁は聞こえてこない。
やっぱり、わたしから呼び出すのは無理だったのだろうか……
わたしが呼ぶのをやめると、ひたひたと、静寂の世界が舞い戻ってくる。
だが、
「………なんや、お姉ちゃん、どないしたん?」
わたしの焦燥感とは似ても似つかない、のんきな蹴人くんの声が、背後から聞こえたのだった。




